1848年革命が失敗した理由とは?

1848年革命はフランスをはじめとしてヨーロッパ各地に広がった自由主義を求める一連の革命を指します。この革命によって、フランス革命前のヨーロッパ秩序(絶対王政社会)に戻そうとする、いわゆるウィーン体制が崩壊しました。しかしフランス以外での反体制運動は軒並み鎮圧されており、前述の意義はあれど、結果だけみれば失敗に終わっているといえます。ここではその理由について簡単に解説していきたいと思います。

 

 

1848年革命とは

1848年革命の始まりはフランスでした。当時の七月王政では特権階級を優遇する政治が行われ、市民らが選挙権を持つことはありませんでした。

 

これに対して幅広い市民層が選挙法の改正を求めて運動を開始し、弾圧を受けながらも、最終的には一致団結の蜂起で七月王政を倒し、共和政を成立させることができました。

 

このフランスで1848年2月に起きた、七月王政を打倒するに至った革命を二月革命と呼びます。

 

ドイツに波及

フランスの二月革命に刺激を受け、翌3月にはドイツでも各諸邦で民衆が蜂起を起こすようになりました。ウィーンでは市民・学生が蜂起し、憲法制定国会の召集とメッテルニヒ※の解任が実現し、ウィーン体制を終わらせることとなりました。ドイツ、オーストリアでのこの一連の革命運動を三月革命と呼びます。

 

※メッテルヒはウィーン体制を最前線に立ってリードしていた人物であり、そのためウィーン体制はメッテルヒ体制とも呼ばれています。

 

1848年革命はなぜ失敗したのか

上述の結果を聞くと、「1848年革命は成功した」ようにも見えますが、実際にはほとんどの国で革命運動は鎮圧されて終わっています。これは各国の運動が次第に社会主義を帯びたものへ変化し、当初は革命を支持していたブルジョアジーが革命弾圧側に回ったことが背景にあります。

 

1848年革命の年には、マルクスとエンゲルスにより、資本主義の打倒を呼びかけた『共産党宣言』が書かれた。画像はロンドンで出版された本の表紙。

 

しかし「ブルジョアジー対労働者階級」という新たな対立構図が現出し、階級闘争の末に、ヨーロッパが真に平等な近代市民社会へと舵を切っていくことを思えば、1848年革命の意義はやはり不変的な物であるといえるでしょう。