フィンランドの歴史年表


フィンランドの国旗


フィンランドの国土



フィンランド(正式名称:フィンランド共和国)は、北ヨーロッパ の ボスニア湾・バルト海・フィンランド湾に面し、スカンジナビア半島の内側に位置する 共和制国家です。国土は スカンジナビア半島の内側の地域と、フィンランド多島海域に位置する諸島で構成され、気候区は 亜寒帯湿潤気候に属しています。首都は 欧州連合加盟国の中で最北の首都であり、「バルト海の乙女」)として知られる ヘルシンキ
この国ではとくに製造業が発達しており、中でも電子機器や金属加工品の生産がさかんです。また多くの森林資源を背景にした製紙・パルプ・木材産業もこの国の基幹産業となっています。

そんな フィンランドの歴史は、1809年に、スウェーデンからロシア帝国にフィンランドが割譲されたときに建設されたフィンランド大公国から始まるといえます。フィンランド大公はロシア皇帝が兼ねる同君連合の形をとっていましたが、1917年ロシア帝国の崩壊に伴いフィンランド王国として独立を果たしました。翌年の1918には君主制を廃止し共和制憲法を制定。3度の外戦を経験し、いくらかの土地をソ連に奪われるも、独立を維持し現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなヘルシンキの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

フィンランドの歴史年表

古代フィンランド

紀元前のフィンランドは、北欧の他の地域と同様に、先史時代の文化と技術の発展が見られる場所でした。最初の人類の定住は氷河期が終わった後、紀元前8500年頃に始まったとされています。この時期、狩猟採集民が主要な生活形態で、フィンランドの湖や森林で暮らしていました。

前4000年頃 櫛目文土器の使用

紀元前5000年頃から新石器時代に移行し、農耕や牧畜が始まりました。この時期には陶器の製作も行われ、特に「櫛目文土器文化」が広がりました。櫛目文土器は、櫛で模様をつけた特徴的な土器であり、フィンランド各地で見られます。

前1500年頃 青銅器文化の伝来

青銅器時代(紀元前1500年頃-紀元前500年頃)には、青銅器の使用が広まり、武器や装飾品、工具などが製作されました。これにより、社会の階層化が進み、交易も活発化しました。フィンランドの青銅器文化は、スカンジナビアやバルト海地域との交流の中で発展しました。

前500年頃 鉄器時代の伝来

鉄器時代(紀元前500年頃-紀元後800年頃)には、鉄の使用が普及し、農業生産性が向上しました。鉄器の導入は、地域社会の発展を促し、定住地の拡大をもたらしました。この時期、フィンランドはスカンジナビアやバルト海地域との交易ネットワークに組み込まれ、文化的・経済的交流が盛んに行われました。

500年頃

民族移動時代に入り、ノルマン人のスヴェーア人がフィンランド沿岸に移住を開始。生活圏をフィンランド全体に広げていった。

中世フィンランド

ボルガ川流域を原住地とし、1世紀頃、バルト海南岸から移り住んできたフィン人が、現在のフィンランド人の祖先といわれています。そんなフィン人が創始したフィンランドは地理的にスウェーデンロシアの間に位置するため、中世から近代にかけ常に両者の覇権争いに巻き込まれてきました。12世紀半ばのスウェーデン王による北方十字軍のフィンランド遠征から始まり、13世紀末にはほぼ全域がスウェーデンに支配されています。フィンランドはスウェーデン王国の一部として統治され、キリスト教の布教とともにスウェーデンの文化や法律が導入されました。さらにスウェーデンとの同化が進む中、フィンランドは戦略的な要地として多くの要塞や城が築かれました。

12世紀

1155年 北方十字軍のフィンランド遠征

スウェーデン王エリク9世が北方十字軍を組織し、フィンランド南西部を支配。同時にキリスト教化が本格的に始まった※


同時期フィンランドにやってきた聖ヘンリックが、フィンランドの人々の洗礼を行なうも、反発されて暗殺されたという言い伝えがあります。

13世紀

1229年 カトリック司教座の設置

トゥルクを中心とする地域に、カトリックの司教座が設置される。この司教座の設置は、フィンランドにおけるキリスト教の普及とカトリック教会の影響力の拡大を象徴するものであり、地域の宗教的・文化的発展に大きな影響を与えた。トゥルクはフィンランドの宗教的中心地として重要な役割を果たし、後に政治的・経済的な中心地としても発展していった。この時期のカトリック教会の活動は、フィンランドの中世社会の形成において重要な役割を果たした。

