アウグストゥス(前63年〜後14年)は、古代ローマの政治家で、ローマ帝国初代皇帝です。カエサル暗殺後のローマ内乱に勝利し、絶対権力を確立することで、プリンキパトゥス(元首政)、つまり事実上の帝政を創始した人物として知られます。古代ローマは彼の即位から200年間、平和と繁栄の「パクス・ロマーナ(ローマでの平和)」を享受し、版図を過去最大に広げています。ちなみに「アウグストゥス」とは称号で、本名はガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスといいます。
アウグストゥスという言葉には、ラテン語で「尊厳ある者」という意味があります。これは、カエサルの後継者でローマ帝国の事実上の初代皇帝となったオクタウィウスに贈られた称号です。共和政ローマでは、元老院からそのような称号を贈られることは大変に栄誉なことで、権力範囲に直接の影響はないものの大きな権威の象徴となりました。オクタウィウスは自ら王や皇帝を名乗ることはせず、元老院の決定に従って共和政の制度の中でいくつもの職を兼任していました。しかしこれは事実上の独裁で、時がたつにつれてアウグストゥスという称号も、ローマ皇帝を指す称号の一つになりました。3世紀に行われた改革の中では、「アウグストゥス」は正帝の称号になりました。
オクタウィアヌスは元老院からアウグストゥス(尊厳ある者)の称号を得ると、元老院から様々な権力を自分に移行し元首政(プリンキパトゥス)を開始。こうして1人の皇帝が国を一元的に支配する帝政ローマを成立させたのです。
ローマは王政から脱却し共和政を打ち立てて発展してゆきましたが、領土が巨大化し発展するにつれて、共和政の弱点が明らかになってきていました。カエサルは、さらなるローマの発展と安定のためには専制政治への移行が必要と考え、またその考えを隠そうとしなかったために共和主義者たちに暗殺されてしまいました。
後継者となったアウグストゥスは、カエサルと同じ思想を抱いていたと思われますが、とうとう最期まで皇帝や国王を自称することなく、あくまで共和政の枠組みの中にいてローマ人たちのプライドを守りました。事実上の独裁者となった後も、市民の代表者として行動することを自らに課したアウグストゥスには信奉者が多く、それが政治の安定にもつながりました。
アウグストゥスはローマに長く続いた内乱の時代を終わらせ、ローマ統一を達成し、その後も安定した政治を行ってローマをとても豊かにしました。このころのローマは誠実で気高く、それでいて寛容な国柄で知られています。アウグストゥスの安定した治世のもと、人々は属国となった他の民族などからも積極的に技術を学び、系統的な学問としてさらに発展させていくことができました。アウグストゥスの支配から始まったローマ黄金期に、文化的・芸術的に非常に価値の高いものがいくつも生まれ、後のルネサンスにつながります。
皇帝アウグストゥスの妻はリウィア・ドルシッラで、第2代皇帝ティベリウスの母でもあります。前38年、後のアウグストゥスとなるオクタウィアヌスと結婚しました。夫の死後、その遺言によりユリウス氏族の養女となるとともに、「アウグスタ」(“崇高なる女”の意)の称号が与えられ、名をユリア・アウグスタに改名しています。
リウィアは、当時のローマにしては珍しい貞淑で聡明な人物で、献身的で模範的な結婚生活を送ったため、後世の皇帝の妻の模範的な存在になりました。しかし同時に強い権力欲を持ち、夫の死後は神格化された夫の妻として大きな権威を手にし、政治に口出しするようになりました。また息子ティベリウスを帝位後継者にするために、他の後継者候補を次々暗殺したなど、黒い噂も存在します。
アウグストゥスは冷静沈着でバランス感覚に優れた人物であったといわれています。彼が実質的には独裁者として君臨しながら、カエサルの失敗に学び、わざわざ「市民の第一人者」を名乗り、共和制の伝統を尊重したのも、彼の慎重な性格を表しているといえるでしょう。
またもともと短気で残忍な性格だったものの、貞淑で聡明な妻リウィアの影響で温和になったという話も残っています。実際、妻の提言で、死刑を覆し追放にとどめるなどしており、妻が彼の人格形成や行動に影響を与えたことは確かでしょう。
アウグストゥスは大叔父ユリウス・カエサルの後継に指名されていました。本人は、紀元前44年にカエサルが暗殺された後で初めてそのことを知りました。カエサルの政敵からの妨害はありましたが、アウグストゥスはカエサルの遺志を継ぐ者として行動し、カエサルの配下にあった兵士たちからの熱烈な支持を得ました。元老院がカエサルの神格化を決定して「神君ユリウス」の尊称をおくると、アウグストゥスの発言権はさらに強まりました。
カエサルは共和政ローマで国王となろうとしたかどで暗殺されましたが、そう主張していた元老院派の権力者たちをアウグストゥスは次々と下してゆきました。カエサル暗殺から10年後には、ローマの半分をすでに手中に収めていました。残りの半分の支配者であったアントニウスがエジプトのプトレマイオス朝の女王クレオパトラと手を結んだため、アウグストゥスはローマ人たちの誇りに訴えかけるような宣伝でアントニウスを追い落としにかかりました。紀元前31年、最後の内戦であるアクティウムの海戦で勝利し、ついに「プリンケプス」つまり元老院内での最高位の称号を手にしました。
アウグストゥスは、いったん内戦時に掌握していた権利を元老院に返還し、共和政の復帰宣言を行いました。その後、元老院の側が、満場一致でアウグストゥスに国の全権を掌握するよう懇請しました。アウグストゥスはカエサル暗殺事件から教訓を得たのか、あくまで共和政の枠組みの中にとどまって元老院からの要請に応えているという形を取り、事実上の独裁権を確立していったのです。
騎士階級のガイウス・オクタウィアヌスとカエサルの姪アティアの子としてローマに生まれる。
カエサルの建造したウェヌス神殿を記念し、ギリシアの古代オリンピックに参加する。
共和政の崩壊を危惧した元老院の保守派によりカエサルが暗殺される。オクタウィアヌスはこの時ギリシアに遊学していた。
元老院から元老院議員に任命され、ローマ軍団の指揮権を与えられる。その後アントニウス、レピドゥスと第二回三頭政治を結成し、カエサル暗殺の首謀者および元老院派の排除にのりだす。
反カエサル派のセクストゥス・ポンペイウスとカエサル派のオクタウィアヌスとの間でナウロクス沖の海戦が行われる。オクタウィアヌス派がこの戦いに勝利したことで、反カエサル派・元老院派は一掃された。
第二回三頭政治は、共通の目的を果たすまでの一時的な同盟だったため、反カエサル派を一掃した後は、オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる政争に突入していきました。その中でまずレピドゥスがオクタウィアヌス打倒を企て失敗したことで脱落。以後アントニウスとオクタウィアヌスの一騎打ちとなり、最終的にはアクティウムの海戦で勝利したオクタウィアヌスがローマの覇権を確立することができたのです。
元老院派掃討後、アントニウスと対立し、ローマはオクタウィアヌス派とアントニウス派に分れるが、アクティウムの海戦でオクタウィアヌスがアントニウスを打倒することで、ローマは統一される。
内戦を収束させ、ローマを統一したオクタウィアヌスは絶大な権力を握る。オクタウィアヌスはアウグストゥスの称号を得て、ローマを事実上の帝政に移行した。
ポンペイ近郊の町で病死。75歳没。
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