スペインの歴史年表

スペインの国旗

 

スペインの国土

 

スペイン(正式名称:スペイン王国)は、南西ヨーロッパの 西をポルトガル、東をフランスに挟まれた地域に位置する 立憲君主制国家です。国土は イベリア半島のほか、地中海のバレアレス諸島、アフリカ北西岸沖のカナリア諸島で構成され、気候区は 大部分が地中海性気候に属しています。首都は旧イスラム勢力の要塞として知られる マドリード

 

この国ではとくに 製造業が発達しており、中でもオリーブ油、缶詰、ワイン、自動車の生産がさかんです。また豊富な鉱物資源を背景にした鉱業もこの国の基幹産業となっています。

 

そんな スペイン王国の歴史は、 15世紀にイベリア半島に建設された カスティリャ・アラゴン両王国の統一国家から始まるといえます。5 両王国の統一で成立したスペイン王国は大航海時代を通じて広大な海外領土を獲得し16世紀には黄金の世紀を迎えました。しかし17世紀半ば以降はイギリスフランスオランダなどの台頭で衰退が始まり、海外領土を次々と失っていきます。国際的地位が低下し、不況から社会不安が増大する中誕生したのがフランコの軍事独裁政権で、その強権的な支配は40年にもおよびました。1975年にフランコの死でようやく独裁が終焉して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんな スペイン王国の歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

スペインの歴史年表

 

先史スペイン

先史時代のスペインは、多様な文化と文明の交差点であった。この時期、狩猟採集文化から農耕文化への移行が見られ、各地には多くの先史時代の遺跡が残されている。これらの遺跡からは、先史スペインにおける人々の生活様式や社会構造、さらには宗教や芸術に関する貴重な情報が得られる。先史時代のスペインの歴史は、この地域が古くから人間活動の舞台であったことを物語っている。

 

前14000年頃クロマニョン人が活動

クロマニョン人の活動が始まった前14000年頃のスペインは、壁画や彫刻などの芸術作品で知られるようになる。アルタミラ洞窟の壁画は、その技術的完成度の高さと表現の豊かさで特に有名であり、先史時代のヨーロッパ人の芸術的才能と創造力を示している。これらの壁画は、狩猟や日常生活の様子を描いており、先史時代の人々の生活に関する貴重な洞察を提供している。

 

前5000年頃新石器時代が始まる

新石器時代の始まりと共に、スペインでは農業が伝来し、人々の生活様式に大きな変化が生じた。この時代、中東からの農耕技術の伝来により、定住生活が本格化し、村落の形成や社会構造の発展が見られるようになる。新石器時代のスペインは、農業の発展に伴い人口が増加し、新たな社会的、経済的活動が花開いた時代であった。

 

前2500年頃青銅器時代が始まる

青銅器時代の始まりは、スペインにおける技術革新と社会変革の時期を示している。この時代にケルト人がイベリア半島に流入し、既存の文化と新たな影響が融合し始めた。青銅器の使用は、農業や戦争における技術の進歩をもたらし、社会構造や経済活動に重要な影響を与えた。ケルト人の移住はスペインの民族構成に多様性をもたらし、後の文化の発展に寄与した。

 

古代スペイン

イベリア半島はヨーロッパとアフリカを繋ぐ橋になっており、古来より様々な民族が暮らしていました。スペイン人というのは、古代スペインにおいてこの地に移住してきた、イベリア人、フェニキア人、カルタゴ人、ケルト人、そしてローマ人など様々な民族の交わりを経て誕生した民族といえます。(中世以降はアラブ人も流入)

 

前3000年代頃イベリア人の移住

アフリカからハム語族系のイベリア人※が移住。「イベリア」という名称はスペインの東部を流れるエブロ川という川に由来し、のちに移住してくるフェニキア人や古代ギリシア人以外の先住民を指す呼称だった。

 

前1200年頃フェニキア人の移住

イベリア半島にフェニキア人が移住し、欧州最古の都市カディスを建設し、イベリア人に数字やアルファベットを伝えた。またフェニキア人はカディスに商業の拠点を作り、地中海沿岸の諸民族と交易を行っていた。

