イタリアの歴史年表

イタリアの国旗

 

イタリアの国土

 

イタリア(正式名称イタリア共和国)は南ヨーロッパに位置し、主な国土たるイタリア半島とその周辺のサルデーニャ島、シチリア島で構成された共和制国家です。地図でイタリアを探す時は、地中海に大きく突き出た長靴型の半島が目印です。首都はヨーロッパ文明の揺籃となった古代ローマ発祥の地ローマ。

 

変化に富んだ地形や気候を活かした多種多様な農作物の栽培が行われています。地中海性気候が支配的な南部ではブドウの栽培がさかんで、有数のワイン(葡萄酒)生産国としても知られます。アルプス山脈に近い冷涼な北部では酪農がさかんで、この地域で生産されるチーズは50種を超えます。

 

そんなイタリアは古代ローマ発祥の地として知られますが、あくまでイタリアは地中海世界全域に至る広大なローマ帝国の一部を成したに過ぎず、厳密にはイタリアの歴史=古代ローマの歴史ではありません。ローマ帝国崩壊後のイタリアは複数の自由都市や王領、教皇領などが分立する政治的まとまりのない地域で、今のような統一国家になったのは近代になってからです。バラバラの状態からなぜ統一に向かう動きが出てきたのか、どう統一を成し遂げのが。その要因と過程を知ることがイタリアの歴史を理解する上で重要といえます。そのためここでは古代ローマ時代の歴史はある程度割愛しつつ、ローマ帝国崩壊から、イタリア統一にいたる過程を出来るだけ詳しく年表形式でまとめています。

 

イタリアの歴史年表

 

 

先史イタリア

イタリア半島には旧石器時代から人が暮らしていました。前1700年頃に青銅器時代が始まり、ボローニャからタラントにかけてはアペニン文化、ポー平野からリグリア海岸にかけてポー文化などが栄えました。アペニン文化とポー文化の発展に続き、前1200年頃には南イタリアとシチリア島にテッラマーレ文化が現れます。この文化は、水路と堤防に囲まれた集落が特徴で、農業、畜産、金属加工が盛んでした。

 

紀元前1000年頃には、イタリア半島は鉄器時代に突入します。この時代にはエトルリア人が台頭し、中部イタリアで強大な勢力を築きます。エトルリア文化は、優れた金属工芸、複雑な宗教儀式、そして都市計画において特に顕著であり、後の古代ローマ文明の基礎を形成することになるのです。

 

古代イタリア

イタリアの起源は紀元前8世紀半ばに、現在のイタリア半島中部に成立した古代ローマにまで遡ります。ローマは周辺の民族や都市国家を服属させることで勢力を拡大し、前1世紀には地中海世界全域を支配するほどの大帝国に成長しました。古代ローマの統治下で発達した様々な文化が、現在のイタリア文化の基礎となりました。

 

前8世紀

サレルノにあるマグナ・グラエキアの遺跡

 

シチリア島やイタリア半島南部に古代ギリシア人の植民が開始され、シラクサ、タラント、ナポリといった現在のイタリア都市の基礎が成立します。これら古代ギリシア人による生活圏はマグナ・グラエキアと呼ばれるようになりました。

 

紀元前753年古代ローマ建国

イタリア中部、テベレ川のほとりに都市国家ローマが建国される。周辺の民族や都市国家を併合しながら領土を拡大し、前3世紀にはイタリア半島全域を征服。前1世紀には地中海世界全域を支配する世界帝国へと成長した。

 


古代ローマの建国者と伝承されるロムルスとレムスの像。建国神話では政争に巻き込まれ捨てられた後に狼に育てられたとされる。

 

前7世紀

シチリア西部とサルデーニャ島にフェニキア人が移住。中部イタリアではエトルリア人が台頭します。そしてその南部・テベレ川下流に暮らしていたラテン人、サビニ人が、エトルリア人と交易の中で発展させた集落がローマの起源になりました。

 

