スペインの国旗
スペインの国土
スペイン(正式名称:スペイン王国)は、南西ヨーロッパの 西をポルトガル、東をフランスに挟まれた地域に位置する 立憲君主制国家です。国土は イベリア半島のほか、地中海のバレアレス諸島、アフリカ北西岸沖のカナリア諸島で構成され、気候区は 大部分が地中海性気候に属しています。首都は旧イスラム勢力の要塞として知られる マドリード。
この国ではとくに 製造業が発達しており、中でもオリーブ油、缶詰、ワイン、自動車の生産がさかんです。また豊富な鉱物資源を背景にした鉱業もこの国の基幹産業となっています。
そんな スペイン王国の歴史は、 15世紀にイベリア半島に建設された カスティリャ・アラゴン両王国の統一国家から始まるといえます。5 両王国の統一で成立したスペイン王国は大航海時代を通じて広大な海外領土を獲得し16世紀には黄金の世紀を迎えました。しかし17世紀半ば以降はイギリス、フランス、オランダなどの台頭で衰退が始まり、海外領土を次々と失っていきます。国際的地位が低下し、不況から社会不安が増大する中誕生したのがフランコの軍事独裁政権で、その強権的な支配は40年にもおよびました。1975年にフランコの死でようやく独裁が終焉して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんな スペイン王国の歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
先史時代のスペインは、多様な文化と文明の交差点であった。この時期、狩猟採集文化から農耕文化への移行が見られ、各地には多くの先史時代の遺跡が残されている。これらの遺跡からは、先史スペインにおける人々の生活様式や社会構造、さらには宗教や芸術に関する貴重な情報が得られる。先史時代のスペインの歴史は、この地域が古くから人間活動の舞台であったことを物語っている。
クロマニョン人の活動が始まった前14000年頃のスペインは、壁画や彫刻などの芸術作品で知られるようになる。アルタミラ洞窟の壁画は、その技術的完成度の高さと表現の豊かさで特に有名であり、先史時代のヨーロッパ人の芸術的才能と創造力を示している。これらの壁画は、狩猟や日常生活の様子を描いており、先史時代の人々の生活に関する貴重な洞察を提供している。
新石器時代の始まりと共に、スペインでは農業が伝来し、人々の生活様式に大きな変化が生じた。この時代、中東からの農耕技術の伝来により、定住生活が本格化し、村落の形成や社会構造の発展が見られるようになる。新石器時代のスペインは、農業の発展に伴い人口が増加し、新たな社会的、経済的活動が花開いた時代であった。
青銅器時代の始まりは、スペインにおける技術革新と社会変革の時期を示している。この時代にケルト人がイベリア半島に流入し、既存の文化と新たな影響が融合し始めた。青銅器の使用は、農業や戦争における技術の進歩をもたらし、社会構造や経済活動に重要な影響を与えた。ケルト人の移住はスペインの民族構成に多様性をもたらし、後の文化の発展に寄与した。
イベリア半島はヨーロッパとアフリカを繋ぐ橋になっており、古来より様々な民族が暮らしていました。スペイン人というのは、古代スペインにおいてこの地に移住してきた、イベリア人、フェニキア人、カルタゴ人、ケルト人、そしてローマ人など様々な民族の交わりを経て誕生した民族といえます。(中世以降はアラブ人も流入)
この多文化的な背景により、古代スペインは多様な文化や言語が混在する地域となりました。特にローマ帝国の征服後、ラテン文化とローマ法が導入され、経済や社会構造に大きな変革がもたらされました。また、カルタゴやローマの支配を受けたことで、イベリア半島は地中海貿易の重要な拠点として栄え、農業、特にオリーブやブドウの栽培が盛んになりました。これらの影響は、スペインの言語や文化に長く残り、現代に至るまでその痕跡を見ることができます。
