ペリクレス

ペリクレスは、前444年から前430年のアテナイの民主政全盛期に活躍した人物です。下級役人や貧民への徹底した支援・補助を推進した民主派指導者として知られるほか、優れた弁舌家でもあり、彼がペロポネソス戦争に際しアテネ市民の決起のため行なった演説は、現代においても欧米政治家の手本にされるほどです。

 

 

ペリクレス時の経歴

前5世紀頃までのアテナイは貴族と平民からなる身分制社会で、政治に参加できるのは貴族だけでしたが、ペルシア戦争後、漕ぎ手や重装歩兵として勝利に貢献したことで、平民の政治参加要求が大きくなっていきました。既得権益を守りたい貴族派閥はその声を跳ね除けますが、平民の声に耳を傾ける「民主派」という勢力が台頭するようになります。その先頭にたっていた人物がペリクレスです。

 

内政

彼は着々と市民の支持を集めつつ、陶片追放で政敵を排除するなどし地盤を固め、将軍職(ストラテゴス)の地位に上り詰めます。そして前451年、両親がアテネ市民であることを市民権の必要条件とする「ペリクレスの市民権法」を成立させ、アテナイの民主政を完成させたのです。彼が将軍職に就任していた前444年から430年までの15年間はアテナイ全盛の時代で、「ペリクレス時代」とも呼ばれています。

 

外交

ペリクレスは内政を落ち着かせるだけでなく、ペルシアとはカリアスの和約(前450年)を、スパルタなどギリシア諸外国とは30年間の不可侵条約を結ぶなど、平和維持にも努めました。一方、アテナイ中心の同盟から抜けようとしたポリスに過剰な圧力をかけるなどする強行な姿勢もみられ、これがのちのペロポネソス戦争への導火線にもなっています。

 

戦争

ペリクレスは、ペルシア戦争後に結成されたデロス同盟における同盟資金を自国の発展につぎ込み、防衛費や建築費、海運維持費にあて、国の地盤を堅固なものとしました。しかし強大化した国力を背景に、他のポリスへ服属を迫るなどアテナイの帝国化を推し進めたため、このやり方に反発し同盟から離反したポリスとの対立から、前431年、ギリシア全土を巻きこむペロポネソス戦争へと突入していくことになるのです。

 

死去

ペリクレスが没したのはペロポネソス戦争の最中のこと。序盤は戦いを優位に進めていたアテナイですが、陸上戦ではスパルタにことごとく敗れ、都市を完全に包囲されてしまいます。ひとまず籠城策で海上決戦の機会を見ていましたが、不運なことに封鎖された空間で伝染病が大流行。ペリクレス含む全体の三分の一にも及ぶ市民が犠牲となってしまうのです。疫病蔓延と指導者の死という不運に見舞われ、前404年にはスパルタに対し降伏を余儀なくされました。

 

ペリクレスの死因は?

なおペリクレスの死因となった疫病の正体は長らくペストだと言われていましたが、記録に残る症状の分析から、現在この説は否定され、実際はチフスもしくは天然痘が原因であったとする説が有力になっています。

 

 
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