フランスの国旗
フランスの国土
フランス(正式名称:フランス共和国)は、西ヨーロッパに位置する共和制国家です。国土は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がり、気候区は大陸性、海洋性、地中海性の気候に属しています。首都は世界屈指の観光都市パリ。
この国では食品産業、製材、製紙業、運輸業、機械産業、電気機械、金属、石油化学産業、自動車産業が中心的に発達しており、またワインの生産がさかんです。またフランスは地形が概して平坦なためEU最大の農業国としても知られ「ヨーロッパのパン籠」と呼ばれています。
古代ヨーロッパにおいて、現在のフランスにあたる地域は、ガリアと呼ばれ、前6世紀頃よりケルト人(ガリア人)が居住していました。ガリアは前1世紀にローマ人に征服され、後5世紀ローマ帝国が没落すると、フランク人に征服されます。そのフランク人がガリアに興した西フランク王国(843年〜987年)という国が、フランスの原型になりました。ユーグ・カペーの西フランク王位継承とともに成立したフランス王国(987年〜1792年)は、教皇とのコネクションや対外戦争で力を誇示し、王権を拡大。17世紀には絶対王政を確立し、西ヨーロッパの覇権を握る超大国となりました。しかし時代が下ると王政の腐敗が進み、怒れる民衆によりフランス革命(1789年)が引き起こされます。革命政府は王政を廃し、1792年共和政移行を宣言。(その後帝政樹立や王政復古など政治体制の変遷はあったものの)こうして現在に続くフランス共和国が成立したのです。ここではその過程をもう少し詳しく年表形式で紹介しています。
現・フランスの領域(ガリア)に、中央ヨーロッパ出身のケルト人が居住を開始。これらのケルト系の部族は「ガリア人」として知られ、多数の部族に分かれて各地に定住、独自の文化と社会構造を築いていた。ガリア人は農耕と戦闘技術に優れ、それぞれ独自の言語、宗教、芸術を発展させ、ガリア全土に広がる複雑なネットワークを形成していた。
▲ガリアの大まかな領域
この時期のガリアは、後のローマの侵攻前における独立した文化的・政治的な実体として存在していました。
共和政ローマのユリウス・カエサルがガリアに侵攻。フランス人最初の英雄とされるウェルキンゲトリクスの活躍で、ローマを大いに苦しめるも、前51年には全土が征服されローマ属州となる。
▲カエサルの前に武器を投げ捨て降伏するウェルキンゲトリクス
ゲルマニアのゲルマン民族が、東方のフン族の圧力に圧され、大規模移住を開始(ゲルマン民族の大移動)。ガリアにはフランス人の祖先であり、ゲルマン民族一派のフランク人が流入し、定住するようになる。
▲ゲルマニアの大まかな領域
ゲルマン民族の傭兵隊長オドアケルにより、西ローマ皇帝位が廃され、西ローマ帝国が崩壊する。この出来事は、ヨーロッパ全体の政治的・社会的構造に大きな変化をもたらし、多くのゲルマン民族がローマ帝国の領域に侵入し、新たな王国を築いた。特に、フランク人はこの混乱の中でガリア地域における主要な勢力として台頭し、後のフランスの基礎を築いた。
▲オドアケルに屈し帝冠を差し出す西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥス
フランク人のクローヴィス(左図人物)によりフランク諸族が統一され、メロヴィング朝フランク王国が成立。同王国は周囲のゲルマン諸王国を併合しながら勢力を拡大し、9世紀初頭までに西ヨーロッパ全域を支配する大帝国に成長した。
▲フランク王国の最大版図(804年頃)
