スロベニアの国旗
スロベニアの国土
スロベニア(正式名称:スロベニア共和国)は、中央ヨーロッパのバルカン半島の北西部に位置する共和制国家です。国土はアルプス山脈の南端、スロベニア・アルプスの山々の麓に位置する山岳で構成され、気候区は温暖湿潤気候と西岸海洋性気候に属しています。首都は学生の町として知られるリュブリャナ。
この国ではとくに工業が発達しており、中でも電気機械の生産がさかんです。また温暖な気候を背景にしたホップ生産もこの国の基幹産業となっています。
そんなスロベニアの歴史は、南スラヴ人に建設されたカランタニア公国から始まるといえます。その後6世紀末にアヴァール王国等異民族による支配が始まり、1282年ハプスブルグ家の所領に。以後1918年までハプスブルク帝国領となります。第一次世界大戦後にハプスブルク帝国から抜けユーゴスラビアに組み込まれますが、冷戦終結後の1991年6月に独立と主権を宣言。十日間戦争を乗り切り1992年EU各国等が国家承認。2004年5月EUに加盟して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなスロベニアの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
古代スロベニアは、ヨーロッパのバルカン半島北部に位置し、豊かな自然環境と戦略的な位置から、多様な文化の交差点となっていました。紀元前にはイリュリア人がこの地を支配しており、その後ケルト人が侵入してきました。紀元前1世紀にローマ帝国の一部となり、この地域は「ノリクム」として知られるようになります。ローマの影響下で、都市が設立され、農業、商業、そして鉱業が発展しました。特に現在の首都リュブリャナに近い地域では、重要なローマ街道が通っており、地中海世界と中央ヨーロッパを結ぶ交易路として栄えました。ローマ文化の影響は、建築、法制度、言語など様々な面で顕著であり、その遺跡は今日に至るまで残っています。
6世紀の中頃、スラヴ人が北方からこの地域に流入し、現在のスロベニアに相当する地域に定住を開始した。この移住は大規模なもので、スラヴ人の言語、文化、および農業技術が徐々に地元のロマンス系の文化と融合し、地域の社会構造に大きな変化をもたらした。スラヴ人は多数の小集落を形成し、それぞれが独自の政治組織を持つようになり、後のスロベニアの基盤となる地方分権化された社会構造の原型を築いた。
ハプスブルク家がボヘミアのプシュミスル家との抗争に打ち勝ち、スロベニアの支配圏を得る。この出来事は、スロベニアが中央ヨーロッパの政治的な駆け引きに大きく関与するようになったことを示している。ハプスブルク家の支配は、地域の経済的および文化的発展に大きな影響を与え、多くの城や市が築かれ、商業が活発化した。また、この時期には地域社会の再編成も進み、中央集権化が進むきっかけとなった。
近世のスロベニアはハプスブルク家の支配下にありました。この時期、スロベニアはオスマン帝国の脅威に晒され、農業が主要産業として残りつつ、鉱山業も発展しました。特にイドリアでは水銀が採掘され、ヨーロッパの工業化に貢献しています。しかし、経済発展が限られていたため、多くのスロベニア人が経済的な理由で海外に移住しました。また、文化的にはドイツ化政策の影響を受けつつも、スロベニア語や文化の独自性は保たれていました。
ナポレオンによるヨーロッパ征服戦争の中(通称ナポレオン戦争)、フランス領イリュリア州が成立し、スロベニアもその一部となる。この州でスラブ語が公用語となったことは、現代スロベニア語の発展に大きく寄与した。
ナポレオンの失脚後、ヨーロッパの国境を再画定するウィーン会議を開催。その中でスロベニアは再びハプスブルク家の支配下に戻ることが決定し、ナポレオン統治下で勃興した民族運動はウィーン体制下で抑圧されるようになる。
1821年1月から5月にかけて、オーストリアのリュブリャナ(当時のライバハ)で開催された。主に、ヨーロッパの大国がナポレオン戦争後の問題を協議し、平和を維持するための集団的な方法を模索する場だった。この会議では、オーストリアがナポリ王国の自由主義的な蜂起を鎮圧するための軍事介入が承認された。会議はヨーロッパの革命運動を抑制するための同盟国間の一致を目指していたが、イギリスは介入主義の原則に強く反対し、その後のヨーロッパの政治的分裂を象徴する事件となった。
ハンガリー王国の独立にともないオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立し、スロベニアもその支配下に入る。
