アンドラの歴史年表

アンドラの国旗

 

アンドラの国土

 

アンドラ(正式名称:アンドラ公国)は 西ヨーロッパ・イベリア半島の フランススペインに挟まれたピレネー山脈山中に位置する 立憲君主制国家です。国土は 7つの教区(パロキア)で構成され、気候区は 地中海性気候に属しています。首都は標高1409mという高所にあり、「古いアンドラ」を意味する アンドラ・ラ・ベリャ。アンドラ唯一の都市でもあります。

 

流通通貨はユーロで、歳入は観光が90パーセントを占めています。小規模ながら工業も行われており、繊維業(スカーフや毛布など)、タバコ製造、家具製造などが主です。

 

そんな アンドラの歴史は、9世紀にフランク王カール大帝に建設されたスペイン辺境領のウルヘル伯領から始まるといえます。成立以来スペインとフランスがこの地を巡り争いますが、13世紀末に和約が結ばれ共同統治に。20世紀末に新憲法を制定・主権国家として独立して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなアンドラの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

 

古代アンドラ

古代アンドラの歴史は情報が限られていますが、ローマ帝国の支配下では、ローマの道路網やその他のインフラが整備され、地中海貿易の一翼を担っていました。また、ローマ法が及ぼした影響も無視できず、後のアンドラの法制や社会構造に大きな影響を与えました。しかし、西ローマ帝国の崩壊とともに、この地域も外部からの侵入を受け易くなり、次第にフランク王国や後のカロリング朝の影響を強く受けるようになりました。

 

中世アンドラ

中世アンドラの特徴は、独自の政治構造と地理的な特性によって形作られました。803年にウルヘル伯領としてフランク王国の辺境地域に成立し、アンドラは長い間この地域の政治的な発展に影響を受けました。1133年にはウルヘル司教が宗主権を獲得し、さらに1278年の二重領主権条約によってウルヘル司教とフォア伯の共同統治が始まりました。この条約により確定した国境は今日に至るまで維持されています。1419年にはアンドラ史上初の議会が設置され、これにより地方自治の基礎が築かれました。アンドラは小規模ながらも、独特の政治体制と自然環境が保護され、中世ヨーロッパの政治風景の中で一定の独立性を保つことができました。

 

803年 ウルヘル伯領の成立

フランク王国スペイン辺境領ウルヘル伯領が成立し、アンドラの原型となった。アンドラはシャルマーニュが創設した辺境領としては唯一現代にまで存続する国でもある。

 

1133年 ウルヘル司教による支配

アンドラの宗主権がウルヘル伯からウルヘル司教に移行する。この重要な変更は、ウルヘル司教がアンドラの宗主権を獲得した11世紀後半に発生した。これにより、司教座教会がアンドラの政治的な支配者としての地位を固め、地域の統治構造における教会の役割が強化された。この移行は、後の共同統治体制の基礎を形成することになる。

 

1278年 国境の確定

ウルヘル司教とフォア伯との間で、両者をアンドラの共同統治者と位置づける宗主契約「二重領主権条約」が結ばれる。ここで確定した国境は現代にいたるまで変わっていない。

 

1419年 議会の設置

1419年、アンドラ史上初の議会が設置された。この議会は「大評議会」と呼ばれ、地元の指導者たちが集まり地域の法律や政策を決定する役割を担った。この議会の設立は、アンドラにおける自己統治の重要なステップであり、後の民主的な治理体制へと発展する基礎を築いた。

 

この時期の議会設立は、地域の自治と中央集権からの独立性を高めるための重要な動きでした。

 

近世アンドラ

近世(16世紀から18世紀)のアンドラは、フランスとスペインの影響を強く受ける時代でした。1589年、フランスのブルボン家がアンドラの統治権を持つことになり、アンリ4世の即位によりフランス王国の支配が確立されました。1607年にはフランス王とウルヘル司教が共同でアンドラの大公となり、アンドラ公国が正式に成立しました。この共同統治体制は、アンドラの政治的安定に寄与しました。

 

経済的には、アンドラは主に農業と牧畜に依存しており、穀物、ワイン、羊毛の生産が中心でした。地理的な孤立性と険しい山岳地帯は外部の影響を制限し、アンドラの独自性を保つ要因となりました。

 

1789年のフランス革命により、ブルボン王朝は崩壊し、フランスとの関係は緊張しました。アンドラは革命政権を承認しなかったため、フランスとの関係が悪化し、フランスがアンドラを併合しようとする試みがありましたが、アンドラの外交努力によりこれは阻止されました。

 

