
フランスの国旗
フランスの国土
フランス(正式名称:フランス共和国)は、西ヨーロッパに位置する共和制国家です。国土は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がり、気候区は大陸性、海洋性、地中海性の気候に属しています。首都は世界屈指の観光都市パリ。
この国では食品産業、製材、製紙業、運輸業、機械産業、電気機械、金属、石油化学産業、自動車産業が中心的に発達しており、またワインの生産がさかんです。またフランスは地形が概して平坦なためEU最大の農業国としても知られ「ヨーロッパのパン籠」と呼ばれています。
古代ヨーロッパにおいて、現在のフランスにあたる地域は、ガリアと呼ばれ、前6世紀頃よりケルト人(ガリア人)が居住していました。ガリアは前1世紀にローマ人に征服され、後5世紀ローマ帝国が没落すると、フランク人に征服されます。そのフランク人がガリアに興した西フランク王国(843年〜987年)という国が、フランスの原型になりました。ユーグ・カペーの西フランク王位継承とともに成立したフランス王国(987年〜1792年)は、教皇とのコネクションや対外戦争で力を誇示し、王権を拡大。17世紀には絶対王政を確立し、西ヨーロッパの覇権を握る超大国となりました。しかし時代が下ると王政の腐敗が進み、怒れる民衆によりフランス革命(1789年)が引き起こされます。革命政府は王政を廃し、1792年共和政移行を宣言。(その後帝政樹立や王政復古など政治体制の変遷はあったものの)こうして現在に続くフランス共和国が成立したのです。ここではその過程をもう少し詳しく年表形式で紹介しています。
|
|
現・フランスの領域(ガリア)に、中央ヨーロッパ出身のケルト人が居住を開始。
▲ガリアの大まかな領域
共和政ローマのユリウス・カエサルがガリアに侵攻。フランス人最初の英雄とされるウェルキンゲトリクスの活躍で、ローマを大いに苦しめるも、前51年には全土が征服されローマ属州となる。
▲カエサルの前に武器を投げ捨て降伏するウェルキンゲトリクス
ゲルマニアのゲルマン民族が、東方のフン族の圧力に圧され、大規模移住を開始(ゲルマン民族の大移動)。ガリアにはフランス人の祖先であり、ゲルマン民族一派のフランク人が流入し、定住するようになる。
▲ゲルマニアの大まかな領域
|
|
ゲルマン民族の傭兵隊長オドアケルにより、西ローマ皇帝位が廃され、西ローマ帝国が崩壊する。
▲オドアケルに屈し帝冠を差し出す西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥス
フランク人のクローヴィス(左図人物)によりフランク諸族が統一され、メロヴィング朝フランク王国が成立。同王国は周囲のゲルマン諸王国を併合しながら勢力を拡大し、9世紀初頭までに西ヨーロッパ全域を支配する大帝国に成長した。
▲フランク王国の最大版図(804年頃)
フランク王国宮宰カール・マルテルが、ヨーロッパ征服を目論むイスラム勢力を撃破(トゥール・ポワティエ間の戦い)。キリスト教世界を護ったカロリング家は、絶大な名声を得た。
▲トゥール・ポワティエ間の戦い/シャルル・ド・スチューベン画
カール・マルテルの子ピピン3世(左図人物)がメロヴィング朝を廃し、カロリング朝フランク王国を創始。
ピピンの子シャルマーニュ(左図人物)がローマ教皇より載冠を受け、西ローマ皇帝として承認される。
|
|
ヴェルダン条約によりフランク王国領が三分割され、西フランク王国/東フランク王国/中部フランク王国が成立。それぞれ現在のフランス、ドイツ、イタリアのベースとなった。
▲ヴェルダン条約による画定範囲(青色の領域がフランスの原型となった西フランク王国)
メルセン条約によりフランク王国領が再画定される。この条約で中フランク王国の北半分が西フランク王国と東フランク王国に割譲された。
▲メルセン条約による画定範囲(青色の領域がフランスの原型となった西フランク王国)
ルイ5世が死去し、男系王位継承不在により、カロリング朝が断絶。ロベール家のフランス公ユーグ・カペー(左図人物)が国王に即位し、カペー朝フランス王国が創始。
ロベール2世がブルゴーニュ公国を併合
「フランスで最初の偉大な王」と称されるフィリップ2世が即位。イギリス・ジョン(欠地王)との抗争に勝利しノルマンディーを獲得し、アルビジョア十字軍で南フランスにも勢力を拡大した。
