そもそもローマ帝国が東西に分裂した時、帝国の政治・経済・文化の中心はすでに東方に移動していました。330年にローマからコンスタンティノープルに遷都が行われたのはそのためです。
つまりもともと東方のほうが余力があったというのに加え、西ローマ帝国のように大量のゲルマン人が大挙し定着するということもなかったので、東ローマ帝国は民族大移動期の混乱を乗り切り、存続することができたのです。
さらに東ローマ帝国の繁栄の理由として、中東や中央アジアとの交易ルートを支配していたため、東西交易により巨益を得ていたことと、エジプト・シリア・小アジア(現在のトルコ)など豊かな穀倉地帯を有しており物質的にも豊かであったことが大きいでしょう。
逆に西ローマ帝国はゲルマン人によりシチリアなどの穀倉地帯を奪われたことで経済的に破綻していました。お金がないと傭兵も雇えず、防衛もボロボロになるという悪循環に陥って、傭兵隊長オドアケルにクーデターを起こされ崩壊しました。
そして東ローマ帝国は西ローマから救援を求められていたものの、もはや西を帝国のお荷物としか考えていなかったので、「全ての負の遺産を西に押し付け切り捨てる」という選択をして生き延びたというわけです。
ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルに帝冠を差し出す西ローマ皇帝
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