フランク王国宮宰カール・マルテルが、ヨーロッパ征服を目論むイスラム勢力を撃破(トゥール・ポワティエ間の戦い)。キリスト教世界を護ったカロリング家は、絶大な名声を得た。
▲トゥール・ポワティエ間の戦い/シャルル・ド・スチューベン画
カール・マルテルの子ピピン3世(左図人物)がメロヴィング朝を廃し、カロリング朝フランク王国を創始。フランスおよびヨーロッパ全体の歴史における重要な転換点である。カール・マルテルの子ピピン3世は、メロヴィング朝の最後の王を廃し、新たにカロリング朝を開始した。この変革は、フランク王国内の政治構造を一新し、カロリング家の権威を強化した。以後フランク王国は軍事的、文化的に強化され、中世ヨーロッパにおける最も強力な国家の一つとなった。
カロリング朝時代は、カロリング・ルネサンスとして知られる文化的復興をもたらし、学問と芸術が盛んになりました。
ピピンの子シャルマーニュ(左図人物)がローマ教皇より載冠を受け、西ローマ皇帝として承認される。シャルマーニュは、その統治下で帝国を強化し、法律、行政、教育、宗教改革を推進した。彼の統治は、ヨーロッパの統一とキリスト教の拡散に大きく寄与し、中世のヨーロッパにおける政治的および文化的な基準を確立した。
ヴェルダン条約によりフランク王国領が三分割され、西フランク王国/東フランク王国/中部フランク王国が成立。それぞれ現在のフランス、ドイツ、イタリアのベースとなった。
▲ヴェルダン条約による画定範囲(青色の領域がフランスの原型となった西フランク王国)
メルセン条約によりフランク王国領が再画定される。この条約で中フランク王国の北半分が西フランク王国と東フランク王国に割譲された。西フランク王国は、現在のフランスの領域の基礎を形成し、東フランク王国は後のドイツの原型となった。この分割は、中世ヨーロッパにおける国家の形成過程において重要な役割を果たし、後のヨーロッパの国境線と政治的構造に大きな影響を与えた。
▲メルセン条約による画定範囲(青色の領域がフランスの原型となった西フランク王国)
ルイ5世が死去し、男系王位継承不在により、カロリング朝が断絶。ロベール家のフランス公ユーグ・カペー(左図人物)が国王に即位し、カペー朝フランス王国が創始。この政治的変革は、フランス王国の歴史において重要な転換期となり、カペー朝は数世紀にわたりフランスを統治した。カペー朝の下で、フランスは中央集権化を進め、地域的な諸侯の権力を徐々に制限し、国家としての統一と安定を図った。この時代は、フランスの国家形成と中央政府の強化における重要な段階であったといえる。
『フランス大年代記』に描かれたロベール2世(ジャン・フーケ画)
11世紀フランスの出来事といえば、ロベール2世がブルゴーニュ公国を併合したことが挙げられます。ロベール2世、通称「敬虔王」(Robert II the Pious)は、フランス王ユーグ・カペーの子で、996年から1031年までフランス王として統治しました。彼の治世は、フランスの領土拡大と内部統一に向けた重要な時期であり、特にブルゴーニュ公国の併合はその重要な出来事の一つでした。
ロベール2世の時代、フランスはまだ現代のような統一国家とは言えず、多くの強力な地方領主が各地で独立した権力を握っていました。ブルゴーニュ公国もその一つで、当時はフランス王の直接の統治下にはなく、独自の公爵によって統治されていたのです。
そんな中ロベール2世は、1002年にブルゴーニュ公爵アンリ1世が亡くなった際、ブルゴーニュ公国の併合を試みました。彼はアンリ1世の甥であるという血統的主張に基づいてブルゴーニュ公国をフランス王国に組み入れる権利を主張。これによってブルゴーニュ公国はフランス王国の一部となり、後のフランス国家の拡大と統一への基礎を築いたとされているのです。
