ハンガリーの国旗
ハンガリーの国土
ハンガリーは、中央ヨーロッパの カルパティア盆地に位置し、オーストリアやクロアチアなど7カ国に囲まれた 共和制国家です。国土は 北部の丘陵性の山地、南部の低地、中央部の盆地で構成され、気候区は 温暖湿潤気候に属しています。首都は 「ドナウのバラ」として知られる ブダペスト。
この国ではとくに 製造業が発達しており、中でも自動車・自動車部品の生産がさかんです。また積極的な外国資本の受け入れを背景にした情報通信産業や金融業もこの国の基幹産業となっています。
そんな ハンガリーの歴史は、11世紀にカトリック教を信仰する王国として建設されたハンガリー王国から始まるといえます。ハンガリー王国は周辺の諸王国と同君連合を結んで中央ヨーロッパの強国となり、1867年にはオーストリア・ハンガリー帝国の二重君主として君臨します。1918年の第一次世界大戦後はオーストリアと分離しハンガリー人民共和国が成立しました。第二次世界大戦後は、ソ連の占領下に置かれ共産主義を強いられましたが、民主化運動の高まりを受けて、1989年に多党制に基づくハンガリー第三共和国が成立。現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなハンガリーの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
古代ハンガリーでは、ヴォルガ川とウラル山脈の間に広がるステップに現在のハンガリー人の祖先マジャール人が暮らしていました。彼らは遊牧生活を送り、馬術や弓術に優れていました。9世紀末にカール大帝の死後、マジャール人はパンノニア平原に進出し、現在のハンガリー地域に定住を始めました。彼らはこの地で強力な王国を築き、11世紀にはキリスト教を受け入れ、ハンガリー王国として発展していきました。
古代ローマは共和制から帝政へと移行し、初代皇帝アウグストゥスが即位した。これにより、ローマ帝国はその領土を拡大し、政治的安定と経済的繁栄を迎えた。
ハンガリーの地がローマ領に組み込まれ、パンノニア属州として統治されるようになる。この時期、ローマはインフラの整備や都市の建設を行い、地域の経済と文化の発展に大きな影響を与えた。ローマの支配により、ハンガリーの地にはローマの法律や建築様式が広まり、後の歴史における基盤が築かれた。
1世紀になるとハンガリーの地にローマ属州パンノニアが置かれた。パンノニアは、ローマ帝国の重要な辺境地域として、軍事的な要衝と商業の拠点となった。この属州にはローマの街道網や防衛施設が整備され、ローマ文化や経済の影響が地域全体に広がった。パンノニアの都市は繁栄し、ローマの影響を受けた建築や技術が導入され、後のハンガリーの発展に大きな影響を与えた。
ローマ帝国が衰退し、ゲルマン人の大移動が始まると、ハンガリーの地にゲルマン一派のゴート族が流入するようになる。
イリュリア人がペチェネグ(トルコ系の遊牧民)の迫害から逃れるため西へと逃れ、9世紀に現在のハンガリーがあるカルパチア盆地へと辿り着きます。このカルパチア盆地は1世紀から5世紀までの間は属州パンノニアとしてローマ帝国に支配されていましたが、西ローマ帝国崩壊後は主にスラブ系の人々が住むようになりました。そしてマジャル人のアールパードにより、カルパチア盆地が征服され、彼を始祖とするアールパード朝ハンガリー王国が開かれたのです。
そんなハンガリーでは長らく伝統的な宗教を信じていましたが、やがてキリスト教国神聖ローマ帝国から改宗の圧力を受けるようになります。ハンガリーは「異教徒の討伐」を理由に神聖ローマ帝国が自国に攻め入ってくることを危惧し、西暦1000年にキリスト教を受容し、ローマ教皇に認められたキリスト教国家となりました。
ハンガリー王国最初の王朝アールパード朝が成立。アールパード族の指導者であるアールパードが、マジャール人を率いてハンガリー平原に定住し、この地域の統一を図った。
キリスト教が流入し、伝統的なシャーマニズムによる自然崇拝が廃れていく。この時期、ハンガリーの支配者たちはキリスト教を受け入れ、ヨーロッパのキリスト教社会の一員としての地位を確立するために、教会の建設や布教活動を積極的に進めた。結果として、ハンガリー社会は宗教的・文化的な転換期を迎え、キリスト教の影響が国の政治と文化に深く根付いていった。
マジャール人がドイツ王オットー1世の軍隊に撃退される。これを機にマジャール人は現在のハンガリーにあたるパンノニア平原に逃れ、ここに定住するようになる。