 

前1100年頃カルタゴ人の移住

フェニキア人の国家カルタゴが、現在のバルセロナからカルタヘナの沿岸にかけて植民市を建設した。カルタゴはその後アンダルシア地方からスペイン中部にまで進出し、支配するようになった。

 

前1000年頃ケルト人の移住

中部ヨーロッパの方から、インド・ヨーロッパ語族のケルト人が移住。やがてケルト人は先住のイベリア人と混血し、現在のスペイン人のベースとなったケルト・イベリア人が誕生した。

 

前3世紀

前205年 古代ローマの支配

共和政ローマvsカルタゴのポエニ戦争の結果、敗者のカルタゴはイベリア半島から追放され、代わって古代ローマが属州ヒスパニアとしてこの地(主に南部・地中海沿岸)を支配するようになった。ヒスパニアは、タラコネンシス(北東部)、ルシタニア(西部)、バエティカ(南部)の3つ州に分けて統治されていた。その後500年近く続くローマの治世のなかで、ラテン語やキリスト教の普及が進んでいった。

 

国名の「スペイン」とは英語読みであり、スペイン語では「エスパーニャ」と呼びます。古代フェニキア人が命名した「ウサギの国」もしくは「隠れた国」を意味するSpanという語が、ローマ人によって「ヒスパニア(Hispania)」と呼ばれるようになり、それが変化してエスパーニャとなったといわれています。

 

前2世紀

前155年 ルシタニア戦争

イベリア半島西部のルシタニアにて、この地域を支配しようとするローマ人と、それに抵抗するルシタニア人の戦いルシタニア戦争が勃発。名将ヴィリアトゥス王のもとルシタニア人は奮闘し、ローマを追い詰めたが、ヴィリアトゥスがローマの刺客に暗殺されると瓦解していき、最終的には敗れた。

 

1世紀

1世紀にキリスト教がスペインに伝来すると、宗教風景に大きな変化がもたらされた。初期のキリスト教コミュニティは、ローマの支配下で迫害を受けながらも徐々に影響力を増し、キリスト教はスペイン社会に深く根を下ろしていった。この宗教の普及は、スペインの文化、芸術、建築にも影響を与え、スペインの歴史の中で重要な役割を果たすこととなった。

 

4世紀

375年 ゲルマン民族の大移動

375年に中央アジアの遊牧騎馬民族フン人が黒海北岸を西進。先住のゲルマン人を圧迫し、ゲルマン民族の大移動を引き起こす。ゲルマン人は逃げるように衰退が始まっていたローマ帝国領に侵入を開始した。

 

5世紀

415年 西ゴート王国の成立

ゲルマン民族の大移動の一環として、イベリア半島にゲルマン一派の西ゴート族が侵入。彼らはローマ人を駆逐し、そこに西ゴート王国を建国し、8世紀初めまでにイベリア半島の大部分を支配下におさめた。

 

西ゴート王国では、はじめは異端とされるキリスト教アリウス派が信仰されていましたが、しだいにカトリックへの改宗が進んでいきました。

 

中世スペイン

西ローマ帝国が崩壊し、ローマ人がスペインの地から去ると、西ゴート族、次いでイスラム教徒が新たな支配者となりました。しかし8世紀になるとキリスト教徒による「イスラム教徒からの国土奪還」を目指す再征服運動(レコンキスタ)が活発化し、15世紀になると、カスティーリャ王国とアラゴン王国が合同し、現スペインの中核となるスペイン王国が発足しました。スペイン王国は、15世紀末にはイベリア半島からイスラム勢力を一掃し、レコンキスタを完了させています。

 

レコンキスタが達成された後でも、過去800年近くイスラムに支配されていた影響で、建造物を始め今のスペインにもいたる所にその文化の面影が残されています。

 

6世紀

585年 西ゴート王国がスエビ王国を併合

585年に西ゴート王国がスエビ王国を併合したことは、イベリア半島における西ゴート族の勢力拡大を示す出来事だった。この併合により、西ゴート王国はイベリア半島の広範な地域にわたる支配を確立し、政治的、文化的影響力を強めた。この時代、スペインはゲルマン民族とローマ文化の融合を経験し、独自の文化的アイデンティティが形成され始めた。