「フランスで最初の偉大な王」と称されるフィリップ2世が即位。イギリス・ジョン(欠地王)との抗争に勝利しノルマンディーを獲得し、アルビジョア十字軍で南フランスにも勢力を拡大した。
カペー朝フランス王国が神聖ローマ帝国・イングランド王国などの連合を相手取った「ブーヴィーヌの戦い」が起こる。フランスはこの戦いに勝利し、カペー朝の王権を確立。神聖ローマ帝国に代わりヨーロッパの強国として躍り出るようになる。
▲ブーヴィーヌにおけるフィリップ2世/ラース・ヴェルネ画
フランス王フィリップ4世が、対立関係にあったローマ教皇ボニファティウス8世を幽閉し、憤死に追い込む事件(アナーニ事件)が発生。画像は捕縛される教皇ボニファティウス8世。
フィリップ4世の後援で、ローマ教皇としてフランス人クレメンス5世(左図人物)が選出。この出来事は、教皇庁とフランス王権との関係において重要な転換点となった。クレメンス5世の選出は、フランスの政治的影響力がカトリック教会の最高位に及んでいることを示し、教会と国家の関係に新たな次元をもたらした。彼の治世は、後のアヴィニョン捕囚へと繋がる教皇庁のフランスへの移転の布石となった。
フィリップ4世の要請により、教皇庁がローマから南フランスのアヴィニョンに移される。これは「アヴィニョン捕囚」として知られ、約70年間続いた。この期間、7人の教皇がアヴィニョンでその地位を保持し、ローマ教皇庁はフランス王権の影響下に置かれた。
この出来事は、カトリック教会の歴史において重要な転換期であり、教会の中立性と独立性に関する議論を引き起こしました。
フランス王国第15代国王シャルル4世が死去したことで、跡継ぎのいないカペー朝は断絶。ヴァロワ家のフィリップ6世(左図人物)がフランス王に即位したことでヴァロワ朝が創始。フィリップ6世の即位は、イングランドとフランスの間の緊張を高め、両国間の複雑な領土と継承権の争いを引き起こし、百年戦争の引き金となった。
フィリップ4世の孫であるイングランド王エドワード3世が、自らこそフランス王国の王位継承者だと主張。英仏の対立により百年戦争が勃発した。最初は劣勢だったが、ジャンヌ・ダルクの登場で形成が逆転し、大陸からイギリス勢力が一掃される形でフランスの勝利が画定。現在のフランス国土がほぼ画定した。
▲ジャンヌ・ダルクの活躍でイギリスに占領されていたオルレアンが解放され、百年戦争はこの勝利を皮切りにフランス優位の戦況に傾いた。
イタリアの覇権をめぐり、フランス(ヴァロワ家)と神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)が対立し、イタリア戦争が開始される。宗教改革と時期が重なったこともあり、戦争は長期化。両国の財政を圧迫し継続が困難になった為、カトー・カンブレジ条約(1559年)で講和が成立。この戦争はヨーロッパにおける軍事改革を推進した。
▲ナポリに侵攻するフランス軍
イタリア戦争最大規模のカンブレー同盟戦争が勃発する。急速に権勢を強めるヴェネツィア共和国と、それを抑止したいカンブレー同盟(ローマ教皇提唱のもと結ばれたフランス王国と神聖ローマ帝国の同盟)が衝突した。しかし途中でカンブレー同盟が解体され神聖同盟が結ばれるなど、対立構図の変節で戦いは泥沼化。イタリア戦争の長期化を決定づける戦争となった。
▲カンブレー同盟戦争の戦いの一つ『ラヴェンナの戦い』で戦死するフランス軍総大将ガストン・ド・フォワ/アリ・シェフェール画
神聖ローマ帝国で宗教改革が勃発し、フランスにも影響が波及。ジャン・カルヴァン(左図人物)の影響で「ユグノー」と呼ばれる新教徒(プロテスタント)が勢力を拡大するようになり、旧教徒(カトリック)との宗教対立が激化していく。
