ペリクレスの基本情報
生年:前495年頃
没年:前429年
出身:アテナイ
死没地:アテナイ
別名:大ペリクレス
功績:アテネ民主政の完成
ペリクレス(前495年頃〜前429年)は古代ギリシアおよびアテネ全盛期の政治家で、アテナイ民主政を完成させた人物として知られています。前462年にアレオパゴス会議(ローマの元老院にあたる)の主導権を握り、民主化を推進、前443年以後は毎年のようにストラテゴス(将軍)に選出されることでペリクレス時代を体現しました。そして彼の治世でアテネ民主政は完成し、パルテノン神殿の建設をはじめ急速な文化振興も進み、ギリシアは政治的・文化的に黄金時代を迎えたのです。しかし彼にはデロス同盟を介し諸ポリスに臣従を迫ることで、アテネの帝国化を推し進めた専制主義的な一面もあり、これが諸ポリスの反感を買い、ペロポネソス戦争の勃発に繋がっています。そしてペリクレスはこの戦争中にアテネ市内に蔓延した疫病で病死してしまいました。
前5世紀頃までのアテナイは貴族と平民からなる身分制社会で、政治に参加できるのは貴族だけでしたが、ペルシア戦争後、漕ぎ手や重装歩兵として勝利に貢献したことで、平民の政治参加要求が大きくなっていきました。既得権益を守りたい貴族派閥はその声を跳ね除けますが、平民の声に耳を傾ける「民主派」という勢力が台頭するようになります。その先頭にたっていた人物がペリクレスです。
彼は着々と市民の支持を集めつつ、陶片追放で政敵を排除するなどし地盤を固め、将軍職(ストラテゴス)の地位に上り詰めます。そして前451年、両親がアテネ市民であることを市民権の必要条件とする「ペリクレスの市民権法」を成立させ、アテナイの民主政を完成させたのです。彼が将軍職に就任していた前444年から430年までの15年間はアテナイ全盛の時代で、「ペリクレス時代」とも呼ばれています。
ペリクレスは内政を落ち着かせるだけでなく、ペルシアとはカリアスの和約(前450年)を、スパルタなどギリシア諸外国とは30年間の不可侵条約を結ぶなど、平和維持にも努めました。一方、アテナイ中心の同盟から抜けようとしたポリスに過剰な圧力をかけるなどする強行な姿勢もみられ、これがのちのペロポネソス戦争への導火線にもなっています。
ペリクレスは、ペルシア戦争後に結成されたデロス同盟における同盟資金を自国の発展につぎ込み、防衛費や建築費、海運維持費にあて、国の地盤を堅固なものとしました。しかし強大化した国力を背景に、他のポリスへ服属を迫るなどアテナイの帝国化を推し進めたため、このやり方に反発し同盟から離反したポリスとの対立から、前431年、ギリシア全土を巻きこむペロポネソス戦争へと突入していくことになるのです。
ペリクレスが没したのはペロポネソス戦争の最中のこと。序盤は戦いを優位に進めていたアテナイですが、陸上戦ではスパルタにことごとく敗れ、都市を完全に包囲されてしまいます。ひとまず籠城策で海上決戦の機会を見ていましたが、不運なことに封鎖された空間で伝染病が大流行。ペリクレス含む全体の三分の一にも及ぶ市民が犠牲となってしまうのです。疫病蔓延と指導者の死という不運に見舞われ、前404年にはスパルタに対し降伏を余儀なくされました。
なおペリクレスの死因となった疫病の正体は長らくペストだと言われていましたが、記録に残る症状の分析から、現在この説は否定され、実際はチフスもしくは天然痘が原因であったとする説が有力になっています。
ペリクレスは民主派の指導者として頭角を現し、前443年に将軍職について以来、14年にわたりアテナイの実権を握り続け、政治・軍事・文化的に大きな成果をあげました。彼は「地上のゼウス」と称されるほど圧倒的な影響力を持ち、その治世は畏敬の念を込めて「ペリクレス時代」と呼ばれています。
ペリクレスはその改革の中で、農民階級(ゼウギタイ)であっても将軍職に就けるようにして、アテナイ民主政を完成させました。
ペリクレスはデロス同盟を通して他ギリシアポリスを服属させ、貢納による蓄財で、アテナイ黄金期を創出しています。古代ギリシア時代を象徴するような、パルテノン神殿始め大規模な神殿建築を建設されたのはペリクレス時代のことなのです。
ペリクレスの提案によりアテナイ民会を経て市民権法が制定されています。両親ともにアテナイ人でなければ男子に市民権が与えられないようにしたことで、ポリスを法的に完成させているのです。
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