アフリカからハム語族系のイベリア人※が移住。「イベリア」という名称はスペインの東部を流れるエブロ川という川に由来し、のちに移住してくるフェニキア人や古代ギリシア人以外の先住民を指す呼称だった。
イベリア半島にフェニキア人が移住し、欧州最古の都市カディスを建設し、イベリア人に数字やアルファベットを伝えた。またフェニキア人はカディスに商業の拠点を作り、地中海沿岸の諸民族と交易を行っていた。
フェニキア人の国家カルタゴが、現在のバルセロナからカルタヘナの沿岸にかけて植民市を建設した。カルタゴはその後アンダルシア地方からスペイン中部にまで進出し、支配するようになった。
中部ヨーロッパの方から、インド・ヨーロッパ語族のケルト人が移住。やがてケルト人は先住のイベリア人と混血し、現在のスペイン人のベースとなったケルト・イベリア人が誕生した。
紀元前3世紀のスペイン(イベリア半島)は、地中海世界の中で重要な戦略的拠点となっていました。この時代、スペインはフェニキア人やギリシア人が沿岸部に植民地を築き、交易が盛んに行われていましたが、最も大きな影響を与えたのはカルタゴ人でした。特に紀元前237年以降、ハミルカル・バルカやその息子ハンニバルがイベリア半島に侵攻し、カルタゴの支配を強化しました。これにより、カルタゴと新興のローマ共和国との対立が深まり、第二次ポエニ戦争(紀元前218年〜201年)の舞台となり、スペインは戦争の主要な戦場となったのです。
共和政ローマvsカルタゴのポエニ戦争の結果、敗者のカルタゴはイベリア半島から追放され、代わって古代ローマが属州ヒスパニアとしてこの地(主に南部・地中海沿岸)を支配するようになった。ヒスパニアは、タラコネンシス(北東部)、ルシタニア(西部)、バエティカ(南部)の3つ州に分けて統治されていた。その後500年近く続くローマの治世のなかで、ラテン語やキリスト教の普及が進んでいった。
国名の「スペイン」とは英語読みであり、スペイン語では「エスパーニャ」と呼びます。古代フェニキア人が命名した「ウサギの国」もしくは「隠れた国」を意味するSpanという語が、ローマ人によって「ヒスパニア(Hispania)」と呼ばれるようになり、それが変化してエスパーニャとなったといわれています。
イベリア半島西部のルシタニアにて、この地域を支配しようとするローマ人と、それに抵抗するルシタニア人の戦いルシタニア戦争が勃発。名将ヴィリアトゥス王のもとルシタニア人は奮闘し、ローマを追い詰めたが、ヴィリアトゥスがローマの刺客に暗殺されると瓦解していき、最終的には敗れた。
1世紀にキリスト教がスペインに伝来すると、宗教風景に大きな変化がもたらされた。初期のキリスト教コミュニティは、ローマの支配下で迫害を受けながらも徐々に影響力を増し、キリスト教はスペイン社会に深く根を下ろしていった。この宗教の普及は、スペインの文化、芸術、建築にも影響を与え、スペインの歴史の中で重要な役割を果たすこととなった。
375年に中央アジアの遊牧騎馬民族フン人が黒海北岸を西進。先住のゲルマン人を圧迫し、ゲルマン民族の大移動を引き起こす。ゲルマン人は逃げるように衰退が始まっていたローマ帝国領に侵入を開始した。
ゲルマン民族の大移動の一環として、イベリア半島にゲルマン一派の西ゴート族が侵入。彼らはローマ人を駆逐し、そこに西ゴート王国を建国し、8世紀初めまでにイベリア半島の大部分を支配下におさめた。
西ゴート王国では、はじめは異端とされるキリスト教アリウス派が信仰されていましたが、しだいにカトリックへの改宗が進んでいきました。
西ローマ帝国が崩壊し、ローマ人がスペインの地から去ると、西ゴート族、次いでイスラム教徒が新たな支配者となりました。しかし8世紀になるとキリスト教徒による「イスラム教徒からの国土奪還」を目指す再征服運動(レコンキスタ)が活発化し、15世紀になると、カスティーリャ王国とアラゴン王国が合同し、現スペインの中核となるスペイン王国が発足しました。スペイン王国は、15世紀末にはイベリア半島からイスラム勢力を一掃し、レコンキスタを完了させています。