新教のユグノーと旧教のカトリックの対立からユグノー戦争に発展。カトリック教徒によるユグノー虐殺事件「サン・バルテルミの虐殺」(1572年)で対立は頂点に達した。
▲「サン・バルテルミの虐殺」では3000人以上のユグノーが殺害され、抵抗権思想の萌芽となった
ユグノー戦争中アンリ3世が暗殺されヴァロワ朝が断絶。ナバラ王アンリがアンリ4世(左図人物)として即位し、ブルボン朝が創始。
アンリ4世がナントの勅令を発布。ユグノーにカトリックと同等の権利を認め、宗教対立に終止符を打った。この勅令はユグノー(プロテスタント)に信仰の自由を認め、カトリックと同等の権利を与えるもので、ユグノー戦争に終わりを告げることとなった。
▲ナントの勅令制定にともない宣誓を行うアンリ4世
ナントの勅令はヨーロッパにおける宗教寛容の先駆けとなり、フランス内の宗教的平和と安定をもたらしましたが、後にルイ14世によって撤回されることとなります。
アンリ4世が、狂信的カトリック信徒に刺殺される。ルイ13世(左図人物)が王位を継承。ルイ13世の治世は、母后マリー・ド・メディシスとの政治的対立、宦官リシュリュー枢機卿の影響力の拡大、そしてハプスブルク家に対する外交政策が特徴である。ルイ13世の治世は、フランス絶対王政の基礎を固め、後のルイ14世の時代へとつながる重要な時期であったといえる。
神聖ローマ帝国を舞台に、カトリックとプロテスタントの宗教戦争が勃発(三十年戦争)。フランスは自国のカトリックという宗教的立場より、反ハプスブルク家としての政治的立場を優先し、プロテスタントを支援した。結果、フランスは講和条約のウェストファリア条約(1648年)で勢力を拡大することに成功。ヨーロッパの覇権を確立し、絶対王政を準備した。
▲三十年戦争においてフランス(ブルボン家)とスペイン(ハプスブルク家)の軍隊が武力衝突した「ロクロワの戦い」(1643年)
フランス王国による三十年戦争介入をきっかけに、フランス王国(ブルボン家)とスペイン王国(ハプスブルク家)の戦争が始まった。フランス優位のピレネー条約で講和。
▲西仏戦争におけるフランス王国・イングランド共和国の同盟軍とスペイン王国・イングランド王党派の同盟軍による戦い「砂丘の戦い」
太陽王ルイ14世(左図人物)が即位。王権強化と戦争による領土拡大を推進し、フランス絶対王政を体現した。一方彼による戦争政策の過熱はフランス財政を危機に陥れ、フランス革命の伏線となった。
ルイ14世によりナントの勅令が廃止され(フォンテーヌブロー勅令)、プロテスタントへの弾圧が再開される。勤勉なプロテスタントの国外大量流出を招き、フランス経済の衰退に繋がった。
▲フォンテーヌブロー勅令を発するルイ14世
スペイン・ハプスブルク家の断絶を受け、フランス・ブルボン朝フェリペ5世がスペイン王位継承を宣言。これにイギリス、オランダ、オーストリアなどが反発したことでスペイン継承戦争が勃発した。最終的にフェリペ5世の王位継承を認められるも、フランスは一部の領土を失うことになった。
▲スペイン継承戦争中のイングランド・オランダ連合艦隊とスペイン・フランス連合艦隊の海戦「ビーゴ湾の海戦」
プロイセンとオーストリアの対立を軸とした七年戦争が勃発。フランスも参戦し、フレンチ・インディアン戦争をはじめ、イギリスとの植民地争奪戦を繰り広げたが敗北し、カナダ、インドの植民地を喪失することとなった。
▲七年戦争の一環として行われたフレンチ・インディアン戦争
