ウィーン体制

ウィーン体制

(ウィーン体制には)戦争を回避して平和維持を実現しよう、そしてその平和のなかで社会の秩序を安定させ、経済を発展させよう、という姿勢も明確にみられた。ただしウィーン体制の主導者たちが考えた社会秩序は、国王や皇帝を頂点とする階層秩序だったのである。

 

福井憲彦『近代ヨーロッパ史』p115より引用

 

ウィーン体制は、1815年ウィーン会議の決定に基づき成立し、48年まで続いた保守反動的なヨーロッパの政治秩序のことです。会議を主導した4か国+復古王政を遂げたフランスが体制の担い手となり、この体制のもとナポレオン戦争を通しヨーロッパ中を席巻した自由主義思想は徹底的に弾圧されました。

 

 

 

ウィーン会議の開催

ウィーン体制の枠組みを決めたウィーン会議を描いた絵

 

ウィーン会議は、フランス革命ナポレオン戦争を経て壊された「アンシャン・レジーム(旧制度)」を再建するため、つまり革命前の絶対王政に戻すため、議長国オーストリアに加え、プロイセン・ロシアイギリスの四大国の主導で開催された列国会議です。

 

正統主義の採用

会議には敗戦国フランスも参加し、代表タレーランはその外交手腕でフランスの国際的地位の復権に大きく貢献。彼の唱えた正統主義はウィーン体制の原則として取り入れられることになりました。

 

会議は踊る、されど進まず

1814年9月、話し合いが開始されたのは良いものの、領土の配分を改めて決めるにあたり、参加国の言い分が衝突。結論が一向に出ない状態が続きました。議長国オーストリアが日々派手な「宴会外交」を展開したことも議事遅延に拍車をかけ、その停滞ぶりは『会議は踊る、されど進まず』と揶揄されるほどでした。

 

ウィーン議定書の締結

しかしナポレオンのエルバ島脱出の報を受け、ようやく各国は妥協し15年6月9日ウィーン最終議定書を締結。ヨーロッパの政治的再編が完了し、ここに新たなヨーロッパ秩序「ウィーン体制」が誕生したのです。この支配体制は、オーストリア宰相メッテルニヒが主導的役割を果たしたことから「メッテルヒ体制」とも呼ばれます。

 

ウィーン体制の開始とともに、スペインとフランス、ドイツ諸国は王政復古を遂げ、フランス革命以降各国で発展した自由主義や民族主義は徹底的に抑圧されるようになりました。

 

ウィーン議定書による議定内容

 

 

 

 

ウィーン体制の同盟

神聖同盟

加盟国:ロシア,オーストリア,プロイセン

 

キリスト教精神(正義・友愛・平和)にもとづき、全ての王が結束し、永遠の平和を保つべきとする盟約です。ナポレオン戦争後、正統主義に基づき、ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で結成され、のちにほぼ全てのヨーロッパ王国が加盟。ウィーン体制を補完し、民族主義と自由主義運動の弾圧を正当化するのに利用されました。

 

四国同盟

加盟国:イギリス,ロシア,プロイセン,オーストリア

 

実行力を疑問視された神聖同盟を補完する同盟です。反動体制の維持と自由主義・民族主義過熱による革命再発を防ぐ目的で、イギリスのカスルレーの提唱で結成。1818年にはアーヘン列国会議でフランスが加盟したため五国同盟となりました。しかしイギリスが自由主義経済に舵を切ったこと、内政干渉に反対したことで分裂し、スペイン革命が決定打となり1822年に崩壊しています。

 

ウィーン体制の崩壊

ウィーン体制は、ナポレオン戦争を通してヨーロッパ各地にもたらされた民族主義的・自由主義的風潮を抑え込む、保守反動的な性格が強いものでした。絶対王政諸国は自由主義者らの反乱を武力で鎮圧し、この復古体制を何としても維持しようとしたのです。

 

しかしナポレオン戦争を通してヨーロッパの市民には「自由」「権利」「平等」といった考えが根付いてしまっており、絶対王政下の息苦しい制約への反発は日々高まっていきます。

 

そんな中でスペイン立憲革命、ラテンアメリカ諸国の独立、ギリシャ独立、七月革命と次々と体制の基盤を揺るがす革命運動が続き、1848年の三月革命でついに完全崩壊に追いやられるのです。

 

ベルリンにおける三月革命

 

近代ヨーロッパ史の本格始動

このウィーン体制の崩壊を機に、国王を主権者とする絶対主義体制から、国民を主権者とする国民国家体制への本格的な脱皮が始まり、近代ヨーロッパ史は新たな局面を迎えることになります。