パリの歴史

パリの街並み

 

パリ(Paris)は、フランス北中部に位置する同国の首都です。世界都市総合力ランキング2020で4位という世界屈指の文化・経済レベルを持つ「世界都市」の一つで、ユネスコ・経済協力開発機構(OECD)・国境なき医師団などの様々な国際機関の本部がある「国際都市」である他、凱旋門・エッフェル塔・ルーブル美術館・ノートルダム大聖堂・オペラ座など歴史的建造物を多く抱える有数の「文化都市」としても知られます。

 

そんなパリは、毎年5000万人以上の観光客が訪れる活気溢れる街で、「花の都」の名に恥じない「華やか」な街といえますが、歴史を振り返ってみれば、革命・貧困・戦争・占領・テロなど、他国の首都と比べても様々な「苦節」を経験しており、決して「華やか」なだけで語れないことがわかります。

 

 

古代パリ(〜5世紀末)

ローマ支配以前

紀元前3世紀頃、ケルト系民族のパリシイ族(Parisii) が、パリ盆地を流れるセーヌ川の中洲シテ島からセーヌ左岸にいたる地域に居住していました。

 

パリシイ族は、ローマ人からルテティア(ラテン語:Lutetia)と呼ばれたこの集落で、最初は漁労などを主な生業にしていましたが、やがてセーヌ川の水運を利用した商業を営み、栄えるようになりました。

 

ローマ支配後

現在のフランスにあたるガリアは、前1世紀に共和政ローマのユリウス・カエサルに征服され、ルテティアもローマ人の支配下に入りました。

 

その後、ローマ人により規則正しい格子状の都市計画が立てられ、公衆浴場や劇場、円形闘技場などもつくられるなど、ルテティアは高度に都市化していき、現在のパリの原型となりました。この時代の面影は、現在も遺跡として確認することができます。

 

パリの語源

 

パリの語源は、言うまでもなくパリの先住民だったパリシイ族(Parisii) の名に由来しています。前1世紀以来、ローマ植民都市ルテティアとして長らく過ごしましたが、3世紀になると、先住民パリシイ族の名をとって「パリ」に改名されました。

 

 

中世パリ(5世紀末〜15世紀)

メロヴィング朝時代

5世紀末に西ローマ帝国は滅亡。ローマ人亡きガリアには、ゲルマン民族のフランク人が居住するようになります。

 

そしてパリはフランク人の王クローヴィスに征服され、彼が創始したメロヴィング朝フランク王国(481年〜751年)の首都になりました。

 

以降王国の中心都市として経済的恩恵を受け、修道院が建てられるなど宗教の中心地にもなりました。

 

カロリング朝時代

クローヴィスの死後、フランク王国は分裂。これにより、カロリング朝(751年〜987年)の時代まで、王国におけるパリの政治的重要性は低下しました。

 

その一方で、9世紀後半セーヌ川をさかのぼり襲撃にやってきたノルマン人バイキングを、壊滅的な損害を被りながらも退けるなど、地方都市とは一線を画する地力を見せつけました。

 

カペー朝時代

10世紀末にユーグ・カペーがカペー朝(987年〜1328年)を創始すると、パリは再び王国の首都に返り咲きました。王権の伸長とともに、都市の発展も本格化していき、市街はセーヌ川右岸にまで拡大しました。

 

フィリップ2世(在位:1180年〜1223年)の治世になると、パリの周囲は城壁で固められるようになります。街路は舗装され、セーヌ川にも橋がかけられるなど、インフラ面でも充実していきました。

 

また13世紀頃のパリは学術発展も目覚ましく、のちに多くのノーベル賞受賞者を輩出する名門・パリ大学が建てられたのもこの時期です。パリは、カペー朝の時代を通して、経済的・文化的に大いに発展し、14世紀初頭には人口20万人を擁する、フランス最大にしてヨーロッパ有数の経済都市になりました。

 

ヴァロワ朝(1328年〜1589)