アメリカ独立戦争においてアメリカ独立勢力を支援し、イギリスに敵対した。1783年のパリ条約で独立を承認させることに成功するも、莫大な軍事支出によりフランス財政は危機に陥った。このことがフランス革命の間接的要因になる。
財政難から課税を行おうとしたことをきっかけに、ブルボン王政および一部特権階級に対する抗議運動がフランス全土で展開。バスティーユ牢獄襲撃を皮切りに始まった、封建的特権の廃棄、人権宣言、共和国憲法制定、王政廃止など一連の政治革新をフランス革命と呼ぶ。フランス革命はフランス近代史への出発点とされる。
▲『バスティーユ襲撃』(ジャン=ピエール・ウーエル画)
フランス革命の中で国王一家が捕えられる(テュイルリー宮殿襲撃)。王権は停止され、国民公会で共和政への移行が宣言された。(フランス第一共和政の成立)
▲『テュイルリー宮殿の襲撃』(ジャン・デュプレイシー=ベルトー画)
恐怖政治を実施したロベスピエールの失脚後、5人の総裁からなるブルジョワ共和政府として総裁政府が成立した。二院制議会の設立など引き続き革命運動を推進するも、不安定な政権運営ですぐに民衆の支持を失い、ナポレオン・ボナパルトの突き上げを喰らうこととなる。
▲第二次総裁政府の5人の総裁
ナポレオン・ボナパルトの「ブリュメール18日のクーデター」で総裁政府が崩壊。統領政府(執政政府)が成立する。ナポレオンが第一統領となり独裁的な権力を握るようになる。
▲総裁政府打倒を掲げクーデターを起こすナポレオン
ナポレオン・ボナパルトが護憲元老院からフランス皇帝の位を授けられ、フランス第一帝政(フランス帝国)が成立した。この出来事は、フランス革命による政治的混乱の終焉を象徴し、ナポレオンによる強力な中央集権体制の始まりを意味した。
▲『ナポレオンの戴冠式』ジャック=ルイ・ダヴィッド画
ナポレオンの治世は、法的、行政的改革、そしてヨーロッパにおける広範な軍事的拡張に特徴づけられる。彼の野心的な政策はヨーロッパ全土に影響を与え、ナポレオン戦争として知られる一連の軍事衝突を引き起こした。フランス第一帝政は、ヨーロッパの政治地図を再編成する重要な時期であった。
ナポレオン主導のライン同盟が結成され、これに大部分の領邦が加わったことで神聖ローマ帝国は解体を余儀なくされる。
▲青色地域の領邦が神聖ローマ帝国を離脱しライン同盟に加わった。
この歴史的な出来事は、中世以来続いていた神聖ローマ帝国の政治構造の終焉を意味し、ナポレオンのヨーロッパにおける影響力の増大を象徴していた。神聖ローマ帝国の解体は、ヨーロッパ全体の政治地図を再編成する一因となり、ナポレオン戦争期のヨーロッパの政治的変動を象徴する出来事として歴史に刻まれた。
モスクワ遠征の失敗以降、劣勢に陥っていたナポレオン軍が、ライプツィヒの戦いで決定的な敗北を喫し、フランス第一帝政は崩壊に追い込まれた。ナポレオンはエルバ島に島流しにされた。
▲『ライプツィヒでのナポレオンとポニャトフスキ』ジャニュアリー・ズコッホドロスキ画
ナポレオンが返り咲きのためにエルバ島を脱出し決起。しかしワーテルローの戦いで再度敗れ、完全に失脚した。その後ブルボン家ルイ18世がフランス国王として即位し、フランスは王政復古を遂げた。
▲『ワーテルローの戦い』ウィリアム・サドラー画
復古王政による専制政治、自由主義運動を抑圧しようとする動きに民衆が反発。七月革命(栄光の三日間)が勃発し、シャルル10世は廃位。ブルボン朝はまたも崩壊した。。七月革命は、ヨーロッパの自由主義と民主主義の進展において重要な役割を果たし、19世紀ヨーロッパの自由主義運動の一環として評価されている。
▲市街戦・市庁舎を襲撃する民衆
七月革命の後、オルレアン家のルイ・フィリップ(左図人物)が王に即位。立憲君主制のオルレアン朝(七月王政)が創始。B