前6世紀

はじめのうちはエトルリア人に服従していたローマ人ですが、前6世紀末にはエトルリア人の王を追放して共和政に移行しました。ローマはこの共和政のもとで、やがて地中海世界に覇を唱える超大国に成長していくことになります。

 

紀元前509年 古代ローマの共和政移行

紀元前509年、古代ローマの共和政移行は重要な歴史的転換点だった。この時代、ローマは王政から共和政へと政体を変え、ローマの政治的発展と拡張の基盤を築き、共和政のもとで、ローマは元老院や民会などの複雑な政治システムを発展させ、多くの重要な法律や制度を確立した。かつ軍事的な改革も行われ、ローマ軍はより効率的で強力な組織になった。これらの変化は、後にローマが地中海世界の覇者となるための基礎を築くことになる。

 

 

 

前4世紀

前4世紀になると、北方からケルト人の侵入と略奪の被害を受けるようになります。しかしまもなく再建し、中部イタリアのエトルリア人を征服し、イタリア半島最大の勢力を持つ国となりました。

 

前3世紀

前3世紀になると、南イタリア方面に進出し、そこに根を張っていた古代ギリシア植民地を征服。半島の大部分を支配下に収めました。さらに前3世紀末にはカルタゴとの覇権争い(ポエニ戦争)に勝利し、地中海の支配者として君臨しました。

 

前1世紀

前1世紀になるとローマと同盟市による内乱で政治的統一が揺らぎますが、それを制したカエサルが独裁的権力を振るうようになります。カエサルはその後、保守派の元老院議員に暗殺されますが、彼の後を継いだオクタウィアヌス(アウグストゥス)が内乱を収めて、元首政(帝政)を開始しました。

 

紀元前27年 古代ローマの帝政移行

オクタウィアヌスが長年のローマ内乱(内乱の一世紀)に終止符を打ち、ローマを統一。「アウグストゥス(尊厳ある者)」の称号を得てプリンキパトゥス(元首政)を成立させ、ローマは事実上の帝政に移行する。

 


内乱の一世紀最後の戦いとなったアクティウムの海戦(前31年)

 

2世紀

帝政開始からローマはパックス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれる繁栄を謳歌し、2世紀初めに史上最大の版図に達しました。この間、ヨーロッパ中にローマ法、キリスト教、ラテン語が広まっていき、ヨーロッパ文化の土台となりました。

 

4世紀

375年ゲルマン民族の大移動

フン人の圧力により原住地を追われてきたゲルマン民族が大移動を開始(ゲルマン民族の大移動)。以後ローマ帝国はゲルマン民族の大挙を受け社会的混乱に陥り、滅亡への道を歩み始める。

 


ローマ市内に攻め込むゲルマン人一派の西ゴート族

 

5世紀

476年 古代ローマ滅亡

4世紀以降、ゲルマン人の侵入により社会的混乱状態にあった西ローマ帝国が、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルにより皇帝が廃位に追い込まれついに滅亡。

 


帝冠をオドアケルに差し出す西ローマ皇帝

 

476年、古代ローマ帝国の崩壊は、西洋史上の一大転換期となりました。西ローマ帝国の最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスがゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって廃位されることで、千年近く続いたローマ帝国は事実上の終焉を迎えました。この出来事は、古代から中世への移行期を象徴し、ヨーロッパの政治的・社会的構造に大きな変化をもたらしました。多くのゲルマン人部族がローマ帝国の領土に侵入し、新たな王国を築くことで、ヨーロッパの地政学的な枠組みが大きく変わることになります。

 

 

 

中世イタリア

古代ローマ崩壊後のイタリア半島とその周辺地域には、複数の都市国家が分立するようになりました。そのうちの1つに、サヴォイア家の祖ウンベルト・ビアンカマーノが創始し、現フランス南東部サヴォイアを領土としたサヴォイア伯国があります。サヴォイア家は後にイタリア統一運動(リソルジメント)を主導し、イタリア王国を成立させることになりますので、サヴォイア伯国は古代ローマに次ぐイタリアの祖ともいえます。