アールパード家のイシュトヴァーン1世がキリスト教に改宗し、ローマ教皇よりハンガリー王として戴冠したことで、ハンガリー王国が成立した。イシュトヴァーン1世の治世下で、ハンガリーはキリスト教の導入と共に中央集権的な国家体制を確立し、ヨーロッパのキリスト教世界の一員として認められるようになった。イシュトヴァーン1世の統治は、法制度や行政の整備を進め、国内の安定と繁栄をもたらした。彼の業績は後世にも高く評価され、ハンガリーの国民的英雄として崇められている。
モンゴル帝国のバトゥによる侵略を受ける。これにより国力が一時衰える。ハンガリー王国は大規模な被害を受け、多くの都市や村が破壊され、人口も大幅に減少した。この侵略後、ハンガリーは防衛力の強化と復興に努め、城塞の建設や行政改革を進めた。モンゴルの脅威を乗り越えた後、ハンガリーは再び力を取り戻し、中世ヨーロッパの重要な国の一つとして復興を遂げた。
アールパード朝が断絶(1301年)し、王位はフランス系のアンジュー家が継ぐこととなり、ハンガリー・アンジュー朝が成立した。アンジュー朝の成立により、ハンガリー王国は新たな王朝の下で再編され、国内の統治と安定が図られた。アンジュー朝は経済や軍事の強化に努め、ハンガリーの領土を拡大し、繁栄をもたらした。この時期、文化や建築も発展し、ハンガリーは中世ヨーロッパの重要な王国としての地位を確立した。
オスマン帝国がバルカン半島への進出を開始し、ハンガリー王国に対する脅威が増大する。この進出は、ハンガリーの南部国境地帯に対する軍事的圧力を強め、後の長期的な対オスマン戦争の前兆となった。
ジギスムントがハンガリー王として即位。ジギスムントはその後、神聖ローマ皇帝にも即位し、ハンガリー王国の政治的安定と国際的地位の向上を目指した。彼の治世は、国内の改革とともに、オスマン帝国との軍事的対立が続いた時期でもあった。ジギスムントの外交努力は、ハンガリー王国をヨーロッパの主要な政治プレイヤーとして位置づける上で重要な役割を果たした。
ヨーロッパキリスト教世界の脅威になっていたオスマン帝国との間で「ニコポリスの戦い」と呼ばれる武力衝突が発生。オスマン帝国の大勝と終わり、オスマンのバルカン半島進出を勢いつかせる結果となった。
近世ハンガリーは、オスマン帝国とハプスブルク帝国の支配が交錯する時期でした。1526年のモハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世が戦死し、ハンガリー王国はオスマン帝国とハプスブルク家に分割されました。中央部はオスマン帝国に占領され、ハプスブルク家は西部と北部を支配しました。1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国の支配が終わり、ハンガリー全土がハプスブルク家の支配下に統合されました。この時期、ハンガリーは政治的には安定し、経済的にも発展を遂げました。
東ローマ帝国がオスマン帝国に滅ぼされる。キリスト教世界がますます脅威にさらされ、オスマン進出の防御壁としてハンガリーの重要性も増すようになる。
オスマン帝国がハンガリーに侵入したことで、「モハーチの戦い」と呼ばれる武力衝突が勃発。この戦いにハンガリーは敗れたことで、オスマン帝国の支配を受けるようになる。
オスマン帝国にブダ(現ブダペストの一部)を、オーストリア(ハプスブルク家)により北部・西部を支配され、以後150年間両勢力に分割統治されることとなる。
ポーランド、ヴェネツィア連合軍がオスマン帝国軍を破り、その後カルロヴィッツ条約が結ばれたことで、ハンガリーのほぼ全域がハプスブルク帝国の支配下に入った。
ハプスブルク帝国の支配に抵抗する民族解放運動が起こるも鎮圧される。この反乱はラコーツィ・フェレンツ2世により指導され、ハンガリーの独立と自治を求めたが、最終的には失敗に終わり、ハプスブルク家の統治がさらに強化された。
マリア・テレジアがハンガリー国王として即位。彼女の治世では、ハンガリーにおける近代化改革が進められ、教育や行政の改革が行われた。マリア・テレジアはハンガリー貴族との協力を強化し、国内の安定と発展を図った。彼女の治世は、ハプスブルク帝国全体の繁栄とともに、ハンガリーの社会経済的な基盤を強化する重要な時期となった。
近代ハンガリーは、オーストリア=ハンガリー帝国の一部として始まりました。1848年の革命では独立を求めたが、失敗に終わりました。しかし、1867年のアウスグライヒ(和解)によりハンガリーは帝国内での自治を獲得しました。第一次世界大戦後、王政統治に反対するアスター革命が起き、ハンガリー第一共和国が成立します。一方戦後処理のトリアノン条約では領土の大部分を失い、経済的・社会的に困難な時期を迎えました。第二次世界大戦後、ハンガリーは共産主義体制下に置かれましたが、1956年の反乱を経て徐々に改革が進み、1989年に共産主義体制が崩壊し、民主化が進みました。