 

8世紀

711年 西ゴート王国の滅亡/レコンキスタの開始

イスラム勢力のウマイヤ朝が北アフリカ経由でイベリア半島に侵入し、西ゴート王国が滅ぼされる。イスラム勢力によるスペイン支配と、スペイン人キリスト教勢力によるレコンキスタ(再征服運動、国土回復運動などの意)が同時に開始された。

 

722年 アストゥリアス王国の成立

北西部に逃れた西ゴート族の貴族ペラーヨによりアストゥリアス王国が建国される。以後この国がレコンキスタの拠点になる。

 

10世紀

905年ナバラ王国の成立

スペイン辺境伯領のナバラ(イベリア半島北部、現スペインとフランスにまたがる地域)にナバラ王国が成立。レコンキスタの拠点となる。

 

910年 レオン王国の成立

アストゥリアス王国が都をオビエドからレオンに遷都し、以後レオン王国と呼ばれるようになる。アストゥリアス王国がレオン王国へと移行したことは、レコンキスタ運動の中心となる地域的な変化を示している。レオン王国の成立は、イベリア半島におけるキリスト教勢力の台頭と統合を象徴し、イスラム勢力との対立における新たな段階を開始した。レオン王国の時代は、政治的、文化的な多様性が特徴であり、後のスペイン王国の基盤となる。

 

11世紀

1034年 ナバラ王国がレオン王国を併合

1034年のナバラ王国によるレオン王国の併合は、イベリア半島の政治的風景を大きく変えた出来事だった。この併合によりナバラ王国の勢力が拡大し、イベリア半島全体の政治バランスに影響を与えた。ナバラ王国のこの動きは、レコンキスタ運動の流れにも重要な影響を与え、キリスト教国家間の力関係の再編成に寄与した。

 

1035年カスティーリャ王国の成立

レオン王国辺境伯のフェルナン・ゴンサレスが、スペイン中部にキリスト教国のカスティーリャ王国を建国。レコンキスタの牙城となった。この国は13世紀半ばには半島最大の領土をもち、15世紀後半にはアラゴン王国と統合しスペイン王国を形成することになる。

 

カスティーリャの名称は、対イスラム勢力の拠点としての「城塞」を意味する「カステラ」に由来しています。

 

1035年アラゴン王国の成立

ナバラ王サンチョ3世の死により、イベリア半島東北部のアラゴン伯領が独立王国に昇格。ラミロ1世が初代王になる。対イスラム勢力の拠点の一つになった。国名はエブロ川の支流アラゴン川の名に由来。

 

1137年アラゴン連合王国の成立

1137年のアラゴン王国とカタルーニャの連合によるアラゴン連合王国の成立は、イベリア半島の歴史において重要な転換点となった。この連合によって強化されたアラゴン王国は、イベリア半島におけるキリスト教勢力の中核の一つとして、レコンキスタの過程で重要な役割を果たすことになった。また、カタルーニャとの連合は、アラゴン王国の経済的および文化的な発展を促進する重要な要因となった。

 

1076年アラゴン連合王国がナバラ王国を併合

1076年のアラゴン連合王国によるナバラ王国の併合は、イベリア半島における勢力バランスに大きな影響を与えた。アラゴン王国の拡大は、レコンキスタの過程において、キリスト教勢力の統合と強化に寄与した。ナバラ王国の併合によって、アラゴン王国は地中海に面する重要な地域を掌握し、地域の経済および軍事的な力をさらに強化した。

 

13世紀

1232年 ナスル朝の創始

衰退したウマイヤ朝に代わり、ナスル朝グラナダ王国が創始する。これはイベリア半島のイスラム勢力の変化を示す重要な出来事だった。衰退したウマイヤ朝に代わり、新たなイスラム勢力として登場したナスル朝は、グラナダ地域で独自の文化と経済を発展させた。この時期のナスル朝の存在は、レコンキスタの経過にも影響を与え、イベリア半島の宗教的および文化的多様性を象徴するものとなった。

 

 

