481年にクローヴィス1世によって建国されたフランク王国。フランク王国は他のゲルマン人国家が次々と滅んでいくなか唯一発展した国となります。なぜ、フランク王国は発展することが出来たのか?その理由について解説します。
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発展した最初の理由にクローヴィス1世のキリスト教アタナシウス派への改宗があります。もともとゲルマン人は異端とされていたキリスト教アリウス派を信仰していましたが496年頃にクローヴィス1世はアタナシウス派へ改宗します。
これは妻クロティルがアタナシウス派であったことや、なんといっても支配地域にはアタナシウス派が多くいたことにあります。改宗によりフランク王国はローマ教会や有力貴族と密接関係になり、さらにはそして旧西ローマ帝国の先住民とも関係が良くなりました。また、即位の際にはローマ教皇によって聖別されるようになります。
クローヴィス1世の死後、フランク王国はその息子達によって4分割統治されます(フランク王国では分割相続制を採用、分王国時代)。558年にはクローヴィス1世の息子で唯一生き残っていたクロタール1世によって王国は再統一されます。しかし、この頃になると周辺地域では蜂起や反乱が起こったため、これ以上の勢力拡大は成されませんでした。
さらに561年にクロタール1世が死ぬと王国は再び分割されましたが、これ以降の王国は互いに権力争いをするようになりメロヴィング朝の王権が衰退していきます。王権が衰退する中、今度は各国の宮宰(行政のトップ)が力を持つように成ります。
その中で一際有能であったのがカール=マルテル(668年〜741年)です。カール=マルテルは718年フランク王国宮宰となった後、イベリア半島から侵入してきたイスラム勢力のウマイア朝をで撃退する偉業を成し遂げます。(732年 トゥール・ポワティエ間の戦い)この勝利はヨーロッパ全体へのイスラム勢力の侵入を阻止したものと捉えられ、フランク王国は「キリスト教世界の守護者」と呼ばれました。
カール=マルテルの死後、次男のピピン3世(小ピピンとも)は751年に国王キルデリク3世を廃位し、ローマ教皇の支持を得て自ら王位に就きカロリング朝を開きました。
クローヴィス1世のキリスト教アタナシウス派への改宗、カール=マルテルのイスラム勢力の撃退によって発展したフランク王国はカール大帝の時代に最盛期を迎えます。
カール1世(フランス名シャルマーニュ)は742年にフランク王国宮宰ピピン3世の長男として生まれます。父ピピン3世が751年にフランク王国の国王に即すると、カールは弟のカールマンとともに後継者になります。768年に父が亡くなると国の相続法に基づき王国の北部の統治者となり、771年に南部を統治していた弟カールマンが死ぬとフランク王国全体の王となりました。
フランク王国全体の王となったカールは外征を行い、774年にランゴバルト王国(現イタリア地域)、804年にサクソン人(現ドイツ北部)など征服し、最終的には現在のフランス・ドイツを中心に東はチェコ・スロバキア・ハンガリーといった中央ヨーロッパまで勢力を広げました。
また、当時宗教を巡り東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と対立していたローマ教会と良好関係を築き、800年にはサン・ピエトロ大聖堂で西ローマ帝国皇帝の帝冠を授かることでカール大帝となります。カール大帝の時代は内政・外交・宗教すべてにおいて最盛期を迎えました。
カール大帝の治世ではフランク王国最盛期を現出した。
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