1250年頃 スウェーデンによる支配が確立

スウェーデン王ビルイェル・ヤールが、第二次スウェーデン十字軍を組織し、フィンランド支配を確立。キリスト教の定着が強固なものとなった。

14世紀

1362年 スウェーデン国王選挙への参加権を獲得

スウェーデン支配のもとフィンランドの法的地位が向上。スウェーデン国王選挙に参加する権利が与えられる。

近世フィンランド

スウェーデンは近世になると17世紀から18世紀初頭にかけ急速に勢力を拡大。バルト海および北欧全域を支配下に治める「バルト帝国」を築き上げ、東方の新興勢力ロシア帝国と鎬を削るようになります。スウェーデンとロシアに挟まれたフィンランドは常に両国の争いに巻き込まれていました。

大北方戦争(1700年-1721年)では、フィンランドは主要な戦場となり、甚大な被害を受けました。この戦争の結果、スウェーデンは敗北し、1721年のニスタット条約でフィンランドの一部がロシアに割譲されました。その後も、スウェーデンとロシアの対立は続き、1808年から1809年のフィンランド戦争の結果、フィンランド全域がロシアに併合され、大公国として統治されることになりました。この時期、フィンランドはロシア帝国内で一定の自治を認められ、独自の法律や制度を維持しましたが、ロシアの影響力が強まりました。

16世紀

1507年 デンマークからの攻撃を受ける

スウェーデンに代わり北欧で地位を確立していたデンマークにより、ポルヴォーやトゥルクが攻撃される。この攻撃は、北欧の政治的な緊張が高まっていた時期に行われ、フィンランドの住民に大きな影響を与えた。特にトゥルクは、重要な宗教・経済の中心地であったため、攻撃による被害は大きく、地域の防衛と復興が急務となった。この出来事は、フィンランドが北欧の権力闘争の影響を受けていたことを示している。

1563年 北方七年戦争の勃発

フィンランドを介して、バルト地方に影響をおよぼそうとしているスウェーデンと、それに反発するデンマークとの間で北方七年戦争が勃発した。この戦争は、バルト海の支配権を巡る争いであり、フィンランドの戦略的な位置が重要視されることとなった。フィンランドは戦場の一部となり、多くの地域が戦火に巻き込まれた。戦争はフィンランドの経済と社会に大きな影響を与え、多くの犠牲と困難をもたらしたが、最終的にスウェーデンの影響力が強化される結果となった。結局最後まで決着はつかず70年に休戦となった。

17世紀

1695年 大飢饉の発生

小氷河期が訪れたことでフィンランドで大飢饉が発生。1697年までに10万人以上が飢餓で死亡したとされる。この大飢饉は、フィンランドの歴史における最も厳しい時期の一つで、農業生産の激減と厳しい気候条件が原因だった。飢饉は社会全体に深刻な影響を与え、多くの家庭が破綻し、人口の大幅な減少が見られた。また、飢餓に伴う疾病の蔓延も深刻な問題となり、フィンランド社会は長期的な回復を必要とした。

1700年 大北方戦争の開始

大北方戦争(1700年-1721年)は、スウェーデン帝国とロシア帝国を中心とする同盟国との間で行われた戦争で、北ヨーロッパの覇権を巡る争い。フィンランドは当時スウェーデン王国の一部であり、戦争の主要な戦場となった。ロシアのピョートル大帝は、スウェーデンの支配を打破するためにフィンランドに侵攻し、多くの地域が占領された。戦争の結果、スウェーデンは敗北し、1721年のニスタット条約によりフィンランドの一部をロシアに割譲することとなった。これにより、フィンランドの地はスウェーデンとロシアの間で分断され、その後のロシアの影響力が増大した。

18世紀

1713年 ロシアによる占領

大北方戦争(1700年-)にスウェーデンが敗れた結果、フィンランドはロシアに占領されることとなった。ロシア軍の侵攻により、多くの都市が破壊され、住民は避難を余儀なくされた。この占領期間中、フィンランドの経済と社会は大きな打撃を受けた。

1721年 ニスタット条約の締結

ロシアとスウェーデンの間で講和条約(ニスタット条約)が結ばれ、フィンランドはスウェーデンに返還された。この条約は大北方戦争を終結させ、フィンランドは再びスウェーデンの支配下に戻ることとなった。ただし、条約の結果、スウェーデンはバルト海の重要な領土をロシアに譲渡し、北欧の勢力均衡に大きな変化が生じた。

18世紀

1741年 ハット党戦争/フィンランドはロシア領に

ハット党戦争(ロシア・スウェーデン戦争)が勃発し、スウェーデンがロシアに大敗。この戦争はスウェーデン内のハット党による対外拡張政策の一環だったが、ロシアの軍事力に圧倒され、フィンランドの大部分が占領された。