オルレアン朝による選挙制限に、中小ブルジョワジーや労働者が反発し、デモ・ストライキが起こる。ルイ・フィリップが退位に追い込まれた(二月革命)。この革命の動きはドイツ、イタリア、東欧などヨーロッパ全体に波及し、ウィーン体制の崩壊を招いた。また革命後、共和主義者と社会主義者によって臨時政府が組織され、第二共和政がスタートした。
▲オルレアン朝の崩壊に繋がったフランス二月革命
ナポレオン3世(左図人物)がクーデターで共和政府を打倒し、皇帝として即位。フランス第二帝政を成立させた。この政治的変革は、フランスにおける再びの帝政への回帰を示し、ナポレオン3世は皇帝として独裁的な権力を握った。第二帝政は、経済的発展と社会的近代化を進めた一方で、政治的自由の制限も伴った。ナポレオン3世の統治は、対外軍事冒険を通じてフランスの影響力を拡大しようと試み、結果的に普仏戦争へとつながった。
ドイツ統一を目指し拡大を続けるプロイセン王国と、それを妨害するフランスとの間で普仏戦争が勃発。結果はフランスの惨敗となり、フランクフルト条約の調印で終結。自ら前線にでたナポレオン3世は捕虜になり、第二帝政は崩壊。第三共和政が成立した(第三共和国憲法の公布は75年)。
▲「マルス=ラ=トゥールの戦い」におけるフランス軍とプロイセン軍の戦闘
第一次世界大戦が勃発。フランスはロシア、イギリスなど連合国側として参戦。フランス北部ソンム河畔の戦線では、同大戦中最大の会戦「ソンムの戦い」が行われ、フランスでは20万人、全軍合わせ100万人以上の死者を出した。
▲第一次世界大戦では毒ガスや戦闘機、戦車などあらゆる新型近代兵器が投入され、産業革命を経た技術革新による殺傷力向上により、史上類を見ない膨大な数の犠牲者が発生した。
ドイツ革命による政権交代を経たドイツが降伏し、第一次世界大戦が終結する。最終的にフランスは140万人以上の犠牲を出し、戦後の厭戦ムードと軍備縮小に繋がった。しかし、ヴェルサイユ条約によるドイツへの厳しい処罰は、後のヨーロッパの政治的緊張を高める要因の一つとなった。
米英仏伊など各国の首脳が集まりパリ講和会議が開催される。第一次世界大戦の戦後処理について話し合った。その結果ヴェルサイユ条約が締結され、連合国とドイツとの講和が成立。ドイツは海外植民地を全て失い、莫大な賠償金を課された。
▲ヴェルサイユ宮殿での調印の様子/ウィリアム・オーペン画
ドイツの賠償金支払いの延滞を理由に、ドイツ経済の心臓ルール地方にフランス軍を派遣。ドイツ国民の反仏感情を高める結果となる。ルール占領は、ドイツ経済のさらなる悪化を招き、ヴァイマル共和国の不安定化を促進することになった。また、この出来事は、第二次世界大戦への道を進むナチスの台頭に間接的な影響を与えたといえる。
▲ルール地方の工業都市エッセンを進軍するフランス軍
アメリカにおける株価の大暴落で世界恐慌が巻き起こる。フランスはフラン=ブロックを形成するもあまり効果は得られなかった。ドイツでも失業者があふれかえり、ヒトラー政権樹立の導火線となった
ドイツで、ヒトラーがヴェルサイユ条約の軍備制限条項を破棄。再軍備宣言を行い、非武装地帯に指定されていたラインラント進駐を強行。特にフランスにとって直接的な脅威となり、国際社会の平和への脅威を顕著にした。この軍事的行動は、第二次世界大戦への道筋をつける重要な出来事の一つとなった。
フランス、イギリス、イタリア、ドイツで、ズテーテン地方の帰属問題について検討するミュンヘン会談を開催。フランスはイギリスに同調し、ズデーテンのドイツ併合を容認した。この決定は、後に「宥和政策」として批判され、ヒトラーの野望に対する抑止力の欠如を示すものとなった。ミュンヘン会談の結果は、ヨーロッパの安全保障構造をさらに弱体化させ、第二次世界大戦の勃発への道を開くこととなる。
