ゴート戦争

ゴート戦争

ゴート戦争の第二期においてフィレンツェを攻撃するトーティラ王

 

ゴート戦争は、376年から382年にかけて、ゲルマン系民族のゴート族が、ローマ帝国領内のバルカン半島に侵入したことをきっかけに、ローマ人とゴート族との間で行われた戦争です。ゲルマン民族大移動(375年〜)に端を発する地中海世界の混乱事象の1つといえ、ローマがこの戦争で被った被害は西ローマ帝国滅亡の遠因となりました。以下でそんなゴート戦争の背景、結果、影響についてもっと詳しくみていきましょう。

 

 

戦争の背景

当初ローマは侵入してきたゴート族の帝国領内への移住を認め、ゴート族からローマへの兵力供給の見返りとして、ゴート族の保護を約束する条約を結びました。ところがゴート族に与えられた土地は、あまりに狭かったので、やがて彼らは飢餓に苦しむことになります。ゴート族はローマに窮状を訴え、条約に基づき十分な食料を供給と土地の分配をするよう求めましたが、対応は到底満足できるものではありませんでした。そして飢餓による死者が続出する中、ゴート族の代表が殺される事件からローマに対する怒りが爆発し、ゴート戦争の火蓋が落とされてしまったのです。

 

戦争の結果

378年、両勢力の中間にあたるハドリアノポリスで両軍の衝突が起き、結果ローマは敗北してしまいます。(ハドリアノポリスの戦い)これによりゲルマン人の帝国心臓部への侵入を許してしまい、以来ローマ帝国のゲルマン化が急速に進行していくのです。

 

戦争の影響

ゴート戦争は、ローマ帝国に深刻な影響を与えました。まず、378年のハドリアノポリスの戦いでの敗北は、ローマ帝国の軍事的脆弱性を露呈させ、帝国全土に大きな衝撃を与えました。特に、この戦いでの敗北は、ローマの常備軍がゲルマン人諸部族との戦闘で初めて決定的に敗れた例であり、以降、ローマの軍事力は著しく低下していきました。

 

また、ゴート族をはじめとするゲルマン系諸部族のローマ帝国内への浸透が加速しました。これにより、ローマ帝国の行政や軍事組織にゲルマン人が深く関与するようになり、帝国のゲルマン化が進行します。一方で、この変化はローマの統一性を弱める結果をもたらし、後に476年の西ローマ帝国の滅亡へとつながる契機となりました。

 

さらに、ゴート戦争を通じて明らかになったローマの統治機構の限界や、外敵への対応力の不足は、帝国内の社会不安を増大させました。この混乱は、ローマ市民の間に動揺を広げ、帝国の統一を維持するうえで大きな障害となったのです。ゴート戦争は、ローマ帝国がかつての栄光を失い、衰退の一途をたどる転換点となった戦争だったといえるでしょう。