近世スペイン

近世スペインは大航海時代と重なる。スペインはコロンブスによる航海を機に、新大陸に広大な植民地を獲得しました。ブラジルやアフリカ、インド洋にまで海上勢力を広げ、「太陽の沈まぬ帝国」を体現。16世紀から17世紀前半までの間「黄金の世紀」を迎えたのです。スペインは今でこそイギリスフランスドイツといった大国の陰に隠れてあまり目立たないかもしれませんが、この時代はスペインこそがヨーロッパ最強の国だったのです。

 

15世紀

15世紀になるとカスティーリャ王国とアラゴン王国が合同しスペイン王国が成立する。その後スペインは、ポルトガルとともに海外探検に乗り出し、数々の新天地を開拓。とりわけアメリカ植民地における金銀の産出により莫大な富を得た。

 

1479年 スペイン王国の成立

カスティーリャ王国のイザベル女王と、アラゴン王国のフェルナンド王が結婚したことで、カトリック両国が統一されスペイン王国が成立した。この統一王国のもとレコンキスタはさらに加速し、イスラム勢力は縮小していった。

 

1492年 コロンブスによる新大陸発見

スペイン女王イサベル1世の援助を受けたクリストファー・コロンブスが新大陸(アメリカ大陸の西インド諸島)に到達。「西インド」の名は、コロンブスは到達したその場所をインドと勘違いしたことに由来。

 

1492年 レコンキスタの完了

スペイン王国がイスラム勢力最後の砦グラナダを陥落。ナスル朝グラナダ王国が滅亡し、キリスト教勢力によるレコンキスタ(国土回復)が完了した。

 

1494年トルデシリャス条約の締結

1494年のトルデシリャス条約の締結は、新世界におけるスペインとポルトガルの植民地活動を調整するための歴史的合意だった。この条約により、子午線を境に西側をスペインの影響圏、東側をポルトガルの影響圏として分割し、両国間の潜在的な紛争を回避した。トルデシリャス条約は、海外植民地競争の初期における国際協調の一例として重要であり、スペイン帝国の海外拡張戦略の基盤を築いた。

 

16世紀

ハプスブルク家の血を引くスペイン王カルロス1世が神聖ローマ皇帝に選出された。海外植民地の他にも、オランダやブルゴーニュなどヨーロッパ領土も手に入れ、スペインの勢力図は史上最大となった。この黄金期のスペインは「太陽の没することのない帝国」と呼ばれる。

 

1504年 アブスブルゴ朝の成立

ハプスブルク家の血を引くカルロス1世がスペイン王に即位したことでスペイン・ハプスブルク朝(アブスブルゴ朝)が成立した。カルロス1世は1519年からは神聖ローマ皇帝も兼ねている。

 

1521年 アステカ文明征服

スペインの探検家エルナン・コルテスがメキシコに遠征、現地のアステカ帝国を侵略し滅ぼした。征服者(コンキスタドール)コルテスはスペイン植民地ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)提督となったが、富と権力を持ちすぎたことで王室から危険視され失脚に追い込まれる。

 

1524年 グアマテラ征服

コルテスの右腕ペドロ・デ・アルバラードが中央アメリカ北部のグアテマラを征服。以降スペインの支配下に置かれる。アルバラードの征服地での先住民に対する仕打ちは極めて残忍だったという。

 

1529年サラゴサ条約

1529年のサラゴサ条約は、トルデシリャス条約を改訂し、スペインにフィリピン諸島の領有を認めた重要な合意だった。この条約により、スペインはアジアにおける植民地展開の基盤を固め、後の太平洋貿易における重要な拠点を確保した。サラゴサ条約は、ポルトガルとスペインの植民地競争の調整において重要な役割を果たし、両国間の関係を安定化させる助けとなった。

 

1532年 インカ文明征服

スペインの探検家フランシスコ・ピサロが兄フランシスコとともにペルーに侵入。インカ皇帝アタワルパを処刑しインカ帝国を滅ぼした。ピサロはのちに同僚と対立し暗殺されている。

 