カペー朝フランス王国が神聖ローマ帝国・イングランド王国などの連合を相手取った「ブーヴィーヌの戦い」が起こる。フランスはこの戦いに勝利し、カペー朝の王権を確立。神聖ローマ帝国に代わりヨーロッパの強国として躍り出るようになる。
▲ブーヴィーヌにおけるフィリップ2世/ラース・ヴェルネ画
フランス王フィリップ4世が、対立関係にあったローマ教皇ボニファティウス8世を幽閉し、憤死に追い込む事件(アナーニ事件)が発生。画像は捕縛される教皇ボニファティウス8世。
フィリップ4世の後援で、ローマ教皇としてフランス人クレメンス5世(左図人物)が選出。
フィリップ4世の要請により、教皇庁がローマから南フランスのアヴィニョンに移される(アヴィニョン捕囚)
フランス王国第15代国王シャルル4世が死去したことで、跡継ぎのいないカペー朝は断絶。ヴァロワ家のフィリップ6世(左図人物)がフランス王に即位したことでヴァロワ朝が創始。
フィリップ4世の孫であるイングランド王エドワード3世が、自らこそフランス王国の王位継承者だと主張。英仏の対立により百年戦争が勃発した。最初は劣勢だったが、ジャンヌ・ダルクの登場で形成が逆転し、大陸からイギリス勢力が一掃される形でフランスの勝利が画定。現在のフランス国土がほぼ画定した。
▲ジャンヌ・ダルクの活躍でイギリスに占領されていたオルレアンが解放され、百年戦争はこの勝利を皮切りにフランス優位の戦況に傾いた。
イタリアの覇権をめぐり、フランス(ヴァロワ家)と神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)が対立し、イタリア戦争が開始される。宗教改革と時期が重なったこともあり、戦争は長期化。両国の財政を圧迫し継続が困難になった為、カトー・カンブレジ条約(1559年)で講和が成立。この戦争はヨーロッパにおける軍事改革を推進した。
▲ナポリに侵攻するフランス軍
|
|
イタリア戦争最大規模のカンブレー同盟戦争が勃発する。急速に権勢を強めるヴェネツィア共和国と、それを抑止したいカンブレー同盟(ローマ教皇提唱のもと結ばれたフランス王国と神聖ローマ帝国の同盟)が衝突した。しかし途中でカンブレー同盟が解体され神聖同盟が結ばれるなど、対立構図の変節で戦いは泥沼化。イタリア戦争の長期化を決定づける戦争となった。
▲カンブレー同盟戦争の戦いの一つ『ラヴェンナの戦い』で戦死するフランス軍総大将ガストン・ド・フォワ/アリ・シェフェール画
神聖ローマ帝国で宗教改革が勃発し、フランスにも影響が波及。ジャン・カルヴァン(左図人物)の影響で「ユグノー」と呼ばれる新教徒(プロテスタント)が勢力を拡大するようになり、旧教徒(カトリック)との宗教対立が激化していく。
新教のユグノーと旧教のカトリックの対立からユグノー戦争に発展。カトリック教徒によるユグノー虐殺事件「サン・バルテルミの虐殺」(1572年)で対立は頂点に達した。
▲「サン・バルテルミの虐殺」では3000人以上のユグノーが殺害され、抵抗権思想の萌芽となった
ユグノー戦争中アンリ3世が暗殺されヴァロワ朝が断絶。ナバラ王アンリがアンリ4世(左図人物)として即位し、ブルボン朝が創始。
アンリ4世がナントの勅令を発布。ユグノーにカトリックと同等の権利を認め、宗教対立に終止符を打った。
▲ナントの勅令制定にともない宣誓を行うアンリ4世
|
|
アンリ4世が、狂信的カトリック信徒に刺殺される。ルイ13世(左図人物)が王位を継承。
神聖ローマ帝国を舞台に、カトリックとプロテスタントの宗教戦争が勃発(三十年戦争)。フランスは自国のカトリックという宗教的立場より、反ハプスブルク家としての政治的立場を優先し、プロテスタントを支援した。結果、フランスは講和条約のウェストファリア条約(1648年)で勢力を拡大することに成功。ヨーロッパの覇権を確立し、絶対王政を準備した。
▲三十年戦争においてフランス(ブルボン家)とスペイン(ハプスブルク家)の軍隊が武力衝突した「ロクロワの戦い」(1643年)
フランス王国による三十年戦争介入をきっかけに、フランス王国(ブルボン家)とスペイン王国(ハプスブルク家)の戦争が始まった。フランス優位のピレネー条約で講和。
▲西仏戦争におけるフランス王国・イングランド共和国の同盟軍とスペイン王国・イングランド王党派の同盟軍による戦い「砂丘の戦い」
太陽王ルイ14世(左図人物)が即位。王権強化と戦争による領土拡大を推進し、フランス絶対王政を体現した。一方彼による戦争政策の過熱はフランス財政を危機に陥れ、フランス革命の伏線となった。