1743年 オーボ条約/フィンランドはスウェーデン領に

ハット党戦争の講和条約(オーボ条約)が結ばれ、フィンランドはスウェーデンへ返還された。ただし、条約の結果、スウェーデンはフィンランド南東部の一部をロシアに割譲することとなった。フィンランドの運命はこの時期、度重なる戦争と領土の変更に翻弄され、地域の安定と発展に大きな影響を及ぼした。

1788年 アニアーラ事件の発生

長年対ロシア戦争の戦場とされてきた不満から、フィンランド士官によるスウェーデンからの分離独立を企てる事件が発生。この事件は、フィンランドの独立を求める最初の重要な動きとされ、フィンランドの民族意識が高まり始めた象徴的な出来事となった。しかし、計画は発覚し、関与した士官たちは処罰された。この事件はフィンランドの独立運動の萌芽を示し、後の独立運動に影響を与えた。

近代フィンランド

19世紀になると、ナポレオン台頭でヨーロッパ中に激震が走る中、第二次ロシア・スウェーデン戦争が勃発します。ここでスウェーデンがロシアに敗北したことで、フィンランドの支配権はロシアに移り、その後ロシア皇帝アレクサンドル1世がフィンランド大公となったことでフィンランド大公国が成立しました。ヨーロッパ革命(1848年革命)をきっかけにフィンランド独立の気運が高まりましたが、ロシアは新興のドイツ帝国の脅威に対抗するため、19世紀終わりにフィンランド自治権を剥奪してしまいます。しかし強引なロシア化はかえって、民主化運動とナショナリズムの高まりに火をつける結果となり、独立派にロシア総督が暗殺される事件にまで発展しました。

そんな流れで、20世紀に入るとロシアもついに支配を諦め、自治権廃止を撤回。まもなくロシア革命が勃発するとフィンランド連邦会議が独立を宣言し、フィンランド王国が成立します。その王国成立からわずか2年後には君主制を廃し、共和国憲法を制定。こうして現在に続くフィンランド共和国が成立したのです。第二次世界大戦ではソ連と激しく対立し、終戦後は敗戦国として、領土の12%程度をソ連に割譲することとになってしまいました。しかしそれでも、継続戦争、冬戦争と2つの戦争で、ソ連に大損害を与え、ナチス・ドイツの降伏前に休戦にこぎ着けたのが救いでした。

19世紀

1809年 第二次ロシア・スウェーデン戦争の勃発/フィンランドはロシア領に

第二次ロシア・スウェーデン戦争が勃発。スウェーデンは大敗を喫し、フィンランドはロシア軍により制圧された。フレデリクスハムンの和約で講和

1809年 フィンランド大公国の成立

ロシア皇帝アレクサンドル1世がフィンランド大公となり、体制を立憲君主制に移行し、フィンランド大公国を成立させた。

1835年 フィンランド叙事詩カレワラの出版

フィンランドの民族叙事詩『カレワラ』が出版される。後世、フィンランド文学の中でも、最も重要な作品の1つと評価されるようになった

1848年 1948年革命の勃発

ヨーロッパ革命(1848年革命)が起こると、フィンランドでも民主化運動とナショナリズムが高まり、汎スカンディナヴィア主義が台頭するようになる

1860年 フィンランド・マルクの導入

独自通貨の「フィンランドマルク」が導入される。この通貨の導入により、フィンランドは経済的な独立性を強化し、国内の経済発展を促進する基盤を築いた。フィンランドマルクは、その後、フィンランドの主要通貨として広く使用され、経済の安定と成長に寄与した。

1882年 女性初の学位取得者がでる

エマ・アイリーン・アストロムがフィンランド女性で初めて大学の学位を取得。この歴史的な出来事は、フィンランドにおける女性の教育と権利の進展を象徴するものであり、社会的な変革を促進した。エマ・アイリーン・アストロムの功績は、多くの女性に影響を与え、フィンランドにおける女性の地位向上と平等の実現に向けた重要な一歩となった。

1899年 二月宣言

ドイツ帝国の台頭を脅威とみたロシアはしだいに強権化していき、フィンランドから自治をとりあげ、ロシア語使用の強制、フィンランド軍をロシア軍に統合するなど、強引なロシア化を推し進めた。この二月宣言はフィンランドの自治権を大きく制限し、フィンランド人の間に強い反発と抵抗運動を引き起こした。ロシアの同化政策は、フィンランドの民族意識を高める結果となり、後の独立運動の基盤を形成した。この時期の圧政は、フィンランドの歴史における重要な転換点であり、フィンランド人の自由と独立への強い願望を育む要因となった。

