戦間期のイギリス情勢を理解しよう

第一次世界大戦イギリスは戦勝国となりましたが、長期化した戦争で疲弊し、国際社会における首位の座から陥落してしまいました。アジア・太平洋における覇権はアメリカや日本に奪われ、保有する広大な植民地を維持するだけの経済基盤ももはやなく、産業革命来続いた「帝国の世紀」は終わりを告げたのです。となると戦後の課題は、いかに復興し、二度と戦争が起こらないよう、諸国と協調の道をとるかでした。

 

 

戦後の復興と国際協調

戦間期のイギリスは、第一次世界大戦後の経済的疲弊からの復興と、国際社会における地位の回復を目指しました。経済的には、高度な工業化を背景に復興を進めようとしましたが、失業率の上昇や賃金の低下などが問題となり、社会的不安が広がりました。また、政治的には、国際連盟の設立に積極的に関与し、国際協調と平和維持を推進しました。

 

ナチスドイツに対する宥和政策

ドイツのズデーテン地方併合を認めたミュンヘン会談は「宥和政策」の典型とされる

 

29年の総選挙で史上初めて労働党政権が誕生し、その課題に挑戦しましたが、世界恐慌にうまく対応できず短命に終わっています。保守党が再び政権を握りましたが、

 

  • 世界大戦再来に対する恐怖
  • 共産主義勢力ソ連に対する防波堤として利用できる

 

などの理由で、ヨーロッパ本土に蔓延するファシズム勢力の拡大に対し宥和政策をとりました。その結果、再軍備宣言、オーストリア併合と増長を続けたナチス・ドイツが、1939年ポーランドに侵攻したことで、イギリスはフランスと共に対独宣戦を行い、第二次世界大戦の火蓋を切ることとなるのです。

 

経済政策と社会変動

1920年代の経済政策

1920年代、イギリスは第一次世界大戦後の経済復興を目指してさまざまな政策を実施しましたが、戦後のデフレーションや通貨価値の安定化を目指すゴールドスタンダードへの復帰などが経済に混乱をもたらしました。特に1926年のゼネラル・ストライキは、労働者と政府の対立を象徴する出来事となり、社会的不安を引き起こしました。

 

世界恐慌の影響

1929年の世界恐慌は、イギリス経済に深刻な影響を与えました。失業率は急上昇し、社会的な不安が広がりました。政府は失業保険制度や公共事業の拡大など、経済対策を実施しましたが、効果は限定的でした。

 

ブロック経済と帝国経済会議

イギリスは1932年にオタワで帝国経済会議を開催し、ブロック経済政策を推進しました。これは、イギリス帝国内での経済連携を強化し、関税を引き下げることで貿易を促進しようとするものでした。これにより、イギリスは経済的に孤立することを避け、帝国内の結束を図りました。

 

外交政策と安全保障

宥和政策の背景

イギリスの宥和政策は、第二次世界大戦前のナチス・ドイツの拡大に対する対応策として知られています。この政策は、第一次世界大戦の惨禍を繰り返さないために、ドイツとの対立を避けることを目的としていました。しかし、この宥和政策は、ヒトラーの野心を増長させる結果となり、最終的には戦争の勃発を招くこととなりました。

 

軍備増強と戦争準備

1930年代後半、イギリスはドイツの再軍備と侵略に対抗するため、軍備増強を進めました。空軍や海軍の強化、陸軍の近代化が図られ、戦争準備が進められました。また、国際連盟を通じた集団安全保障の試みも行われましたが、効果は限定的でした。

 

戦間期のイギリス情勢は、第一次世界大戦の影響と、その後の経済的・社会的な変動によって大きく揺れ動きました。経済政策の試行錯誤や国際協調の努力が続けられる一方で、ナチス・ドイツの台頭に対する宥和政策が採られました。しかし、最終的には第二次世界大戦の勃発に至り、イギリスは再び戦争の渦中に巻き込まれることとなったのです。