1550年 バリャドリッド論争の勃興

アメリカ大陸におけるスペインによる征服戦争の是非を巡る論争(バリャドリッド論争)が勃興する。聖職者ラス・カサスが、布教先のスペイン植民地で行われている先住民虐待※をみて、国王に是正を訴えたことが発端。この論争をきっかけに先住民保護の動きが急速に広まり、73年には先住民の権利を保護する「インディアス基本法」が制定されている。

 

※虐待の実態を記したラス・カサスの著書として『インディアスの破壊についての簡潔な報告』が有名。日本語訳の本も出ているので興味があれば読んでみましょう。かなりショッキングな内容なので注意してください。

 

1571年 レパントの海戦

ギリシャのコリント湾レパント岬沖にて、オスマン帝国艦隊vsスペインが中心となった神聖同盟艦隊の海戦が行われる。神聖同盟が勝利した結果、盟主として戦ったスペインは最盛期を迎えた。地中海史上最も有名な海戦。

 

1580年 ポルトガルを併合

スペイン王がポルトガルの王位を継承したことで、ポルトガルの海外領土まで取り込み、スペインの覇権は全世界に及ぶようになりました。「太陽の沈まぬ帝国」を体現したのです。

 

1588年アルマダの海戦

英仏海峡にて、スペインの無敵艦隊アルマダとイギリス艦隊の海戦が行われる。植民地オランダの独立を支援したり、私掠船でスペイン船を襲うイギリスに対し、スペイン側から仕掛けた戦争だが、嵐という不運に見舞われ敗走。制海権をイギリスに奪われ、帝国退潮のきっかけになった。

 

17世紀

1634年 三十年戦争に参戦(〜48年)

神聖ローマ帝国(ドイツ)を舞台に三十年戦争が開始される。ドイツ内のカトリックとプロテスタントの対立激化がきっかけ。反宗教改革の本山であったスペインは、カトリック勢力として参戦した。

 

1640年 ポルトガル王政復古戦争の勃発

ポルトガル革命にともない、スペイン帝国とポルトガル王国の戦争に発展した。スペインが敗れ、両国の同君連合が解消された。

 

1659年 ピレネー条約締結

フランス・スペイン戦争(1635年〜1659年)の講和条約ピレネー条約が結ばれる。この条約でフランスは領土を獲得、ルイ14世とスペイン王女の婚姻が決定し、スペインはフランスに50万エキュの持参金を支払うこととなった。ヨーロッパにおけるスペインの地位がフランスに取って代わられたことを象徴する条約。

 

1700年 フェリペ5世の即位

フランス国王ルイ14世の孫フェリペ5世が即位。ハプスブルク朝最後の王カルロス2世の遺言に従ったものだが、フランスの拡大を危惧するオーストリアらヨーロッパ諸国が反対し、スペイン継承戦争に発展した。

 

近代スペイン

近世に築かれたスペイン海上帝国はそう長く続きませんでした。18世紀に入りイギリスの台頭。無敵艦隊の敗北・王位継承戦争・植民地の反乱・独立などが重なり、しだいにスペインの国際的地位は低下していきました。20世紀に入り共和制に移行しましたが、ソ連が支援する人民戦線と、ドイツ・イタリアファシズム政権が支援するフランコ率いる右翼軍部との間で「スペイン内戦」が勃発し、国内はますます荒廃していきました。

 

18世紀

1701年 スペイン継承戦争の開始(〜14年)

前年、スペイン王カルロス2世に子がいなかったため、フランス国王ルイ14世の孫フェリペ5世が即位するが、フランス拡大を危惧するオーストリア、イギリスオランダなどが反対。フランス・スペインvsオーストリア・イギリス・オランダ同盟軍のスペイン継承戦争が開始された。戦局は同盟側有利のままユトレヒト条約で講和。フェリペ5世の即位は認められたが、フランス・スペインともに多くの海外領土を失い、貿易利権をイギリスに奪われた形となった。

 

1740年 オーストリア継承戦争に参戦

神聖ローマ皇帝カルル6世の長女でオーストリア大公マリア・テレジアのオーストリア王位継承に際して、継承権を主張するプロイセン、フランス、スペインなどが反対したことで、オーストリア継承戦争が開始された。アーヘンの和約で講和。王位はマリア・テレジアが継ぐことになった。

