
アンドラの国旗
アンドラの国土
アンドラ(正式名称:アンドラ公国)は 西ヨーロッパ・イベリア半島の フランスとスペインに挟まれたピレネー山脈山中に位置する 立憲君主制国家です。国土は 7つの教区(パロキア)で構成され、気候区は 地中海性気候に属しています。首都は標高1409mという高所にあり、「古いアンドラ」を意味する アンドラ・ラ・ベリャ。アンドラ唯一の都市でもあります。
流通通貨はユーロで、歳入は観光が90パーセントを占めています。小規模ながら工業も行われており、繊維業(スカーフや毛布など)、タバコ製造、家具製造などが主です。
そんな アンドラの歴史は、9世紀にフランク王カール大帝に建設されたスペイン辺境領のウルヘル伯領から始まるといえます。成立以来スペインとフランスがこの地を巡り争いますが、13世紀末に和約が結ばれ共同統治に。20世紀末に新憲法を制定・主権国家として独立して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなアンドラの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
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フランク王国のスペイン辺境領ウルヘル伯領が成立し、アンドラの原型となった。アンドラはシャルマーニュが創設した辺境領としては唯一現代にまで存続する国でもある。
アンドラの宗主権がウルヘル伯からウルヘル司教に移行する。
ウルヘル司教とフォア伯との間で、両者をアンドラの共同統治者と位置づける宗主契約が結ばれる。ここで確定した国境は現代にいたるまで変わっていない。
アンドラ史上初の議会が設置される。
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婚姻によりアンドラの統治権がブルボン家に渡り、1589年、ブルボン朝初代王アンリ4世の即位にともない、アンドラはフランスによる支配を受けるようになる。
フランス王とウルヘル司教がアンドラの共同大公となったことで、アンドラは公国に転換した。
ブルボン王政に対する民衆の不満が爆発し、フランス・パリにてフランス革命が勃発する。
フランス革命の結果、革命政権が樹立し、ブルボン王政は崩壊。ルイ16世は処刑される。アンドラは革命政権を承認しなかったため、フランスとの関係が悪化。フランスはアンドラを自国に併合しようと画策したが、アンドラの外交努力によりそれは阻止された。
ナポレオンがフランス皇帝に即位したことでフランスとの関係が修復され、フランス元首との共同統治体制(共同君主制)が再開された。しかし1812年から13年にかけて、アンドラを含むカタルーニャ地方全域がフランスに併合された。
ナポレオンの失脚にともない、ブルボン家が王政復古を果たし、国王勅令によりアンドラの独立は回復した。
ナチス・ドイツのポーランド侵攻を発端として第二次世界大戦が勃発。アンドラは中立の立場をとったが、戦争中スペイン軍が駐留し、ドイツ傀儡のヴィシー政権との密輸ルートとして利用された。
住民と労働者の権利を保証する為、議会民主主義性を採用する憲法を可決。これが決め手となり国際的に独立国の承認を受け、国際連合への加盟が認められた。
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