 

5世紀

497年 東ゴート王国建国

イタリアに侵入したテオドリック率いる東ゴート族により、ラヴェンナを首都とする東ゴート王国が建国される。ローマ人とゴート人に別の支配体系を当てはめる分離統治が採用された。555年東ローマ帝国に攻め入られ滅亡。

 

6世紀

568年 ランゴバルド王国(ロンゴバルド王国)建国

北イタリアのロンバルディア地方に侵入したランゴバルド族により、ランゴバルド王国が建設。その後勢力を拡大し、ピーク時には中部イタリアから南イタリアまで支配するも、774年フランク王国に征服され滅亡。

 

570年 ベネヴェント公国成立

イタリア半島南端部にランゴバルド系の公国ベネヴェント公国が成立。1077年ノルマン人に征服され、1130年にノルマン人により建てられたシチリア王国に併合される。

 

7世紀

697年 ヴェネツィア共和国の成立


北イタリアのアドリア海岸の商業港を中心にヴェネツィア共和国が建国される。東ローマ帝国、フランク王国との関係を構築し東西貿易で、中世を通して繁栄。1797年にナポレオンに占領され滅亡。

 

8世紀

 

752年 教皇領の成立


フランク王国のピピン(左図人物)が、ラベンナをローマ教皇に寄進したことで教皇領が成立。1929年にラテラノ条約によりバチカン市国となる。

 

800年 カールの載冠


フランク王国の国王カール1世(左図人物)が、ローマ皇帝として戴冠をうけ「西ローマ帝国」が復活。フランク王国は以後キリスト教世界の保護者と位置付けられるようになる。

 

9世紀

831年 イスラムによるシチリア島征服

イタリア半島南部のシチリア島がイスラム勢力に征服される。その支配は11世紀にノルマン人に支配権を奪われるまで続いた。イスラム勢力の支配下でシチリアは多様な文化が混在する地域となり、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の信徒が共存するようになった。

 

イスラム支配期には、アラビア語、ギリシャ語、ラテン語などが交錯し、学問、芸術、建築など多くの分野で顕著な発展を遂げました。しかし、11世紀になるとノルマン人による征服が始まり、シチリアはキリスト教世界へと再統合されました。

 

843年 中フランク王国の成立

ヴェルダン条約の締結で、フランク王国が東フランク王国、西フランク王国、中フランク王国に分裂。このうち中フランク王国が870年のメルセン条約でイタリア王国となり、現イタリアのベースとなった。

 


ヴェルダン条約で形成された国境。緑色の地域が中フランク王国。

 

 

 

10世紀

962年 神聖ローマ帝国の成立


東フランク王オットー1世がローマ皇帝として戴冠したことで神聖ローマ帝国(のちのドイツ)が成立。北イタリアはその圧力を受けるようになった。

 

神聖ローマ帝国の成立は中世ヨーロッパの歴史において重要な意味を持ちます。この帝国は、現在のドイツを中心にヨーロッパ中央部に広がる領域を支配し、ローマ皇帝の権威とキリスト教の影響力を背景に中世ヨーロッパにおける政治的、宗教的な中心地となりました。しかし、帝国内の諸侯の権力が強く、統一された中央集権的な国家というよりは、諸侯による分権的な構造を持っていたことは留意しておきましょう。

 

958年 アマルフィ公国成立

「世界一美しい海岸」と称され、世界遺産にも登録されているアマルフィ海岸

 


イタリア半島南部・ソレント半島南岸にアマルフィ公国が成立した。東ローマ帝国の宗主権のもと、ピサと肩を並べる海洋国家として繁栄。12世紀以降は衰退したが、現在は美しい海岸の見られるイタリア有数の保養地として知られる。

 

11世紀

 

1005年 ジェノヴァ共和国の成立


イタリア北西部・リグリア海の沿岸に海洋国家ジェノヴァ共和国が成立する。元は古代ローマの軍事基地だったが、中世以降は東方貿易で繁栄し、ヴェネツィアやピサと地中海の覇を争った。