 

1759年 カルロス3世の即位

ナポリ王カルロス3世がスペイン王も継承する。スペインの近代化を目指し数々の改革を行い、衰えを見せていた国力もある程度復興した。

 

1789年フランス革命

フランスで市民革命が起き、ブルボン王政が打倒される。これによりスペインはフランス革命政府と敵対し、一時交戦状態に入ったが、95年にバーゼルの和約で講和した。

 

19世紀

1803年 ナポレオン戦争の勃発

フランスのナポレオンがヨーロッパ征服戦争ナポレオン戦争を開始する。スペインはフランスの同盟国として参戦。しかし、ナポレオンの野心的な欧州支配戦略によりスペインは次第にフランスの影響下に置かれるようになり、1808年にはフランスによるスペインの占領が始まった。このことがスペイン独立戦争の引き金となり、スペインはフランスに対して抵抗を開始。この戦争はスペインの国民意識の高まりと、ナポレオン軍に対する欧州全体の抵抗運動の象徴となった。

 

1805年 トラファルガーの海戦が勃発

イベリア半島南西部トラファルガー岬の沖にて、フランス・スペインの連合艦隊とイギリス艦隊の海戦が行われる。イギリス侵攻を企図して行われたが、連合艦隊は壊滅的敗北を喫した。

 

1808年 ホセ1世の即位/スペイン独立戦争(〜14年)

1807年ナポレオンがポルトガルからスペインに上陸。スペイン王カルロス4世を退位に追い込み、代わりに兄ジョゼフ・ボナパルトをホセ1世として即位させ、国を乗っ取った。同時にこのことに反感を抱いた民衆が立ち上がりスペイン独立戦争が開始された。結果はイギリスからの援軍もあり反ナポレオン軍が勝利し、ナポレオンの大陸支配を終わらせるきっかけになった。

 

1812年 カディス憲法の制定

スペイン独立戦争の最中、まだナポレオン軍に占領されていないカディスに国民議会(コルテス)が召集され、自由主義的な憲法が制定されました。この憲法は絶対王政を否定するものなので、ナポレオンの敗北後、フェルナンド7世(カルロス4世の子)が王位に返り咲くと破棄されてしまいます。しかしその後スペインの自由主義派の旗印として用いられ、スペインの立憲君主制実現のために重要な役割を果たしました。

 

1814年 フェルナンド7世の即位

スペイン独立戦争にてナポレオン軍を敗走に追い込んだ後、ブルボン朝フェルナンド7世が即位。彼は1808年に一度即位していたが、即位後まもなくスペインを征服したナポレオンに廃位させられていた。即位後はカトリック勢力の強化、王党派復活などフランス革命以前のヨーロッパ秩序に戻す反動政策を推し進めた。

 

1820年 スペイン立憲革命の勃発

フェルナンド7世が絶対君主制を否定するカディス憲法を破棄。これがきっかけでリエゴ・イ・ヌニェスら自由主義者による反乱が起こった。その結果カディス憲法が復活し「自由主義の三年間(Trienio Liberal)」が始まる。

 

1823年 カディス憲法の破棄

フェルナンド7世が再びカディス憲法の破棄を宣言し、自由主義者らが徹底的に弾圧される「忌むべき十年間(Decada Ominosa)」が始まる。この時期、フェルナンド7世は強硬な反自由主義政策を推進し、多くの自由主義者が投獄されたり亡命を余儀なくされた。この「忌むべき十年間」は、スペインにおける政治的な自由と進歩の停滞を示す時期であり、国内の緊張と分裂を深める原因となった。

 

19世紀

1833年 イザベル2世が即位

フェルナンド7世が死去し絶対王政復古体制が終焉。イサベル2世が即位したが当時3歳だったため、マリア・クリスティナが政治の実権を握った。新政は43年から。

 

1840年エスパルテロ政権の発足(〜43年)

民衆と進歩派の支持を受け、クーデターにより政権を掌握。マリア・クリスティナを摂政の座から引きずり下ろした。しかしのちに保守主義に傾き、独裁政治を行ったため、クーデターを招き失脚。

 