近代スロベニアはオーストリア=ハンガリー帝国の一部として発展しました。第一次世界大戦後、1918年にはスロベニア人、クロアチア人、セルビア人によってユーゴスラビア王国が形成され、スロベニアはその一部となりました。20世紀の大半で、社会主義ユーゴスラビアの構成国の一つとして存在し、相対的な自治を享受しながらも、国家全体の政治的変動の影響を強く受けました。この期間には産業化が進み、教育や経済の発展がみられました。
サラエボ事件とそれを受けたオーストリアの対セルビア宣戦布告により、第一次世界大戦が勃発する。スロベニア人もオーストリア=ハンガリー帝国の臣民として参戦した。
第一次世界大戦の敗戦で宗主のオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊。旧帝国の南端部に居住するスロベニア人、クロアチア人、セルビア人により、統一国家ユーゴスラビア王国が建国された。
ユーゴスラビア王国における最初の憲法ヴィドヴダン憲法が制定される。セルビア王国憲法をモデルに作成され、立憲君主制国家と規定。
1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻に端を発し第二次世界大戦が勃発。41年にはドイツ・イタリアを筆頭とした枢軸国勢力がユーゴスラビアへの侵攻を開始し、瞬く間に首都を制圧された。ユーゴスラビア王国政府は亡命。
枢軸国の占領下で、反ファシズム運動の最高機関としてスロベニア人民解放委員会が結成される。
チトー率いるパルチザンによりスロベニアは解放される。その後スロベニア政府が成立され、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国として、正式にスロベニア社会主義共和国が建国された
1991年にユーゴスラビアから独立を宣言したスロベニアは、現代においてEUやNATOに加盟し、国際社会での地位を確立しています。経済は多様化し、観光業が特に発展。豊かな自然と歴史的な都市が魅力です。教育水準も高く、政治は比較的安定。独立以来、経済成長と社会的福祉の向上に努め、中央ヨーロッパのモデル国家とされることもあります。また、文化的にも豊かで、音楽や文学、料理など多岐にわたる伝統が息づいています。
スロベニアがユーゴスラビア連邦からの独立を宣言したのを受けて、ユーゴスラビア連邦軍がスロベニアに侵攻。十日間戦争が勃発した。その名の通り10日程度で終結し、スロベニアは独立を果たしたが、泥沼化し甚大な犠牲が生み出されるユーゴスラビア紛争の号砲となった。
スロベニアは1992年に日本との国交を樹立し、同年に国際連合にも加盟した。これにより、スロベニアは国際社会において正式な地位を確立し、国際的な協力と関係の強化を進める基盤を築いた。また、これを機に経済や文化の交流も活発化し、スロベニアの国際的な認知度が向上した。
独立後、EUへの加盟を宿願としていたスロベニアは、95年には「EUの待合室」と言われる欧州自由貿易連合(EFTA)に、96年には中欧自由貿易協定(CEFTA)に加盟することで、宿願達成の為の体制構築に尽力した。
北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、集団安全保障を基礎にした国防体制を整えた。
独立以来努めてきた西ヨーロッパ諸国との政治・経済関係の深化が実を結び、宿願であった欧州連合(EU)への加盟を果たす。
スロベニアの首都リュブリャナに日本大使館が開設され、両国間の外交関係がさらに強化された。これにより、文化交流や経済協力が促進され、スロベニアと日本の友好関係が深化した。
スロベニアは2007年にユーロ通貨を導入し、欧州連合の経済統合に積極的に参加することとなった。これにより、スロベニアの経済は安定し、貿易や投資の増加が期待され、欧州の経済圏との結びつきが一層強化された。
以上が古代から現代にかけてのスロベニア史になります。古代はスラヴ人が定住を始め、中世にはハプスブルク家の支配を受けます。近代ではオーストリア=ハンガリー帝国の一部として発展し、第一次世界大戦後にはユーゴスラビア王国、その後の社会主義ユーゴスラビア連邦の一員となりました。1991年にスロベニアは独立を宣言し、EUやNATOに加盟しています。現代のスロベニアは政治的に安定し、経済的にも進展を遂げており、文化的に豊かで教育水準も高い国として知られています。
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