 

1061年ノルマン人による南イタリア征服(〜91年)

ノルマンディー公国出身のノルマン人が南イタリアに侵入。ランゴバルド系の勢力を駆逐し南イタリア一帯を統一した。

 

この地域には以前からギリシャ正教やイスラム教の影響が強かったため、ノルマン人の征服により、これらの文化がラテン文化と融合する独特の文化的景観が生まれました。ノルマン人の支配は、後に南イタリアの政治的、社会的発展に大きな影響を与えることになります。

 

12世紀

 

1115年 フィレンツェ共和国の成立


イタリア中部にフィレンツェ共和国が成立。フィレンツェは、古代ローマ時代より交通の要地として栄え、中世以降は絹・毛織物工業でも繁栄した。13世紀以降、イタリアが教皇派と皇帝派で分裂すると、フィレンツェは教皇派の中心都市となった。

 

1130年 シチリア王国の成立


ノルマン人ヴァイキングによるシチリア征服後、シチリアとイタリア半島南部が統一されシチリア王国が誕生した。

 

1167年 ロンバルディア同盟の結成

北イタリアのロンバルディア諸都市で同盟を組み、服属を迫る神聖ローマ帝国に対抗した。盟主はミラノ。皇帝軍を二度撃破するなど成果を収め、都市の自治独立が確立された。

 

13世紀

 

1282年 ナポリ王国の成立


シチリア島、イタリア半島南部にまたがるシチリア王国が分裂。これによりナポリを中心とする半島側を領土とするナポリ王国が誕生した。

 

 

 

14世紀

1395年 ミラノ公国の成立


ビスコンティ家のジャン・ガレアッツォが神聖ローマ皇帝より公位を得たことで、ミラノ公国が成立。北イタリアのロンバルディア地方を支配下に置いた。

 

近世イタリア

15世紀

1416年 サヴォイア公国の成立

サヴォイア伯アメデーオ8世が、神聖ローマ皇帝より公爵の位を与えられたことでサヴォイア公国が成立。公国は侵略や婚姻によりイタリア北西部にまで領土を拡大し、16世紀にはイタリアのピエモンテに拠点を移す。

 

1494年 イタリア戦争の開始(〜1559年)

神聖ローマ帝国ハプスブルク家フランスのヴァロワ家がイタリアの利権をめぐり対立し、イタリア戦争が開始される。フランス・シャルル8世のイタリア侵入が発端となった。この戦争の結果、北イタリアからフランス勢力は一掃された。

 


イタリア戦争の戦いの一つパヴィアの戦い

 

16世紀

16世紀のイタリアは、イタリア戦争の影響で大きな変化を経験しました。この戦争は、フランスと神聖ローマ帝国がイタリアの支配権を巡って繰り広げられた一連の軍事衝突でした。これらの戦争は、イタリア半島の都市国家や小国家が巻き込まれる形で行われ、彼らの政治的、経済的自立性を弱めました。結果として、イタリア半島は外国勢力の影響下に置かれることとなり、地域の政治的統一や安定はさらに困難なものとなりました。

 

1527年 ローマ劫掠

神聖ローマ帝国とフランス王国がイタリアを巡り衝突を繰り返していた中、皇帝軍が教皇領のローマに侵攻し、略奪や殺戮を行なう事件が発生する。

 


ローマ劫掠の様子/Johannes Lingelbach画

 

近代イタリア

19世紀中期に、オーストリアやフランス支配からの解放運動が活発になり、サルデーニャ王国はその先頭に立つようになりました。そしてサルデーニャ王国はイタリア諸国を次々と併合していき、1861年についに国家統一を成し遂げたことでイタリア王国が成立しました。
イタリア王国は、王家や憲法、政治制度をサルデーニャ王国から受け継ぎましたが、国民の大部分(貧困層)は、統一事業から外されていたため、新しく適用されるルールを受け入れず反体制に傾く人が続出しました。その結果権力で労働者階級を無理矢理従わせる「ファシズム」が台頭するようになったのです。