1868年 九月革命

反動政策に抗議する反乱が起こりイザベル2世が追放される。空位となった王位には、イタリア王家よりアマデオ1世が迎えられ即位した。

 

1873年 スペイン第一共和政が成立(〜74年)

アマデオ1世の退位にともないスペイン史上初めて共和制が成立する。しかし統治は安定せず2年と満たず終焉。イザベル2世の息子アルフォンソ12世が即位し王政復古した。

 

1886年アルフォンソ13世の即位

父アルフォンソ12世の死にともない、アルフォンソ13世が即位。16歳までは母マリア・クリスティナが摂政となる。1931年の共和革命にともないに退位しフランスに亡命。スペイン・ブルボン王朝最後の王となった。

 

1898年 米西戦争の勃発

スペイン植民地キューバ、フィリピンの独立運動を助けたアメリカと戦争に発展。アメリカに敗北し、キューバ、フィリピン、グアム、プエルトリコなど多くの植民地を失った。アメリカはカリブ海を制し、西太平洋進出の拠点を手にした。

 

20世紀前半

1909年 悲劇の一週間事件

カタルーニャの労働者により、スペイン政府の徴兵方法の不公平性を訴える抗議運動が発生。暴動鎮圧にでたスペイン軍により多数の死者がでた。

 

1914年 第一次世界大戦勃発

オーストリア皇太子暗殺事件(サラエボ事件)をきっかけに第一次世界大戦が勃発する。この戦争でスペインは中立の立場をとったが、大戦中のインフレーションで貧困層の困窮化が加速。労働運動を誘発し政治的混乱を招いた。

 

1921年 アンワールの戦い

スペインが植民地支配していたモロッコの支配を強化するべく、反乱を続けるベルベル人への攻撃を開始する。しかしアンワールでの戦いで大敗を喫した。戦争を推し進めた国王アルフォンソ13世への不信が高まった。

 

1923年 プリモ・デ・リベラによる独裁(〜30年)

第一次世界大戦による混乱収拾を名目に、軍人プリモ・デ・リベラによる独裁政治が始まる。初期は容認されたものの、独裁が長引くと反発が強まり退陣に追い込まれた。

 

1931年 スペイン第二共和政の成立

プリモ・デ・リベラ独裁政権の崩壊で、共和主義・社会主義政党が勢いづき、王政が打倒される。ここに第二共和政が成立した。政情不安により33年に崩壊し、反動政治が始まった。この期間は「暗い2年間」と呼ばれる。

 

1936年 スペイン内戦(〜39年)

政治的混乱が続くなか、フランシスコ・フランコ将軍の人民戦線政府に対するクーデターが起こり、スペイン内戦に発展した。最終的に反乱軍が勝利しフランコによる独裁が始まった。

 

1939年 第二次世界大戦(〜45年)

ナチスドイツポーランド侵攻をきっかけに第二次世界大戦が勃発。スペインは中立を維持するも、同じファシズム国家として枢軸国側に肩入れしていたため、戦後の孤立化に繋がった。

 

戦後スペイン

スペイン内戦後は内戦に勝ったフランコによる独裁がしばらく続き、フランコが死去すると、立憲君主制による王政が復活。現在に続くスペインの政体が確立され、没落した経済も観光業などを軸に少しずつ回復していった。現在は経済停滞に悩まされるも、ヨーロッパを牽引する重要な経済先進国の一つであることに変わりない。

 

20世紀後半

冷戦の激化にともない、西側諸国と「反共」という理念で一致。米西防衛協定、国際連合、国際通貨基金に加盟するなどしだいに歩みを共にするようになりました。

 

1953年 米西防衛協定の締結

1953年の米西防衛協定締結は、冷戦時代のスペイン外交政策における重要な転換点だった。この協定により、アメリカはスペインに軍事基地を設置することができ、代わりにスペインには経済援助が提供された。この協定は、フランコ政権下のスペインが国際社会に再統合するための一歩となり、西側諸国との関係強化に寄与した。しかし、同時に国内外からの批判も招き、独裁政権との関係をめぐる論争の一因ともなった。

 