20世紀前半

1904年 ニコライ・ボブリコフ暗殺

強引なロシア化政策は、フィンランド人の民族主義に火を付ける結果となり、フィンランド総督ニコライ・ボブリコフが暗殺される事態に発展。

1905年 ロシアから自治権を獲得

ロシア第一革命の余波がフィンランドにまでおよび、ゼネラル・ストライキが発生。ロシア皇帝ニコライ2世により「フィンランドの自治権廃止宣言」が撤回された

1906年 国民議会の開設

フィンランドは議会改革を行い、国民議会(エドゥスクンタ)を開設した。これにより、フィンランドは初めて男女平等の普通選挙を実現し、全ての成人に選挙権が与えられた。この改革は、フィンランドの民主主義の発展における重要な一歩であり、政治的な平等と国民の参政権を確立した。

1914年 第一次世界大戦の勃発

第一次世界大戦が勃発し、ヨーロッパ全体が戦争に巻き込まれる。フィンランドもロシア帝国の一部として戦争の影響を受けた。戦争はフィンランドの経済や社会に深刻な影響を及ぼし、物資の不足や生活の困難が増加した。この戦争の混乱は、後にフィンランドが独立を目指す動きに繋がる重要な要因となった。

1917年 独立を達成/フィンランド王国の成立

第一次大戦中に起こったロシア革命で帝政ロシアが打倒されたことを受け、フィンランドは独立を宣言。同年12月31日にロシア新政府に独立が承認される。しかし、独立後のフィンランドは政治的な不安定さに直面し、一時的にフィンランド王国が成立したが、実質的な君主が即位することはなかった。その後、フィンランドは共和国としての道を歩み始め、民主主義国家としての体制を整えていくことになる。独立はフィンランドの歴史における大きな転換点であり、国家の主権と国民の自決権を確立した重要な出来事だった。

1918年 フィンランド共和国の成立/内戦の勃発

君主制を廃し、共和政憲法を制定したことでフィンランド共和国が成立した。しかし不安定な情勢だったため、国内世論が白衛派(自作農・資産家階級)と赤衛派(小作農・労働者)に割れ、フィンランド内戦に発展した。白衛派はドイツ帝国からの支援を受け、赤衛派はソビエトロシアの支援を受けて戦った。

1920年 フィンランド内戦の停戦

白軍の勝利でフィンランド内戦が終結した。白衛派の勝利により、フィンランドは反共主義的な方向に進むことになり、ソビエトロシアとの対立が続いた。内戦の結果、社会的・経済的な分断が深まり、多くの犠牲者が出たが、その後の復興と安定に向けて努力が続けられた。この内戦の終結は、フィンランドが独立国家としての一歩を踏み出す重要な節目となった。

1939年 第二次世界大戦の勃発(〜45年)

第二次世界大戦においてフィンランドはソ連と、冬戦争/継続戦争という2度の戦いを繰り広げた(ソ芬戦争)。両戦争はモスクワ講和条約、モスクワ休戦協定で講和に到ったものの、協力関係にあったナチス・ドイツの降伏により、戦後は敗戦国として多額の賠償を背負わされた。

現代フィンランド

現代フィンランドの歴史は、第二次世界大戦後から始まります。1947年のパリ条約により、フィンランドはソビエト連邦との間で領土と賠償に関する問題を解決し、中立政策を堅持しながらも安定した国家再建を進めました。1955年には国際連合に加盟し、国際社会への参加を強化しました。

1975年、ヘルシンキで全欧安全保障協力会議(CSCE)が開催され、冷戦緩和の一翼を担いました。冷戦終結後、1995年には欧州連合(EU)に加盟し、経済的および政治的な統合を進めました。これにより、フィンランドは欧州の重要な一員としての地位を確立しました。

経済面では、情報技術と通信分野での発展が特に顕著で、ノキアの成功が象徴的です。また、フィンランドは高い教育水準と福祉制度の充実で知られ、国民の生活水準も高いです。近年では、環境保護や持続可能なエネルギー政策にも積極的に取り組んでおり、国際的な幸福度ランキングでも常に上位に位置しています。このように、フィンランドは戦後の困難を乗り越え、現代社会で重要な役割を果たしています。

20世紀後半

1947年 パリ講和条約に調印

フィンランドは第二次世界大戦後の講和条約であるパリ講和条約に調印。これにより、フィンランドはソビエト連邦に対して領土の一部を割譲し、戦争賠償を支払うことが決定された。条約はフィンランドの戦後復興と国際関係の安定化に向けた重要な一歩となった。