 

 

 

1701年 スペイン継承戦争

スペイン継承戦争にオーストリア(ハプスブルク家)が勝利した結果、スペインに代わりオーストリアがイタリアに影響を及ぼすようになる。

 


スペイン継承戦争の海戦の一つ「ビーゴ湾の海戦」

 

1701年のスペイン継承戦争は、ヨーロッパの勢力バランスに大きな影響を与えました。オーストリア(ハプスブルク家)が勝利を収めた結果、イタリアにおけるスペインの影響力が減少し、代わってオーストリアがイタリアの政治に大きな影響を及ぼすようになりました。これにより、イタリアの多くの地域がオーストリアの支配下に入り、イタリア統一運動が始まる19世紀半ばまで、オーストリアの影響力が続くことになります。この時期のイタリアは、外国勢力の政治的支配と文化的影響の下で、その独自性を保つことに苦労しました。

 

1720年 サルデーニャ王国(後のイタリア王国)の成立


ロンドン条約の結果、サルデーニャ島がサヴォイア公国の領土に編入。同時にサヴォイア家が、サルデーニャ王の称号を手にしたことでサルデーニャ王国が成立した。サルデーニャ王国はトリノを拠点に着実に勢力を拡大し、フランスやオーストリアからの独立を志向するようになる。

 

1796年 ナポレオン・ボナパルトによるイタリア遠征

フランス革命後に台頭したナポレオン・ボナパルトが、アルプスを超えてイタリアに侵入。オーストリア・サルデーニャ王国の連合軍がこれを迎え撃ったが敗れ、北イタリアの大部分をナポレオンに征服される。ナポレオン統治時代に、イタリアに自由・平等などの思想が持ち込まれ、のちのイタリア統一運動のきっかけとなった。

 


イタリア戦役の戦いの一つ「リヴォリの戦い」

 

19世紀

1814年ウィーン会議

ナポレオン戦争後の国際秩序を話し合うウィーン会議が開催される。この会議の中で北イタリアが再びオーストリアに帰属することが決定した。

 


ウィーン会議の様子

 

1814年のウィーン会議は、ナポレオン戦争後のヨーロッパの再編成を目的とした重要な国際会議でした。この会議では、ヨーロッパの国境線の再配置や君主制の復活などが決定され、北イタリアが再びオーストリアの支配下に入ることが決定されました。これにより、イタリアの統一運動に大きな障壁が生じることになります。ウィーン会議の決定は、後のイタリア統一運動や独立戦争の背景となり、イタリア国家形成の重要な要因となりました。

 

 

1816年 両シチリア王国の成立


シチリア王国とナポリ王国が統合されたことにより両シチリア王国が成立。ブルボン家のフェルディナンド1世が国王として即位した。

 

1820年 ナポリ革命

両シチリア王国のナポリにて、ブルボン家の反動政策に不満を抱いた層が反乱を起こす。スペイン革命に刺激を受けたもの。オーストリアの介入があり最後には鎮圧された。

 


革命失敗後、絞首刑に処されるジュゼッペ・シルヴァティとミケーレ・モレッリ

 

1821年 ピエモンテ革命


サルデーニャ王国トリノにて、立憲革命が勃発。民衆の意見が反映される議会の設置を求めた。最後には反革命主義のサルデーニャ王カルロ・フェリーチェ(左図人物)により弾圧された。

 

1848年 1848年革命

フランス二月革命をきっかけに、ヨーロッパ各地で革命運動(1848年革命)が引き起こされ、専制主義的なウィーン体制が崩壊した。イタリアでもサルデーニャ王国主導でミラノ、ヴェネツィアで反乱が起こり、イタリア統一運動およびイタリア独立戦争の引き金となった。

 


ミラノで起こったオーストリア支配に対する反乱「ミラノの5日間」

 

 