この時代のアンドラは、フランスとスペインの共同統治のもとで平和と安定を保ちつつ、独自の文化と伝統を維持し続けました。

 

1589年 フランス王国の支配

婚姻によりアンドラの統治権がブルボン家に渡り、1589年、ブルボン朝初代王アンリ4世の即位にともない、アンドラはフランスによる支配を受けるようになる。

 

1607年 アンドラ公国の成立

フランス王とウルヘル司教がアンドラの共同大公となったことで、アンドラは公国に転換した。

 

1789年 フランス革命

ブルボン王政に対する民衆の不満が爆発し、フランス・パリにてフランス革命が勃発する。

 

1793年 フランスとの関係悪化

フランス革命の結果、革命政権が樹立し、ブルボン王政は崩壊。ルイ16世は処刑される。アンドラは革命政権を承認しなかったため、フランスとの関係が悪化。フランスはアンドラを自国に併合しようと画策したが、アンドラの外交努力によりそれは阻止された。

 

近代アンドラ

近代アンドラ(19世紀から20世紀)は、政治的な変動と国際的な地位の確立が特徴的です。1806年、ナポレオンがフランス皇帝に即位すると、アンドラとの関係は修復され、フランス元首との共同統治体制が再開されました。しかし、1812年から13年にかけて、ナポレオンによるカタルーニャ地方の併合により一時的にフランスに組み込まれました。1814年にナポレオンが失脚すると、ブルボン家が王政復古を果たし、アンドラの独立が回復されました。

 

1936年から1939年のスペイン内戦や、1939年から1945年の第二次世界大戦の間、アンドラは中立を保ちましたが、スペイン軍の駐留やヴィシー政権との密輸活動が行われました。

 

1993年には憲法が制定され、議会民主主義体制が確立しました。これにより、アンドラは国際的に独立国家として承認され、国際連合にも加盟しました。1994年には欧州評議会に加盟し、1995年には日本との国交を樹立しました。

 

このように、近代アンドラは政治的安定と国際的な地位向上を図りつつ、独自の文化と伝統を維持し続けた時代でした。

 

1806年 フランスとの関係修復

ナポレオンがフランス皇帝に即位したことでフランスとの関係が修復され、フランス元首との共同統治体制(共同君主制)が再開された。しかし1812年から13年にかけて、アンドラを含むカタルーニャ地方全域がフランスに併合された。

 

1814年 独立を回復

ナポレオンの失脚にともない、ブルボン家が王政復古を果たし、国王勅令によりアンドラの独立は回復した。

 

1936年 スペイン内戦(〜39年)

1936年、隣国スペインで内戦が勃発し、アンドラにもその影響が及んだ。この期間、アンドラは中立を保ちつつも多くの難民を受け入れ、政治的な圧力が増大した。スペイン内戦はアンドラの政治的な安定に影響を与え、国内の安全保障に対する認識を変えた重要な時期だった。アンドラは小国ながら戦争の人道的側面で大きな役割を果たし、多くのスペイン人に避難所を提供した。

 

1939年 第二次世界大戦(〜45年)

ナチス・ドイツポーランド侵攻を発端として第二次世界大戦が勃発。アンドラは中立の立場をとったが、戦争中スペイン軍が駐留し、ドイツ傀儡のヴィシー政権との密輸ルートとして利用された。

 

1993年 憲法制定/国家承認/国際連合加盟

住民と労働者の権利を保証する為、議会民主主義性を採用する憲法を可決。これが決め手となり国際的に独立国の承認を受け、国際連合への加盟が認められた。

 

1994年 欧州評議会に加盟

1994年、アンドラは国際的な政治組織である欧州評議会に加盟した。この加盟はアンドラの国際的な関与を強化し、人権、法の支配、民主主義の原則を支持する国際社会の一員としての地位を確立するための重要なステップだった。

 

1995年日本との国交樹立

1995年、アンドラは日本と正式に国交を樹立した。この国交樹立はアンドラにとって重要な外交的成果であり、アジア地域との経済的および文化的な交流を拡大するための基盤を築いた。

 

アンドラは、ウルヘル司教とウルヘル伯の間で宗主権が交替された11世紀に始まる長い歴史を持っています。この地域は、スペインとフランスの間に位置し、中世には「アンドラの谷」が成立しました。1419年には自己統治のための議会「大評議会」が設立されました。1936年のスペイン内戦では中立を保ちつつ難民を受け入れ、1943年には初の憲法を採択しました。1993年には憲法を改正し、国際社会での積極的な役割を模索しました。2024年現在EU加盟国ではありませんが、1994年に欧州評議会に加盟し、国際的な協力を深めています。