ルイ14世によりナントの勅令が廃止され(フォンテーヌブロー勅令)、プロテスタントへの弾圧が再開される。勤勉なプロテスタントの国外大量流出を招き、フランス経済の衰退に繋がった。
▲フォンテーヌブロー勅令を発するルイ14世
スペイン・ハプスブルク家の断絶を受け、フランス・ブルボン朝フェリペ5世がスペイン王位継承を宣言。これにイギリス、オランダ、オーストリアなどが反発したことでスペイン継承戦争が勃発した。最終的にフェリペ5世の王位継承を認められるも、フランスは一部の領土を失うことになった。
▲スペイン継承戦争中のイングランド・オランダ連合艦隊とスペイン・フランス連合艦隊の海戦「ビーゴ湾の海戦」
プロイセンとオーストリアの対立を軸とした七年戦争が勃発。フランスも参戦し、フレンチ・インディアン戦争をはじめ、イギリスとの植民地争奪戦を繰り広げたが敗北し、カナダ、インドの植民地を喪失することとなった。
▲七年戦争の一環として行われたフレンチ・インディアン戦争
アメリカ独立戦争においてアメリカ独立勢力を支援し、イギリスに敵対した。1783年のパリ条約で独立を承認させることに成功するも、莫大な軍事支出によりフランス財政は危機に陥った。このことがフランス革命の間接的要因になる。
財政難から課税を行おうとしたことをきっかけに、ブルボン王政および一部特権階級に対する抗議運動がフランス全土で展開。バスティーユ牢獄襲撃を皮切りに始まった、封建的特権の廃棄、人権宣言、共和国憲法制定、王政廃止など一連の政治革新をフランス革命と呼ぶ。フランス革命はフランス近代史への出発点とされる。
▲『バスティーユ襲撃』(ジャン=ピエール・ウーエル画)
フランス革命の中で国王一家が捕えられる(テュイルリー宮殿襲撃)。王権は停止され、国民公会で共和政への移行が宣言された。(フランス第一共和政の成立)
▲『テュイルリー宮殿の襲撃』(ジャン・デュプレイシー=ベルトー画)
恐怖政治を実施したロベスピエールの失脚後、5人の総裁からなるブルジョワ共和政府として総裁政府が成立した。二院制議会の設立など引き続き革命運動を推進するも、不安定な政権運営ですぐに民衆の支持を失い、ナポレオン・ボナパルトの突き上げを喰らうこととなる。
▲第二次総裁政府の5人の総裁
ナポレオン・ボナパルトの「ブリュメール18日のクーデター」で総裁政府が崩壊。統領政府(執政政府)が成立する。ナポレオンが第一統領となり独裁的な権力を握るようになる。
▲総裁政府打倒を掲げクーデターを起こすナポレオン
|
|
ナポレオン・ボナパルトが護憲元老院からフランス皇帝の位を授けられ、フランス第一帝政(フランス帝国)が成立した。
▲『ナポレオンの戴冠式』ジャック=ルイ・ダヴィッド画
ナポレオン主導のライン同盟が結成され、これに大部分の領邦が加わったことで神聖ローマ帝国は解体を余儀なくされる。
▲青色地域の領邦が神聖ローマ帝国を離脱しライン同盟に加わった。
モスクワ遠征の失敗以降、劣勢に陥っていたナポレオン軍が、ライプツィヒの戦いで決定的な敗北を喫し、フランス第一帝政は崩壊に追い込まれた。ナポレオンはエルバ島に島流しにされた。
▲『ライプツィヒでのナポレオンとポニャトフスキ』ジャニュアリー・ズコッホドロスキ画
ナポレオンが返り咲きのためにエルバ島を脱出し決起。しかしワーテルローの戦いで再度敗れ、完全に失脚した。その後ブルボン家ルイ18世がフランス国王として即位し、フランスは王政復古を遂げた。
▲『ワーテルローの戦い』ウィリアム・サドラー画
復古王政による専制政治、自由主義運動を抑圧しようとする動きに民衆が反発。七月革命(栄光の三日間)が勃発し、シャルル10世は廃位。ブルボン朝はまたも崩壊した。
▲市街戦・市庁舎を襲撃する民衆
七月革命の後、オルレアン家のルイ・フィリップ(左図人物)が王に即位。立憲君主制のオルレアン朝(七月王政)が創始。
オルレアン朝による選挙制限に、中小ブルジョワジーや労働者が反発し、デモ・ストライキが起こる。ルイ・フィリップが退位に追い込まれた(二月革命)。この革命の動きはドイツ、イタリア、東欧などヨーロッパ全体に波及し、ウィーン体制の崩壊を招いた。また革命後、共和主義者と社会主義者によって臨時政府が組織され、第二共和政がスタートした。
▲オルレアン朝の崩壊に繋がったフランス二月革命
ナポレオン3世(左図人物)がクーデターで共和政府を打倒し、皇帝として即位。フランス第二帝政を成立させた。