14世紀になると、イングランドとの間で領土をめぐる対立が生じ、百年戦争(1337年〜1453年)が勃発。その戦費調達のため、パリでは三部会が招集されるようになりました。

 

戦時中、パリは一時イングランド軍に占領されましたが、ジャンヌダルクの活躍もあり奪還に成功し、改めて王国の首都に定められました。しかし長年の戦争は社会を疲弊させ、パリの人口は激減しました。

 

 

近世パリ(15世紀〜18世紀末)

ブルボン朝

ブルボン朝(1589年〜1792年,1814年〜1830年)の初代王・アンリ4世(在位:1589年〜1610年)は、広場や病院の建設をするなど、パリで多くの公共事業を行いました。

 

17世紀は三十年戦争(1618年〜1648年)による社会的混乱(フロイドの乱など)がありましたが、ルネサンス文化が花開いた時期でもあり、商業の繁栄と合わせ、文化・文芸の都としてヨーロッパ中でその名をとどろかせるようになりました。

 

フランス革命

18世紀末に、パリ市内でバスティーユ襲撃に端を発しフランス革命(1789年〜1795年)が勃発しました。

 

革命に関連する事件の多くがパリで発生しましたが、特筆すべきは、パリ民衆の蜂起により、800年の伝統を持つ王政が崩壊し、フランス史上初の共和政体が成立したことでしょう。

 

これはフランス史における最も重要な転換点となりました。

 

近代パリ(18世紀末〜20世紀中頃)

ボナパルト朝

19世紀はフランス産業革命の時代です。下水道の整備、大通りの建設、駅の建設など大規模な都市改造が行われ、より近代的な、現在のパリに近い姿になりました。特にナポレオン3世(在位:1852年〜1870年)の治世で、セーヌ県知事ジョルジュ・オスマン(在職:1853年〜1870年)が、オスマン化と呼ばれる都市改造を行ったことは有名です。

 

19世紀を通してパリは経済的・文化的に繁栄し、人口50万人から250万人と5倍にまで増加しました。普仏戦争(1870年〜1871年)による停滞はあったものの、戦後まもなく復興祝いのパリ万国博覧会が開き、近代都市として進化したその姿を世界に見せつけました。

 

 

第三共和政(1870年 - 1940年)

20世紀に入ると工業化がさらに進み、郊外で多くの工場が稼働するようになります。パリには働き口を求める出稼ぎ労働者が殺到しました。

 

そして1914年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツ軍がパリ目前まで迫りましたが、多大な犠牲を払いながらも、フランス軍はなんとかこれを食い止めることに成功しました。しかし次の次の第二次世界大戦では、想定の裏をかいた戦略に対応できず、ナチスドイツの戦線突破を許し、パリを陥落されてしまいます。

 

ドイツに占領されている間、パリ市内ではレジスタンスが抵抗を続けていました。最終的にはアメリカの参戦で戦況が連合国側優勢に傾き、ノルマンディー上陸作戦ののち、パリは解放されました。

 

現代パリ(20世紀中頃〜現在)

第二次世界大戦において、パリは占領はされたものの、戦争の物的被害事態は少なかったので、復興にそう時間はかかりませんでした。しかし問題は長年続けた植民地主義の反動でした。アフリカ植民地のアルジェリアで、50年代、60年代に独立運動が加熱していき、やがてパリで過激派による爆破テロが起こるようになったのです。

 

社会不安が増大するなか、パリ学生の抗議運動に端を発する五月危機(五月革命)が発生し、第五共和政成立以来、盤石を誇っていたドゴール政権が退陣するなど、大きな「政変」も起こりました。

 

しかし戦後のこういった社会的混乱の中でも、多くの高名な小説家、哲学者、映画監督を輩出するなど、都市そのものは文化的に成熟していきました。郊外(バンリュー)を中心とした人口増加にともない、高速道路や鉄道が整備されるなど、開発も進みました。