
キプロスの国旗
キプロスの国土
キプロス(正式名称:キプロス共和国)は、南ヨーロッパの東地中海上に位置する共和制国家です。国土はキプロス島の南部(島全体のおよそ63%)で構成され、気候区は地中海性気候に属しています。首都は東西両文明の影響を受けた歴史的建造物が多く、北キプロスの政庁所在地でもあるニコシア。
この国ではとくに観光業を中心としたサービス産業が発達しており、労働人口の6割がなんらかのサービス産業に従事しています。また古くから農業および豊富な鉱物資源を背景にした鉱業もこの国の基幹産業となっています。
キプロスは古くから海上交通の要衝として、様々な民族がその支配権を巡り、争いを繰り広げてきた歴史があります。古代から近代にかけローマ帝国・ヴェネツィア共和国・オスマン帝国・イギリスなどの支配を受け、長らく政治的独立を得られませんでしたが、1960年にようやくイギリス連邦内の自治国として独立し、キプロス共和国を成立させることができました。そしてその後、キプロス島内のギリシア系住民とトルコ系住民の間で紛争が起こった結果、北部が北キプロス・トルコ共和国として分離。これにより現在の国境が確定して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
もともとエジプトの支配下にあったが、エジプトがアケメネス朝ペルシアに征服されると同時に、キプロス島もペルシアの支配下に入った。
マケドニア王アレクサンドロス大王の死後、その後継者をめぐり東地中海諸国の有力者が争うディアドコイ戦争が勃発する。この戦争の結果、キプロスはプトレマイオス朝エジプトの支配下に入ることとなった。
エジプトを離れて共和政ローマの支配下に入り、前22年までに正式な元老院属州(キプロス属州)となった。ローマ帝国治世下において、同国の東地中海における政治・経済・軍事の要衝として発展を遂げた。
ユダヤ人の反乱が始まり、キプロスは少なくない被害を受けた。
ローマ帝国の東西分裂にともない西ローマ帝国、東ローマ帝国が成立。キプロスは東ローマ帝国の支配下に入った。
650年頃より中東から頭角を現したイスラム勢力の侵攻を受けるようになり、7世紀中にウマイヤ朝の支配下に入った。
東ローマ皇帝ユスティニアノス2世とウマイヤ朝カリフ・アブドゥルマリクとの間で、キプロスを共同統治することに合意がなされる。
国力を回復した東ローマ帝国が、再度キプロス島全土の支配権を確立した。
十字軍遠征中のイングランド軍によりキプロス島が占領される。以後キプロスはイングランド王の支配下に置かれ、遠征のための重要な前線基地となった。
十字軍国家の1つとしてキプロス王国が成立した。
十字軍による支配の中でカトリックのラテン教会が設立された。一方で長らく定着していたギリシャ正教会は迫害を受けるようになった。
キプロス島はキプロス女王カタリーナにより、彼女の祖国ヴェネツィア共和国に売却され、これをもってキプロス王国は崩壊した。
キプロス島は、15世紀来急成長を遂げたオスマン帝国により占領され、ヴェネツィア支配は終焉を迎えた。以来長らくオスマン支配が続き、トルコ人の入植が進んだが、同国は宗教寛容政策を採用していたため、ギリシャ正教の伝統は残り続けた。
ギリシャがオスマン帝国からの独立を目指しギリシャ独立戦争を起こすと、キプロス島内のギリシャ人が反乱を起こした。
露土戦争に敗れたオスマン帝国は、ベルリン会議によりバルカン諸国における利権を喪失し、キプロス島は再びイギリスの管理下に置かれることとなった。
1914年第一次世界大戦が始まって間もなくキプロス島はイギリスに併合された。戦後の25年には正式にイギリスの植民地となった。
イギリス・ギリシャ・トルコの合意のもと、キプロスの独立が認められ、キプロス共和国が成立した。
憲法改正の内容をめぐるギリシャ系住民とトルコ系住民の対立に端を発し、キプロス紛争が開始された。
キプロス島における内戦激化を受け、国際連合キプロス平和維持軍が派遣され、ギリシャ系住民とトルコ系住民の武力衝突を牽制した。
トルコがキプロスへの軍事介入『アティッラー作戦』を開始。キプロス海軍とトルコ海軍による戦闘が行われ、両軍に大きな被害が出た。
北部のトルコ系住民と南部のギリシャ系住民の衝突を避けるべく、国際連合による両勢力の緩衝地帯「グリーンライン(正式名称:国際連合キプロス緩衝地帯)」が引かれる。キプロスの南北分断を決定的なものにした。
キプロス島北部のトルコ共同体が独立を宣言し、北キプロス・トルコ共和国が成立。しかしこの国家はトルコ以外の国家から承認を受けていない。
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