東ローマ帝国の「テマ制」ってどんな制度?

テマ制」は東ローマ帝国の中期頃(7〜11世紀)に皇帝ヘラクレイオスによって導入された地方行政制度です。日本語では軍管区制と呼ばれています。

 

この制度は、帝国各地に「テマ(軍管区)」を設置し、軍管区長官が軍事・行政・財政・裁判の権限を行使したというものです。

 

また、屯田兵制という兵制も同時に導入されました。

 

この制度は東ローマ帝国独自のものと言われています。

 

今回はこのテマ制について解説していきます。

 

 

なぜ「テマ制」が導入された?

テマ制が成立したのは7世紀頃と言われています。

 

初期(4世紀から6世紀頃)の東ローマ帝国では、地方は属州制(本国以外の領土)というローマ帝国時代からの制度によって治められていました。

 

しかし、6世紀半ば頃ににスラブ人やイスラム勢力といった異民族の侵攻を受けるようになると属州制は次第に崩壊していきました。

 

そこで導入されたのが「テマ制」です。

 

このテマ制がそれまでの属州制と大いに違うのは統治の仕方です。

 

属州制は中央(皇帝)から任命された州長官が行政を担当し、国防には軍の司令官が担当していました。

 

一方、テマ制では軍管区長官が行政から軍事までの権限を持っていました。

 

この結果、軍管区内の統治がしやすくなり(貴族の暴走も抑える)、外敵の侵入を防ぐことに成功しました。

 

全盛期には31ものテマが整備されました。

 

なぜ「テマ制」は崩壊した?

テマ制の導入は帝国に安定をもたらせましたが、11世紀に入るとプロノイア制が成立します。

 

これは国へ貢献(軍事奉仕など)した貴族に土地の所有権や徴税権を与えるもので、中央の権限が強かったテマ制とは真逆の制度でした。

 

この背景には7世紀のイスラム勢力からの侵攻とそれに伴う聖像崇拝論争で国力が弱まってしまったことが関係しています。

 

聖像崇拝論争

聖像崇拝論争とは、偶像崇拝を禁じるイスラム勢力からの侵攻を避けるためにレオン3世(在位:717年〜741年)が聖像禁止令を出したことを機に、ローマ=カトリック教会が猛反発したものです。

 

そこで、カトリック教との対立やイスラム勢力の侵攻から脱却するために力を借りたのが貴族でした。

 

当初は皇帝は軍事力を強化するために貴族に力を借りましたが、土地を持った貴族たちは自分たちの利益を優先したため、以降の帝国の領土は事実上分割された状態となったのです。

 
ページの先頭へ戻る