 

1859年 第二次イタリア独立戦争の開始

1859年、イタリア統一運動の激化を背景に第二次イタリア独立戦争が勃発し、サルデーニャ王国は北イタリアを支配下に置くオーストリア帝国に対して攻撃を開始した。フランスのナポレオン三世の支援を得たサルデーニャ王国は、オーストリアに対する複数の戦闘で勝利を収め、特に、ソルフェリーノの戦いはこの戦争の重要な転換点となり、オーストリアの北イタリアからの撤退を促した。この勝利により、イタリア統一運動は新たな勢いを得ることとなった。

 


第二次イタリア独立戦争の戦いの一つ「ソルフェリーノの戦い」

 

1861年 イタリア王国の成立


イタリア独立戦争の中でジュゼッペ・ガリバルディが南イタリアを征服し、イタリア半島の統一を成し遂げた。古代ローマ以来のイタリア統一国家イタリア王国が成立した。ただし一部はまだオーストリア支配だったため、「未回収のイタリア(イタリア・イレデンタ)」問題として尾を引くことになる。

 

1866年 ヴェネツィアがイタリア王国に併合

普墺戦争(プロイセン・オーストリア戦争)で戦勝国になったことにより、オーストリアに支配されていたヴェネツィアの奪還に成功。イタリア統一が完成に近づいた。

 


プロイセンの勝利を決定的なものにした「ケーニヒグレーツの戦い」

 

1871年 ローマがイタリア王国に併合

イタリア王国はローマ教皇領を占領し、首都をローマに移す。これによりイタリア統一がほぼ完成された。

 

1896年 第一次エチオピア戦争の勃発

イタリアが植民地支配を確立すべくエチオピアに軍事侵攻を開始(エチオピア戦争)。侵攻に二度行われ、一度目はウチアリ条約の解釈をめぐり対立したことが原因。結果はアドワの戦いで大敗したイタリア軍が撤兵したことで終結した。

 


「アドワの戦い」で軍を率いるエチオピア王メネリク2世

 

 

 

20世紀前半

1911年 伊土戦争の勃発

イタリアによるオスマン帝国領リビアへの軍事侵攻をきっかけに伊土戦争が開始される。結果はイタリアの勝利となり、リビアはイタリア王国に併合された。

 


伊土戦争中、リビアの港に駐留するイタリア軍

 

1914年 第一次世界大戦の開始

オーストリア皇太子暗殺事件をきっかけに第一次世界大戦が開始される。イタリアは「未回収のイタリア」問題を念頭に、オーストリアに敵対する連合国(協商国)側として参戦し、戦勝国となった。

 


イタリア戦線「ヴィットリオ・ヴェネトの戦い」におけるイタリアの機関銃手

 

1921年 ファシスト党の成立


「革命行動ファッショ」を母体とするファシズム政党ファシスト党が成立する。党首はベニート・ムッソリーニ(左図人物)。

 

1922年 ローマ進軍

第一次世界大戦後の不況の中、反革命勢力の支持を得たファシスト党のムッソリーニが、クーデターにより政権を奪取。反動的な国王もこのクーデターを容認した。

 


ローマに入城するファシスト党員

 

1929年 バチカン市国の成立


イタリア王国と教皇庁との間でラテラノ条約が結ばれバチカン市国が成立した。ローマ教皇庁とイタリア王国は、イタリア統一運動でイタリア軍が教皇支配下のローマを占領して以来対立を続けていたが、これをもって和解した。

 

1937年 日独伊防共協定の結成/国際連盟からの脱退

前年に日本とドイツの間で結ばれた日独防共協定にイタリアも参加し、日独伊防共協定が成立した。この三か国による共産勢力に関する情報共有、ソ連に対する軍事的なけん制を目的としていた。

 

