キケロとは何をした人?~ローマ屈指の雄弁家~

キケロとは

キケロは雄弁家として法廷や元老院で活躍し、多くの演説や書簡を残した。彼の政治哲学と文体はラテン文学の模範となり後世の教育や修辞学に影響を与えたのである。本ページでは、このあたりのバックグラウンドと後世への影響について詳しく掘り下げていく。

キケロとは何をした人?~ローマ屈指の雄弁家~


キケロの基本情報

 

生年:前106年
没年:前43年
出身:アルピヌム
死没地:フォルミア
別名:「国父」
功績:カティリナの陰謀阻止


キケロ(前106年 - 紀元前43年)は共和政ローマ末期の政治家で、「カティリナ弾劾演説」や「ウェレス弾劾演説」を行った雄弁家として有名です。彼は弁論家として成功を収めることで元老院入りを果たし、シチリア総督ウェレスの訴追やホルテンシウスとの論戦の勝利により、確固たる地位と名声を手にしました。そして前66年にプラエトル(法務官)に、前63年にはコンスル(統領)に就任と出世街道を突き進み、前63年にはカティリナ一派のローマへの反逆を阻止し、その功績で「国父」と呼ばれるようになりました。その際に行った「カティリナ弾劾演説」はあまりにも有名です。そんなキケロですが、ローマ内戦では元老院派のポンペイウスにつきカエサルと敵対したため、カエサルの死後、カエサルの意思を継承したオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)の刺客に殺されました。



キケロの偉業・功績

弁論家として数々の功績

キケロは古代ローマ指折りの弁論家であり、前81年におけるクインクティウス弁護をきっかけに弁論家としての頭角をあらわし、殺人事件案件であるロスキウス弁護の演説により一躍名声を手にしました。


カティリナの陰謀を暴露

執政官の時、国家転覆を企てたカティリナ一派の陰謀を「カティリナの弾劾演説」により暴き、その偉業が認められ元老院から「国父」の称号を得ました。


文学の発展に貢献

キケロは優れた著述家でもあり、彼の残した著作(「友情論」「老年論」「アッティクス宛書簡集」など)は、とりわけルネサンス期以降、ラテン散文の模範とされ、後世の文学に大きな影響をもたらしました。


キケロの『国家論』の内容とは

キケロの代表的著作の一つに『国家論』(全6巻)がありますね。これはプラトンの『国家』に習い、対話形式で国家のあり方、政治哲学について説く書。前54年から前51年にかけて書かれ、全6巻のうち三分の一程度が現存しています。


プラトンの『国家』を強く意識した内容で、小スキピオの庭園にて、スキピオサークルに属する9人が対話を行うという形式がとられています。小スキピオがキケロの代弁者として、3日間にわたる対話が進行していくのdせう。


執筆の動機

小スキピオの晩年(前129年頃)はグラックス兄弟の改革をめぐり国が分裂していた時期で、キケロはこれを執筆当時の第一回三頭政治による分裂に重ね、その解決策を見出すべく本書を書きました。小スキピオがキケロの代弁者となっているのはそのためです。