1952年 ヘルシンキオリンピックの開催

フィンランドの首都ヘルシンキで夏季オリンピックが開催される。このオリンピックは、フィンランドが第二次世界大戦後に国際社会に復帰し、平和と友好を象徴するイベントとして大きな成功を収めた。オリンピックの開催は、フィンランドのスポーツ文化の発展と国際的な地位向上に寄与した。

1991年 ソ連崩壊

ソ連崩壊にともない、共産主義勢力からは解放されたが、同時に最大の取引相手を失ったことで経済的苦境に見舞われた。フィンランドは新たな経済パートナーシップを求め、経済の再建と多角化を図るための政策を進めた。この時期、フィンランドは市場経済への移行を加速させ、経済構造の転換を余儀なくされた。

1995年 欧州連合に加盟

欧州連合(EU)に加盟したことで、ヨーロッパ諸国との経済関係が密になり、再び経済が軌道に乗り始めた。EU加盟により、フィンランドは単一市場の恩恵を受け、貿易や投資の機会が拡大した。また、EUの政策や基準に適応することで、フィンランドの経済競争力が強化され、国際的な地位が向上した。加盟後、フィンランドは経済的安定と成長を実現し、欧州の一員としての役割を果たすようになった。

21世紀

2002年 ユーロ導入

フィンランドは欧州連合の一員として、ユーロを公式通貨として導入した。これにより、金融市場の統合が進み、貿易や投資の促進が期待された。また、ユーロ圏内の経済政策にフィンランドも関与するようになり、欧州経済の一体化に貢献した。

2008年 世界金融危機の影響

世界的な金融危機が発生し、フィンランド経済も大きな打撃を受けた。輸出の減少や失業率の上昇が見られ、政府は経済安定のための対策を講じる必要に迫られた。これを機に、経済構造の強化と多様化が進められた。

2012年 サウリ・ニーニスト大統領の就任

サウリ・ニーニストがフィンランドの大統領に就任。彼のリーダーシップの下、フィンランドは国内外の課題に対処し、国際社会における役割を強化した。特に、経済政策や社会福祉の分野で重要な改革が行われた。

2015年 難民危機への対応

ヨーロッパ全体で難民危機が発生し、フィンランドも多くの難民を受け入れることとなった。これにより、移民政策や社会統合の問題が浮上し、政府は多文化共生のための取り組みを強化した。

2017年 フィンランド独立100周年

フィンランドは独立100周年を迎え、国内外で様々な記念行事が開催された。この節目の年に、フィンランドの歴史と文化、国家としての成長を祝うとともに、未来へのビジョンが語られた。

2020年 COVID-19パンデミックへの対応

世界的なCOVID-19パンデミックがフィンランドにも影響を及ぼし、政府は迅速に対策を講じた。感染拡大を防ぐための措置や経済支援策が実施され、国民の健康と経済の安定が図られた。

2022年 NATO加盟申請

フィンランドは、安全保障の強化を目的に北大西洋条約機構(NATO)への加盟を申請した。これは、地域の安全保障環境の変化に対応するための重要な決定であり、フィンランドの国防政策に大きな影響を与えることとなった。特に、2022年のロシアによるウクライナ侵攻がフィンランドの安全保障への懸念を強め、NATO加盟を決断する大きな要因となった。フィンランドは長年、中立政策を維持してきたが、ロシアの軍事的脅威に対する抑止力を強化するため、NATOとの連携を深めることが必要と判断した。この加盟申請は、フィンランドの国際的な防衛協力と安全保障戦略における大きな転換点となった。


古代から現代にかけてのフィンランドの歴史は、多くの変遷を経てきました。紀元前3000年頃からフィン人が定住を開始し、狩猟採集や農耕、牧畜が行われました。中世にはフィンランドはスウェーデンの支配下に入り、12世紀の北方十字軍以来、スウェーデン王国の一部として統治されました。近世にはスウェーデンとロシアの覇権争いに巻き込まれ、特に大北方戦争(1700年-1721年)後、フィンランドの一部がロシアに割譲されました。1809年のフィンランド戦争では、フィンランド全域がロシア帝国に併合され、大公国として一定の自治が認められました。1917年、ロシア革命の混乱の中でフィンランドは独立を宣言し、内戦を経て独立を確立しました。第二次世界大戦中、ソビエト連邦との戦争を経験し、戦後は中立政策を維持しながらも西側諸国との経済関係を強化しました。1995年に欧州連合(EU)に加盟し、現代では高い生活水準と福祉制度を持つ先進国として知られています。