1955年 国際連合加盟

1955年の国際連合加盟は、スペインが第二次世界大戦後の国際社会において正式な一員となることを意味した。この加盟は、スペインが国際社会での孤立から脱却し、国際的な政治舞台での発言力を高めるきっかけとなった。加盟はフランコ政権による外交努力の成果であり、スペインの外交政策に新たな方向性をもたらした。

 

1958年 国際通貨基金加盟

1958年の国際通貨基金加盟は、スペイン経済の国際化の一環として重要なステップだった。この加盟により、スペインは国際金融市場へのアクセスを拡大し、経済成長に必要な外国からの投資を引き付けることが可能となった。国際通貨基金への加盟は、スペイン経済の安定化と近代化への道を開いた。

 

1970年代 フランコ独裁政治の終焉/立憲君主制に移行

フランシスコ・フランコが死去し、独裁政治が終焉を迎えた。そしてフアン・カルロス1世が国王に即位(1975年)、新憲法(スペイン1978年憲法)が承認され、立憲君主制に体制を移行(1978年)

 

1981年 スペイン陸軍のクーデター

スペインが急速に民主化していく中、軍事独裁の復活を図り陸軍がクーデターを起こすも失敗に終わった(23-F)

 

1986年 ECに加盟

1986年の欧州共同体(EC)への加盟は、スペインがヨーロッパ統合に積極的に参画することを決定した歴史的な瞬間だった。EC加盟は、スペイン経済の近代化を加速させ、市場の拡大、資本の流入、社会基盤の改善を促進した。また、加盟はスペインの国際的な地位を高め、ヨーロッパ内での発言力を強化する効果ももたらした。

 

1992年 バルセロナオリンピック開催

1992年のバルセロナオリンピック開催は、スペインの国際的な地位を象徴する大きな出来事だった。このオリンピックは、スペインの文化、歴史、そして近代化の成果を世界に示す舞台となり、国内外からの注目を集めた。オリンピックの成功は、スペインが国際社会で重要な役割を果たす国としての地位を確立するきっかけとなった。

 

現代スペイン

現代スペインの歴史は、民主化の進展と国際的な統合の過程によって特徴づけられます。1975年のフランコの死後、スペインは独裁体制から民主主義へと移行し、1978年には新憲法を採択。1986年の欧州共同体(現EU)加盟は経済の近代化を加速させ、国際社会でのスペインの地位を強化しました。21世紀に入ってからも、スペインはEU内で重要な役割を担いつつ、経済危機や政治的変動に直面しています。

 

21世紀

 

2004年 マドリード列車爆破テロ事件

3月11日にスペインの首都マドリードで爆弾テロ事件が発生。191人が死亡し、2000人以上が負傷した。スペインのイラク派兵に対するアルカーイダの犯行であった。

 

2014年 フェリペ6世が即位

2014年にフェリペ6世が即位したことは、スペイン王室における新時代の幕開けを象徴している。彼の即位は、スペインの民主主義の成熟と、王室の近代化への取り組みを示すものとなった。フェリペ6世の治世は、国内外でのスペインのイメージ向上、世界的な経済危機に対応する政策、そしてカタルーニャ独立問題への対応など、多くの課題に直面している。

 

以上が、古代から現代までのスペインの歴史年表になります。古代には多様な民族がイベリア半島に移住し、フェニキア人、カルタゴ人、そしてローマ人の支配を経験しました。ローマ時代の終焉と共にゲルマン民族の西ゴート族が支配を確立。8世紀にイスラム勢力の侵入により、キリスト教勢力のレコンキスタが始まり、数世紀にわたる宗教紛争が続きました。15世紀にはカスティーリャ王国とアラゴン王国の統合によりスペイン王国が成立し、大航海時代の到来と共に「太陽の沈まぬ帝国」として世界的な海上帝国を築きました。しかし、17世紀から18世紀にかけての一連の戦争と内政の不安定化により、徐々に国力が低下。19世紀と20世紀には、政治的混乱と内戦を経験し、フランコ独裁政治の後、1978年に立憲君主制に移行しています。そして現代においては、EU加盟国として国際的な役割を果たしながら、経済的および政治的な課題に直面しているのです。