レコンキスタが達成された後でも、過去800年近くイスラムに支配されていた影響で、建造物を始め今のスペインにもいたる所にその文化の面影が残されています。
レコンキスタの完了は、1492年にグラナダ王国の陥落によって象徴されます。この勝利は、カトリック両王フェルディナンドとイサベルによって成し遂げられ、スペインの国土統一が達成されました。同時期には、クリストファー・コロンブスによる新世界への航海も行われ、これによりスペインは大規模な海外帝国の基礎を築きました。中世の終わりごろから、スペインはヨーロッパの大国としての地位を確立し、文化、宗教、経済の各面で顕著な発展を遂げることとなります。この時代、スペインはキリスト教徒の再統一という内政の成功を背景に、世界的な影響力を持つ帝国へと変貌を遂げていったのです。
585年に西ゴート王国がスエビ王国を併合したことは、イベリア半島における西ゴート族の勢力拡大を示す出来事だった。この併合により、西ゴート王国はイベリア半島の広範な地域にわたる支配を確立し、政治的、文化的影響力を強めた。この時代、スペインはゲルマン民族とローマ文化の融合を経験し、独自の文化的アイデンティティが形成され始めた。
8世紀のスペインは、イスラム教徒の支配が確立された時代でした。711年、ウマイヤ朝の将軍ターリク・イブン・ズィヤードがイベリア半島に侵攻し、西ゴート王国を打ち破った結果、スペインの大部分がイスラム教徒の支配下に入りました。これにより、イベリア半島はアル=アンダルスとして知られるイスラム統治地域となり、コルドバを中心に高度な文明が栄えました。一方で、キリスト教徒によるレコンキスタ(再征服運動)が北部の山岳地帯で始まり、アストゥリアス王国などがその中心となって、徐々にイスラム勢力に対抗する動きを見せ始めたのです。
イスラム勢力のウマイヤ朝が北アフリカ経由でイベリア半島に侵入し、西ゴート王国が滅ぼされる。イスラム勢力によるスペイン支配と、スペイン人キリスト教勢力によるレコンキスタ(再征服運動、国土回復運動などの意)が同時に開始された。
北西部に逃れた西ゴート族の貴族ペラーヨによりアストゥリアス王国が建国される。以後この国がレコンキスタの拠点になる。アストゥリアス王国は、ムーア人によるイベリア半島の征服に対抗するキリスト教徒の中心地となり、長期にわたる再征服運動(レコンキスタ)の出発点となった。この運動は、イベリア半島のキリスト教王国の再興と拡大を目指し、最終的には1492年にグラナダを陥落させて成功することになる。
10世紀のスペイン(イベリア半島)は、イスラム教徒の支配が最盛期を迎えた時代です。コルドバを中心としたアル=アンダルスは、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世によって発展し、929年には彼がカリフを名乗り、コルドバ・カリフ国が成立しました。この時期、コルドバはイスラム世界でも屈指の文化的・経済的な中心地となり、学問や芸術が大いに栄えました。
一方で、キリスト教徒のレコンキスタ運動も北部で進行しており、レオン王国やカスティーリャ伯国がその中心となってイスラム勢力に対抗していました。10世紀は、イスラム教徒とキリスト教徒の勢力が共存し、時には激突しながらも、イベリア半島全体にわたる複雑な政治と文化の交流が続いた時代だったのです。
スペイン辺境伯領のナバラ(イベリア半島北部、現スペインとフランスにまたがる地域)にナバラ王国が成立。レコンキスタの拠点となる。
アストゥリアス王国が都をオビエドからレオンに遷都し、以後レオン王国と呼ばれるようになる。アストゥリアス王国がレオン王国へと移行したことは、レコンキスタ運動の中心となる地域的な変化を示している。レオン王国の成立は、イベリア半島におけるキリスト教勢力の台頭と統合を象徴し、イスラム勢力との対立における新たな段階を開始した。レオン王国の時代は、政治的、文化的な多様性が特徴であり、後のスペイン王国の基盤となる。
