独ソ不可侵条約におけるバルト三国に関する取り決め

独ソ不可侵条約におけるバルト三国に関する取り決め

20世紀のヨーロッパ史を語る上で、独ソ不可侵条約は欠かせない出来事の一つです。この条約は、第二次世界大戦の前夜、ナチス・ドイツとソビエト連邦が結んだもので、その中にはバルト三国に関する特別な取り決めが含まれていました。この記事では、その取り決めの背景や内容、そしてその後の影響について詳しく見ていきます。

 

 

独ソ不可侵条約の背景

ヨーロッパの政治的状況とバルト三国の位置

 

1930年代のヨーロッパの状況

1930年代のヨーロッパは、ナチス・ドイツの台頭とともに緊張が高まっていました。ドイツは領土の拡大を求め、隣国との対立を深めていました。一方、ソビエト連邦も西側諸国との関係が冷え込んでおり、双方が接触することで利害が一致する場面も増えていました。

 

バルト三国の位置づけ

バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)は、ヨーロッパの政治的な緊張が高まる中で、ドイツとソビエト連邦の間に位置していました。そのため、両国の政策の影響を強く受けることとなりました。

 

独ソ不可侵条約とバルト三国に関する取り決め

条約の内容とバルト三国への影響

 

条約の内容

1939年8月23日、ドイツとソビエト連邦は独ソ不可侵条約を締結しました。この条約の公然とした内容は、両国が相互に侵略しないことを約束するものでしたが、秘密裏にはバルト三国を含む東欧の国々の勢力範囲を分割する取り決めがなされていました。

 

バルト三国への影響

この取り決めにより、エストニア、ラトビア、リトアニアはソビエト連邦の勢力範囲に入ることとなりました。1940年、ソビエト連邦はこれらの国々を併合し、ソビエト社会主義共和国として編入しました。

 

その後のバルト三国

ソビエト連邦の崩壊と独立への道

 

ソビエト連邦の崩壊

1980年代後半、ソビエト連邦の政治的、経済的危機が深まる中、バルト三国は独立を求める動きを強めました。1991年、ソビエト連邦の崩壊とともに、これらの国々は再び独立国となりました。

 

独立後のバルト三国

独立後、バルト三国は西側諸国との関係を深め、EUやNATOに加盟しました。現在もこれらの国々は、独自の道を歩んでいますが、その背景には独ソ不可侵条約の影響が色濃く残っています。

 

独ソ不可侵条約は、バルト三国の歴史に大きな影響を与えました。この条約によってソビエト連邦の勢力範囲に入ったこれらの国々は、ソビエトの一部となりましたが、ソビエト連邦の崩壊後、再び独立の道を選びました。この歴史的背景を知ることで、現在のバルト三国の立ち位置や政策を理解する手助けとなるでしょう。