1939年 第二次世界大戦の勃発

1939年にドイツのポーランド侵攻に端を発し、第二次世界大戦が勃発。イタリアも40年6月に枢軸国勢力として参戦。しかし第一次世界大戦後から続く不況や、それによる軍の近代化の遅れもあり、戦況はみるみる悪化、早々に連合軍に降伏することとなり、国内はファシスト勢力と連合国勢力に二分される内乱状態に突入した。

 


サレルノからイタリアに侵攻する連合軍

 

 

 

1943年 バドリオ政権の誕生


戦況の悪化から内乱が起き、バドリオ(左図人物)によりムッソリーニ政権が打倒される。同時に成立したバドリオ政権は連合国との無条件降伏に調印し、ドイツに宣戦布告。同年ドイツ軍に解放されたムッソリーニによりイタリア社会共和国(サロ共和国)の成立した。

 

1945年 イタリア社会共和国の崩壊

ムッソリーニがパルチザンに拘束され処刑される。元首を失ったイタリア社会共和国も崩壊した。これにより、イタリアはファシストの支配から解放され、新たな政治的転換期に入ることとなった。この時期、イタリアは混乱と破壊の中から立ち直りを図り、戦後の復興と民主的な国家再建に向けた道を歩み始めた。

 

現代イタリア

戦後はイタリア国内からファシスト勢力を一掃できたものの、戦争により膨大な犠牲が発生し、国土は荒れ果ててしまいました。このことで求心力を失った王家は、王制存続の是非を問う国民投票にかけられり、僅差で廃止派が上回ったことで、国外追放処分に。同時に1946年6月18日、現在に続くイタリア共和国が成立しました。

 

20世紀後半

1946年 イタリア共和国の成立


戦後イタリア王家は、ファシストの独裁を容認し、第二次世界大戦参戦で国土を荒廃させたことの責任が問われる。結果国民投票により王政の廃止が決定。共和政に移行し、48年にはイタリア共和国憲法を施行した。(イタリア共和国の成立)

 

1948年 マーシャルプランの実施

アメリカの国務長官マーシャルの提案をきっかけに、戦争で荒廃したヨーロッパに対するアメリカの援助が開始される。この援助をきっかけにイタリアは「奇跡的復興」といわれる経済成長を遂げることになる。

 

1980年 ボローニャ中央駅爆弾テロ事件

イタリアのボローニャ中央駅にて爆破テロ事件が発生。85人が死亡、200人以上が負傷し、当時のイタリア社会に大きな衝撃を与えた。このテロは、政治的動機に基づいて行われたとされ、当時のイタリアで活動していた極右や極左の過激派グループ間の緊張が背景にあった。この事件は、イタリア政府に対する治安強化とテロ対策の必要性を強く示唆した。

 

1992年 第二共和政の開始

政財界の汚職、マフィアの摘発などが続き、政財界の大変革が行われた。イタリアではこの変革以降の政体を第二共和政と呼ぶ。広範囲にわたる司法調査「マニ・プルーティ作戦」は、多くの政治家やビジネスリーダーの汚職を暴露し、多数の逮捕と有罪判決をもたらした。この一連の出来事は、イタリアの政治文化を一新し、公共の透明性と責任を重視する新たな時代の到来を告げた。

 

イタリア史まとめ

以上が、古代から現代までのイタリアの歴史年表です。古代ローマの栄光から始まり、共和政への移行、帝国の拡大と衰退を経験。中世を通じて、イタリアは分裂し諸侯の支配下に入り、ルネサンスの時代には芸術と文化が華やかに花開きました。

 

19世紀には、イタリア統一運動が盛り上がり、複数の小国家が統合して近代イタリア国家が誕生。しかし、20世紀には二度の世界大戦とファシズムの台頭に直面し、その後の共和国への移行期には政治的、社会的に多くの困難を経験しました。

 

戦後の復興を経て、イタリアは経済成長を遂げ、ヨーロッパ統合の一翼を担い、現在では国際社会において重要な役割を果たしています。長い歴史を通じて、イタリアはその文化的遺産と政治的変遷により、ヨーロッパおよび世界の歴史において常に重要な位置を占めてきたのです。