11世紀のスペイン(イベリア半島)は、イスラム教徒とキリスト教徒の勢力が激しく対立し、レコンキスタ(再征服運動)が本格化した時代でした。アル=アンダルスは内部で分裂が進み、1031年にコルドバ・カリフ国が崩壊すると、小規模なタイファ(諸王国)が乱立する状況となりました。これにより、キリスト教徒の北部勢力が再征服運動を加速させ、カスティーリャ王国やレオン王国、アラゴン王国などが力を強めました。
特にアルフォンソ6世は1085年にトレドを奪還し、キリスト教勢力にとって大きな勝利を収めました。これに対抗して、イスラム側はムラービト朝やムワッヒド朝の助けを借りて再統一を試みましたが、勢力は次第に衰えていきました。この時代は、スペインが宗教的・政治的に大きな変動を経験し、後の中世ヨーロッパの形成に深い影響を与えた時期なのです。
1034年のナバラ王国によるレオン王国の併合は、イベリア半島の政治的風景を大きく変えた出来事だった。この併合によりナバラ王国の勢力が拡大し、イベリア半島全体の政治バランスに影響を与えた。ナバラ王国のこの動きは、レコンキスタ運動の流れにも重要な影響を与え、キリスト教国家間の力関係の再編成に寄与した。
レオン王国辺境伯のフェルナン・ゴンサレスが、スペイン中部にキリスト教国のカスティーリャ王国を建国。レコンキスタの牙城となった。この国は13世紀半ばには半島最大の領土をもち、15世紀後半にはアラゴン王国と統合しスペイン王国を形成することになる。
カスティーリャの名称は、対イスラム勢力の拠点としての「城塞」を意味する「カステラ」に由来しています。
ナバラ王サンチョ3世の死により、イベリア半島東北部のアラゴン伯領が独立王国に昇格。ラミロ1世が初代王になる。対イスラム勢力の拠点の一つになった。国名はエブロ川の支流アラゴン川の名に由来。
1137年のアラゴン王国とカタルーニャの連合によるアラゴン連合王国の成立は、イベリア半島の歴史において重要な転換点となった。この連合によって強化されたアラゴン王国は、イベリア半島におけるキリスト教勢力の中核の一つとして、レコンキスタの過程で重要な役割を果たすことになった。また、カタルーニャとの連合は、アラゴン王国の経済的および文化的な発展を促進する重要な要因となった。
1076年のアラゴン連合王国によるナバラ王国の併合は、イベリア半島における勢力バランスに大きな影響を与えた。アラゴン王国の拡大は、レコンキスタの過程において、キリスト教勢力の統合と強化に寄与した。ナバラ王国の併合によって、アラゴン王国は地中海に面する重要な地域を掌握し、地域の経済および軍事的な力をさらに強化した。
12世紀のスペイン(イベリア半島)は、レコンキスタ(再征服運動)がさらに勢いを増し、キリスト教徒とイスラム教徒の対立が激化した時代です。キリスト教勢力はカスティーリャ王国、レオン王国、アラゴン王国、ポルトガル王国といった諸国が連携しつつ拡大し、イスラム教徒から多くの領土を奪還しました。特に、アルフォンソ1世がサラゴサを占領した1118年の戦いは、キリスト教徒にとって大きな勝利でした。
一方、イスラム側では、ムラービト朝がイベリア半島南部を支配していましたが、次第に力を失い、12世紀後半にはムワッヒド朝がその地位を引き継ぎました。しかし、ムワッヒド朝もキリスト教勢力の圧力に苦しみ、領土を徐々に失っていきました。このように、12世紀のスペインは、レコンキスタが加速し、キリスト教勢力が優勢を確立する重要な時期だったのです。
13世紀のスペイン(イベリア半島)は、レコンキスタが決定的な進展を遂げ、キリスト教勢力がほぼ全域を支配する時代となりました。特に、カスティーリャ王国とアラゴン王国が強大化し、イスラム勢力を圧倒。カスティーリャ王フェルナンド3世は、1236年にコルドバを、1248年にはセビリアを奪還し、イベリア半島南部のほとんどを支配下に置きました。一方、アラゴン王国はバレンシアやバレアレス諸島を征服し、地中海へと影響力を拡大しました。
