冷戦期のルーマニアでは、1965年以来、ニコラエ・チャウシェスクが独裁的権力者として君臨していました。初期の彼の統治は最初は国民から支持されており、共産主義国であってもソ連とは距離を置いた「親西欧路線」を突き進んでいたことから、西側諸国からの評価も悪くありませんでした。
ニコラエ・チャウシェスク(1918 ? 1989)
「チャウシェスク王朝」とも言われた独裁体制は、権力を親族や新派で固めたというのもありますが、それ以上に国民の支持があったからこそ維持できたものなのです。
しかし社会主義体制の行き詰まりから、80年代以降経済が停滞し、生活水準が低下した国民の間で、独裁政権に対する不満が日増しに増大していきます。
しかし当のチャウシェスク大統領は「国民の館」と呼ばれる豪華絢爛な宮殿を建設するなど、困窮に喘ぐ国民を煽るような政治を続ける始末。そんな中国民の不満が爆発した結果起こったのが89年12月の「ルーマニア革命」でした。
東欧革命において、多くの国が平和的に無血による民主革命を成し遂げたのに対し、ルーマニアは少なくない流血を代償にしています
チャウシェスク大統領が民主化の動きに対し一切妥協しようとせず、武力による弾圧で政権の維持に執着したためです。
その結果、民主化運動を起こした市民と、武力鎮圧に動いた軍隊との衝突で、多数の死者が発生し、恨みを買った大統領夫妻は、失脚後、大量虐殺の罪で死刑判決を受け、即日銃殺刑に処されています。
死後もなお、遺体がテレビを通じてメディアに晒されるなどの仕打ちを受けており、大統領がどれほど国民の恨みを買っていたかを物語ってます。
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