▲ミュンヘン会談に参加するフランス首相ダラディエ(左から2番目の人物)
ドイツがポーランドに侵攻し、フランス・イギリスはドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が開始された。この戦争は、世界規模の衝突に発展し、軍事技術、国際関係、そして多くの国々の未来に深刻な影響を及ぼした。
ナチス・ドイツがフランスに侵攻。ドイツ軍の電撃戦に対応できず、パリへの進軍を許してしまう。ドイツ傀儡のヴィシー政権が成立し、第三共和政が崩壊した。フランスの降伏と政権の崩壊は、国内外に多大な影響を及ぼし、後のレジスタンス運動の動機となった。
▲シャルル・ド・ゴール広場のエトワール凱旋門を行進するドイツ軍
シャルル・ド・ゴール(左図人物)が、ロンドンで親連合国の亡命組織「自由フランス」を結成/フランスでもドイツ占領に対するレジスタンス運動が高まる。
自由フランスと北アフリカにいたヴィシー政権軍が合同し、フランス共和国臨時政府が成立。同月、連合軍によりパリが解放された。この成功は、フランス国内の士気を高め、レジスタンス運動への支持を強化した。パリ解放は、フランスの自由と独立への闘いにおける象徴的な勝利であり、国内外で広く称賛された。
▲パリ解放後シャンゼリゼ通りを行進する自由フランス軍
ナチス・ドイツが降伏し、第二次世界大戦が終結。フランスは復興と再建の道を歩み始めた。さらに戦後の冷戦時代を通じて、フランスは独立した核兵器保有国として国際政治に積極的に関与し、ヨーロッパ共同体(後のEU)の創設にも貢献した。
現代フランス史は、政治的・社会的変革の時代です。第二次世界大戦後の第四共和政の不安定さから、シャルル・ド・ゴールによる強固な第五共和政の確立へと移行し、フランスは国際舞台での影響力を維持。ヨーロッパ統合の推進者としてユーロ導入に貢献し、経済的安定と成長を実現しました。しかし、社会的緊張、移民問題、イスラム過激主義の台頭など、内政では多くの課題に直面しており、国際社会における主要国としての地位を保ちながら、これらの課題に取り組んでいるのです。
臨時政府により第四共和政憲法が作成され、フランス第四共和政が発足。新憲法が制定され、より民主的で安定した政府の枠組みが作られた。しかし、この時期のフランスは、政治的不安定さやアルジェリア戦争などの植民地問題により、多くの困難に直面した。第四共和政は不安定ではあったが、戦後のフランスにおける政治的変革と発展の重要な段階であった。
仏領アルジェリアにて、フランスによる植民地支配に不満を持つ住民が放棄し、アルジェリア独立戦争が勃発。エビアン協定の締結をもってアルジェリアの独立が承認された。この戦争は、フランス国内での政治的分裂を引き起こしただけでなく、フランス植民地帝国の終焉を象徴し、国内外政策に大きな変化をもたらした。
▲民族解放軍の指導者で後のアルジェリア大統領ウアリ・ブーメディエン(1927-1978)
フランス植民地モロッコとチュニジアの独立を承認した。これもまたフランスの植民地政策の終わりを象徴する出来事であり、植民地主義に対する抵抗の高まりと、国際社会における非植民地化の傾向を反映していた。両国の独立は、植民地統治の維持が不可能になったことを示し、フランスの国際的立場に影響を与えた。
スエズ運河の利権をめぐり、エジプトと英・仏・イスラエル対立し、スエズ戦争(第二次中東戦争とも)に発展した。アメリカがエジプト側についたことや、国際世論の避難を受けて、英仏イスラエル軍は撤退を余儀なくされた。この戦争は、フランスの国際的地位の低下を示すものであり、フランスの植民地主義への批判とその終焉を象徴する出来事であった。