イスラム勢力は、ナスル朝がイベリア半島最南部のグラナダに最後の拠点を築きましたが、それもカスティーリャ王国に従属する形となり、事実上の独立を保つのが精一杯でした。13世紀は、キリスト教徒の大規模な領土回復と統一が進み、スペインがキリスト教世界の重要な一部として位置づけられるようになった時代だったのです。
衰退したウマイヤ朝に代わり、ナスル朝グラナダ王国が創始する。これはイベリア半島のイスラム勢力の変化を示す重要な出来事だった。衰退したウマイヤ朝に代わり、新たなイスラム勢力として登場したナスル朝は、グラナダ地域で独自の文化と経済を発展させた。この時期のナスル朝の存在は、レコンキスタの経過にも影響を与え、イベリア半島の宗教的および文化的多様性を象徴するものとなった。
14世紀のスペイン(イベリア半島)は、政治的混乱と経済的困難が続いた時代であり、レコンキスタの勢いが一時的に鈍化した時期でもありました。この時期、カスティーリャ王国では、王位継承をめぐる内乱や貴族の権力闘争が頻発し、国内が不安定な状態に陥りました。とりわけ、ペスト(黒死病)の流行により、人口が大幅に減少し、経済も大きな打撃を受けました。
一方、アラゴン王国は地中海での影響力を拡大し、シチリアやサルデーニャといった領土を獲得しましたが、国内では同様に貴族の対立が激化していました。このように、14世紀のスペインは、内乱や疫病によって各王国が政治的・経済的に揺らぎつつも、依然としてイベリア半島の再統一とキリスト教世界との結びつきを強化する過程にあったのです。
近世スペインは大航海時代と重なる。スペインはコロンブスによる航海を機に、新大陸に広大な植民地を獲得しました。ブラジルやアフリカ、インド洋にまで海上勢力を広げ、「太陽の沈まぬ帝国」を体現。16世紀から17世紀前半までの間「黄金の世紀」を迎えたのです。スペインは今でこそイギリスやフランス、ドイツといった大国の陰に隠れてあまり目立たないかもしれませんが、この時代はスペインこそがヨーロッパ最強の国だったのです。
この黄金の世紀には、芸術、文化、科学の各分野でスペインが中心となり、多くの著名な芸術家や学者が登場しました。ベラスケスやエル・グレコといった画家、セルバンテスのような文学者がこの時代を代表する人物です。しかし、絶え間ない戦争と重税により、国内経済は徐々に疲弊していきました。加えて、17世紀に入るとヨーロッパ内での勢力バランスが変わり、スペインの政治的・軍事的影響力は徐々に衰退していきます。この時期には、オランダやイングランドとの海上での競争が激化し、スペインの植民地帝国は次第にその規模を縮小させていったのです。
15世紀のスペインは、政治的統一とレコンキスタの完了が進展した時代であり、近代スペイン国家の形成が始まった重要な世紀です。この時期、カスティーリャ王国とアラゴン王国は、それぞれの王国を統治していたイサベル1世とフェルナンド2世の結婚(1469年)により、スペイン王国としての統一が進みました。この「カトリック両王」による連合は、国内の政治的安定をもたらし、レコンキスタを完了させる大きな力となりました。
1492年、スペインはグラナダのナスル朝を征服し、約800年にわたるイスラム教徒の支配を完全に終わらせました。同じ年には、クリストファー・コロンブスの大西洋航海を支援し、アメリカ大陸の発見に繋がり、スペインは新たな領土拡大と帝国建設に乗り出しました。15世紀の終わりには、スペインは強力な統一国家としてヨーロッパの舞台に登場し、次の世紀における黄金時代の基盤を築いたのです。
カスティーリャ王国のイザベル女王と、アラゴン王国のフェルナンド王が結婚したことで、カトリック両国が統一されスペイン王国が成立した。この統一王国のもとレコンキスタはさらに加速し、イスラム勢力は縮小していった。
スペイン女王イサベル1世の援助を受けたクリストファー・コロンブスが新大陸(アメリカ大陸の西インド諸島)に到達。「西インド」の名は、コロンブスは到達したその場所をインドと勘違いしたことに由来。
