ホロコースト

ホロコーストとは、第二次世界大戦中(1939〜1945年)に行われた、ナチスによる、主にユダヤ人を対象とした絶滅政策、組織的なジェノサイド(集団殺害)のことです。ヨーロッパの長い歴史の中で、「虐殺」と称される事件は多々ありますが、ホロコーストはその中でも最も特異かつ大規模(推定500万〜600万人が犠牲)、残虐無慈悲な出来事として記憶されています。

 

 

ホロコーストの語源

「ホロコースト」は、今でこそ「ユダヤ人大量虐殺」の意で通っていますが、ナチスによるジェノサイドが行われる以前は、「火災による絶滅」を意味する言葉でした。何故ならもともとは、「獣を丸焼きにして供物として捧げる」という古代ユダヤの慣習にもとづく、「焼かれた生贄」を意味するギリシア語に由来しているためです。それが大戦中、ナチスが「ユダヤ人を生きたまま焼いて殺している」という噂が広まったため、「ユダヤ人大量虐殺」を意味する言葉として「ホロコースト」が使われるようになったのです。

 

「ホロコースト」は、もともとユダヤ教徒の神聖な儀式を指す言葉であったことから、この言葉を「ユダヤ人迫害」を意味する言葉として使うことに批判的なユダヤ教徒もいます。

 

ホロコーストの原因

第二次大戦中、ナチス・ドイツがヨーロッパを席巻する中、「劣った人種」とみなされたユダヤ人は、隔離施設に押し込められ、劣悪な環境による病死や飢餓、ガス室などによって、少なくとも500万〜600万人が殺害されました。

 

この悲劇の原因はナチスだけに求められるものでなく、長年ヨーロッパ社会に渦巻いていた反ユダヤ主義にもとづくユダヤ人に対する憎悪感情・差別意識も大きいといえます。少なくないヨーロッパ人がナチスの残酷な所業を黙認、もしくは加担していたのです。

 

 

ホロコーストの歴史

ナチスによる差別政策

ナチスは1920年の結党時から反ユダヤ主義を掲げて勢力を拡大し、30年代に入ると世界恐慌による社会不安を背景にますます増長していきました。そして33年、ついに政権を獲得すると、「ニュルンベルク法(1935年)」を始め、ユダヤ人に対し徹底した差別政策(公民権はく奪・資産没収・公職者追放)を実施し、その生活基盤を破壊していったのです。

 

38年には併合したオーストリアにも同じ政策を適用、イタリアやハンガリーといったファシズム国家もドイツをモデルに反ユダヤ法を制定し、第二次大戦勃発までに、ヨーロッパで居場所をなくした何十万人というユダヤ人が、アメリカなどに国外脱出を余儀なくされました。

 

ゲットーへの強制隔離

しかし第二次世界大戦が始まると国外脱出すら不能な状態となります。ユダヤ人は「ゲットー」と呼ばれる劣悪な隔離区域に押し込められ、身動きの許されない囚人のような扱いの中、飢餓や病気に苦しめられるようになるのです。ナチス・ドイツのヨーロッパ席巻にともない、迫害の対象となるユダヤ人は日増しに増えていきました。

 

「最終的解決」

1942年「最終的解決」により、ヨーロッパ中のユダヤ人がゲットーや強制収容所へと移送されていきました。健康なユダヤ人は強制労働に従事させられ、利用価値がないとされたユダヤ人はガス室(消毒室に偽装)、人体実験、銃殺などで殺害されたのち、遺体を焼却処分されたのです。

 

大戦末期にはユダヤ人による反乱も起きましたが無慈悲に鎮圧され、徹底した粛清により、終戦までにヨーロッパに住む三分の二のユダヤ人が殺害されました。虐殺は連合国により強制収容所が解放されるまで続き、その中心地はとりわけユダヤ人が多かったポーランドでした。

 

連合国による解放

1945年5月ナチスドイツは降伏し、連合軍によりユダヤ人収容施設は解放されました。戦後主犯格は処刑され、アドルフ・アイヒマンのような逃亡者もいましたが、徹底した追跡のもと、ほとんどが捕まり厳しく処断されています。

 

この大戦を通して、ユダヤ人だけでなくロマ族身体障碍者も迫害の対象とされ、犠牲者の総数は1000万人にものぼるといわれています。終戦から現在にいたるまで「ホロコースト」というものは、ヨーロッパ史上はおろか世界史上でも類を見ない、最も冷酷かつ残虐な行為として記憶されているのです。

 

ホロコーストの記録

『夜と霧』『アンネの日記』など体験者による著作、ホロコーストの博物館「ヤッド・バシェム」などでホロコーストの生々しい実態は記録されています。前者は今も書籍として売られているため、興味がある方は是非買って読んでみてください。

 

 
ページの先頭へ戻る