ドイツ統一を目指し拡大を続けるプロイセン王国と、それを妨害するフランスとの間で普仏戦争が勃発。結果はフランスの惨敗となり、フランクフルト条約の調印で終結。自ら前線にでたナポレオン3世は捕虜になり、第二帝政は崩壊。第三共和政が成立した(第三共和国憲法の公布は75年)。
▲「マルス=ラ=トゥールの戦い」におけるフランス軍とプロイセン軍の戦闘
|
|
第一次世界大戦が勃発。フランスはロシア、イギリスなど連合国側として参戦。フランス北部ソンム河畔の戦線では、同大戦中最大の会戦「ソンムの戦い」が行われ、フランスでは20万人、全軍合わせ100万人以上の死者を出した。
▲第一次世界大戦では毒ガスや戦闘機、戦車などあらゆる新型近代兵器が投入され、産業革命を経た技術革新による殺傷力向上により、史上類を見ない膨大な数の犠牲者が発生した。
ドイツ革命による政権交代を経たドイツが降伏し、第一次世界大戦が終結する。最終的にフランスは140万人以上の犠牲を出し、戦後の厭戦ムードと軍備縮小に繋がった。
米英仏伊など各国の首脳が集まりパリ講和会議が開催される。第一次世界大戦の戦後処理について話し合った。その結果ヴェルサイユ条約が締結され、連合国とドイツとの講和が成立。ドイツは海外植民地を全て失い、莫大な賠償金を課された。
▲ヴェルサイユ宮殿での調印の様子/ウィリアム・オーペン画
ドイツの賠償金支払いの延滞を理由に、ドイツ経済の心臓ルール地方にフランス軍を派遣。ドイツ国民の反仏感情を高める結果となる。
▲ルール地方の工業都市エッセンを進軍するフランス軍
アメリカにおける株価の大暴落で世界恐慌が巻き起こる。フランスはフラン=ブロックを形成するもあまり効果は得られなかった。ドイツでも失業者があふれかえり、ヒトラー政権樹立の導火線となった
ドイツで、ヒトラーがヴェルサイユ条約の軍備制限条項を破棄。再軍備宣言を行い、非武装地帯に指定されていたラインラント進駐を強行。
フランス、イギリス、イタリア、ドイツで、ズテーテン地方の帰属問題について検討するミュンヘン会談を開催。フランスはイギリスに同調し、ズデーテンのドイツ併合を容認した。
▲ミュンヘン会談に参加するフランス首相ダラディエ(左から2番目の人物)
ドイツがポーランドに侵攻し、フランス・イギリスはドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が開始された。
ナチス・ドイツがフランスに侵攻。ドイツ軍の電撃戦に対応できず、パリへの進軍を許してしまう。ドイツ傀儡のヴィシー政権が成立し、第三共和政が崩壊した。
▲シャルル・ド・ゴール広場のエトワール凱旋門を行進するドイツ軍
シャルル・ド・ゴール(左図人物)が、ロンドンで親連合国の亡命組織「自由フランス」を結成/フランスでもドイツ占領に対するレジスタンス運動が高まる。
自由フランスと北アフリカにいたヴィシー政権軍が合同し、フランス共和国臨時政府が成立。同月、連合軍によりパリが解放された。
▲パリ解放後シャンゼリゼ通りを行進する自由フランス軍
ナチス・ドイツが降伏し、第二次世界大戦が終結。
|
|
臨時政府により第四共和政憲法が作成され、フランス第四共和政が発足。
仏領アルジェリアにて、フランスによる植民地支配に不満を持つ住民が放棄し、アルジェリア独立戦争が勃発。エビアン協定の締結をもってアルジェリアの独立が承認された。
▲民族解放軍の指導者で後のアルジェリア大統領ウアリ・ブーメディエン(1927-1978)
フランス植民地モロッコとチュニジアの独立を承認した。
スエズ運河の利権をめぐり、エジプトと英・仏・イスラエル対立し、スエズ戦争(第二次中東戦争とも)に発展した。アメリカがエジプト側についたことや、国際世論の避難を受けて、英仏イスラエル軍は撤退を余儀なくされた。
▲英仏軍の攻撃で炎上する石油タンク(エジプト・ポートサイドにて)
アルジェリア戦争やスエズ戦争による政治混乱で、第四共和政政府に対する不満が高まり、事態の収拾のため、ド・ゴールが政界に呼び戻された。彼は首相に就任すると、大統領に強権が付与された新憲法を制定。第五共和政が創始した。
フランス・パリを中心に、学生運動を発端とする反体制運動が発生。「赤毛のダニー」(左図人物)ら活動家の指導のもと、全国規模の抗議運動に発展し、五月危機(五月革命)と呼ばれる経済麻痺が起こった。ド・ゴールが議会解散・総選挙を行なうことで収束したが、ド・ゴールは支持を失い、翌年の総選挙で失脚した。
|
|