▲英仏軍の攻撃で炎上する石油タンク(エジプト・ポートサイドにて)
アルジェリア戦争やスエズ戦争による政治混乱で、第四共和政政府に対する不満が高まり、事態の収拾のため、ド・ゴールが政界に呼び戻された。彼は首相に就任すると、大統領に強権が付与された新憲法を制定。第五共和政が創始した。
フランス・パリを中心に、学生運動を発端とする反体制運動が発生。「赤毛のダニー」(左図人物)ら活動家の指導のもと、全国規模の抗議運動に発展し、五月危機(五月革命)と呼ばれる経済麻痺が起こった。ド・ゴールが議会解散・総選挙を行なうことで収束したが、ド・ゴールは支持を失い、翌年の総選挙で失脚した。
1992年のマーストリヒト条約により、欧州連合(EU)が正式に設立され、ヨーロッパにおける経済、外交、司法などの分野での協力が強化されました。フランスはEUの創設メンバーとして、統合されたヨーロッパの推進に積極的な役割を果たし、後のユーロ導入への道を開いた。マーストリヒト条約は、フランスと他の欧州国家間の関係を深め、地域協力と統合の新時代を象徴している。
1998年のユーロ導入は、フランスにとって経済的および政治的に大きな意義を持つ出来事だった。ユーロは、フランスを含むヨーロッパ諸国間の経済的統合を象徴し、通貨の統一によって国境を越えた取引の簡素化と効率化を実現した。フランスにとって、ユーロは国内経済の安定化と国際競争力の向上をもたらし、ヨーロッパ連合(EU)内でのフランスの政治的影響力を強化する手段となった。ユーロの導入は、フランスの経済政策だけでなく、ヨーロッパの経済ランドスケープ全体に影響を与える重要な変革だった。
2005年のパリ郊外暴動事件は、社会的・経済的不平等と警察との緊張が原因で発生した。若者たちの間での怒りが爆発し、車の放火や公共施設の破壊が数週間にわたって続いた。この事件は、フランス社会における統合の失敗と、移民コミュニティとの関係の緊張を浮き彫りにした。
2015年1月のシャルリー・エブド襲撃事件は、イスラム過激派による攻撃で、風刺雑誌「シャルリー・エブド」の編集部が標的となった。この事件で12人が死亡し、表現の自由と宗教的過激主義の間の緊張が明らかになった。
2015年11月のパリ同時多発テロ事件は、イスラム国(IS)が実行を主張した一連の攻撃で、コンサートホール、スタジアム、レストランなどが標的にされた。このテロで130人以上が死亡し、フランスおよび世界に深い衝撃を与え、国際的なテロリズム対策の重要性を再認識させた。
以上が、古代から現代までのフランスの歴史年表になります。いかがでしたでしょうか?
古代ガリア時代からローマの征服を経て、中世のフランク王国の成立、カロリング帝国の栄光に始まるフランスの歴史は、ルネサンス時代の文化的発展とともに続きました。
そして近代ヨーロッパへの画期とされるフランス革命は、絶対王政の終焉と近代民主主義の幕開けを告げ、その後のナポレオン帝政によってヨーロッパ全土に大きな影響を及ぼしました。
19世紀から20世紀にかけて、産業革命、世界大戦、植民地主義の終焉という激動の時代を経て、フランスは現代においてもヨーロッパ統合の推進者として、また文化的、政治的な大国としての地位を保っています。
社会的・経済的な課題に直面しながらも、フランスはその豊かな歴史と遺産を背景に未来に向かって歩みを進めているのです。
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