ハプスブルク帝国の影響力低下を見て、ハンガリー人による武装蜂起が発生(ハンガリー革命)。一時はブダペストを奪回し、自治政府が設立されるなどしたが、最終的には安定を取り戻したオーストリア軍により鎮圧された。
独立運動の加熱で帝国が崩壊することを危惧したフランツ・ヨーゼフ1世は、ハプスブルク帝国領をオーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割する「オーストリア=ハンガリー帝国」を成立させ、ハンガリー王国の自治権拡大を認めた。
第一次世界大戦後の混乱により国王が即位できないなかで、海軍軍人ホルティがハンガリー王国執政官に就任する。
第二次世界大戦が勃発すると、ハンガリー王国はナチス・ドイツと協調し、枢軸国側として参戦した。
ソ連軍、ルーマニア軍によるブダペスト制圧作戦が実施され(ブダペスト包囲戦)、第二次世界大戦で最も犠牲者が出た戦いの1つとなった。最終的にブダペストは陥落し、ソ連の支配下に治められた。
王政が廃止され、ソ連の影響下にある共産主義体制の国家ハンガリー第二共和国が成立した。1946年2月、ハンガリーは正式に共和国を宣言し、新たな憲法が制定された。これにより、共産党が権力を掌握し、ソビエト連邦の指導のもとで急速に社会主義化が進められた。この時期、土地改革や産業の国有化が行われ、政治的抑圧も強化された。ハンガリー第二共和国の成立は、冷戦時代の東欧における共産主義拡大の一環であり、ハンガリーの政治と社会に大きな影響を与えた。
ハンガリー人による反スターリン運動が活発になり、事態を収拾すべくソ連軍とワルシャワ条約機構軍がハンガリーに侵攻し、多大な犠牲を出した。
第二次世界大戦後は、ソ連衛星国の共産主義国家ハンガリー人民共和国が成立、そして冷戦末期の東欧革命により共産主義体制が崩壊し、現在に続くハンガリー共和国が成立しました。以来ハンガリーは民主化と市場経済への移行を進め、1999年にNATOに、2004年に欧州連合(EU)に加盟しました。経済改革により市場経済を取り入れ、急速な経済成長を遂げましたが、2008年の金融危機で深刻な打撃を受けました。近年は強権的な政治手法が問題視され、欧州連合との間で緊張が続いています。また、民族主義的な政策と移民に対する強硬な姿勢が国内外で議論を呼んでいます。
ソ連のペレストロイカにともない、民主化が急速に進み、共産主義体制が終焉。現在に続くハンガリー第三共和国が成立した。
ハンガリーで初の自由選挙が実施され、民主的な政府が誕生。自由選挙により、新たな政党が政権を握り、市場経済への移行が始まった。
ハンガリーは北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、軍事的な安全保障体制を強化。これにより、西側諸国との防衛協力が深まった。
ハンガリーは欧州連合(EU)に正式に加盟し、経済的・政治的な統合が進む。EU加盟により、ハンガリーの市場は拡大し、投資や貿易が活発化した。
ヴィクトル・オルバン率いるフィデス党が総選挙で圧勝し、政権を握る。オルバン政権は、その後も複数回の選挙で勝利し、長期政権を築くこととなった。
新憲法が施行され、ハンガリーの国家体制が再編成された。この憲法は、国の名前を「ハンガリー共和国」から「ハンガリー」に変更し、国の歴史や文化を強調する内容となっている。
中東やアフリカからの大量の難民・移民が欧州に押し寄せる中、ハンガリー政府は国境フェンスを建設し、移民流入を阻止する措置を講じた。この対応は、EU内で議論を呼び起こした。
ハンガリーも新型コロナウイルスのパンデミックに直面し、政府はロックダウンや経済対策を実施。パンデミックは社会と経済に大きな影響を与え、医療システムの重要性が再認識された。
ハンガリーはCOVID-19ワクチン接種を全国的に推進し、パンデミック収束に向けた取り組みを強化。ワクチン接種の進展により、経済活動の再開と社会の正常化が期待された。
以上が古代から現代にかけてのハンガリー史になります。
古代ハンガリーの地にはケルト人やローマ人が住んでいましたが、9世紀にはマジャール人が到着し、1000年にイシュトヴァーン1世がキリスト教王国を建国しました。16世紀にはオスマン帝国とハプスブルク家による支配が続き、1867年のアウスグライヒで自治を獲得。第一次世界大戦後、領土を大幅に失い、第二次世界大戦後には共産主義体制に。1989年の民主化以降は市場経済と欧州連合(EU)加盟を経て、現在に至ります。
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