スペイン王国がイスラム勢力最後の砦グラナダを陥落。ナスル朝グラナダ王国が滅亡し、キリスト教勢力によるレコンキスタ(国土回復)が完了した。
1494年のトルデシリャス条約の締結は、新世界におけるスペインとポルトガルの植民地活動を調整するための歴史的合意だった。この条約により、子午線を境に西側をスペインの影響圏、東側をポルトガルの影響圏として分割し、両国間の潜在的な紛争を回避した。トルデシリャス条約は、海外植民地競争の初期における国際協調の一例として重要であり、スペイン帝国の海外拡張戦略の基盤を築いた。
16世紀のスペインは、ヨーロッパと世界における強大な帝国としての地位を確立し、「スペインの黄金時代」として知られる繁栄と影響力の頂点を迎えた時代です。スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世としても知られる)は、広大な領土を統治し、ヨーロッパ内外で強力な支配を展開しました。彼の治世では、アメリカ大陸から大量の金銀がスペインに流入し、経済的な繁栄をもたらしました。
カルロス1世の後を継いだフェリペ2世の時代には、スペインはカトリック教会の擁護者として宗教改革に対抗し、1588年の「無敵艦隊(アルマダ)」を率いてイングランドへの侵攻を試みましたが、これは失敗に終わりました。それでもスペインは、ヨーロッパ各地や新大陸で領土を広げ、ナポリ、シチリア、ミラノ、ネーデルラントなどの支配地域を保持し、さらにフィリピンを含む広範な植民地帝国を築きました。
このように、16世紀はスペインが文化的、軍事的、経済的に最も輝いた時期であり、その影響力はヨーロッパ全体と新世界にまで及んだのです。
ハプスブルク家の血を引くカルロス1世がスペイン王に即位したことでスペイン・ハプスブルク朝(アブスブルゴ朝)が成立した。カルロス1世は1519年からは神聖ローマ皇帝も兼ねている。
スペインの探検家エルナン・コルテスがメキシコに遠征、現地のアステカ帝国を侵略し滅ぼした。征服者(コンキスタドール)コルテスはスペイン植民地ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)提督となったが、富と権力を持ちすぎたことで王室から危険視され失脚に追い込まれる。
コルテスの右腕ペドロ・デ・アルバラードが中央アメリカ北部のグアテマラを征服。以降スペインの支配下に置かれる。アルバラードの征服地での先住民に対する仕打ちは極めて残忍だったという。
1529年のサラゴサ条約は、トルデシリャス条約を改訂し、スペインにフィリピン諸島の領有を認めた重要な合意だった。この条約により、スペインはアジアにおける植民地展開の基盤を固め、後の太平洋貿易における重要な拠点を確保した。サラゴサ条約は、ポルトガルとスペインの植民地競争の調整において重要な役割を果たし、両国間の関係を安定化させる助けとなった。
スペインの探検家フランシスコ・ピサロが兄フランシスコとともにペルーに侵入。インカ皇帝アタワルパを処刑しインカ帝国を滅ぼした。ピサロはのちに同僚と対立し暗殺されている。
アメリカ大陸におけるスペインによる征服戦争の是非を巡る論争(バリャドリッド論争)が勃興する。聖職者ラス・カサスが、布教先のスペイン植民地で行われている先住民虐待※をみて、国王に是正を訴えたことが発端。この論争をきっかけに先住民保護の動きが急速に広まり、73年には先住民の権利を保護する「インディアス基本法」が制定されている。
※虐待の実態を記したラス・カサスの著書として『インディアスの破壊についての簡潔な報告』が有名。日本語訳の本も出ているので興味があれば読んでみましょう。かなりショッキングな内容なので注意してください。
ギリシャのコリント湾レパント岬沖にて、オスマン帝国艦隊vsスペインが中心となった神聖同盟艦隊の海戦が行われる。神聖同盟が勝利した結果、盟主として戦ったスペインは最盛期を迎えた。地中海史上最も有名な海戦。
スペイン王がポルトガルの王位を継承したことで、ポルトガルの海外領土まで取り込み、スペインの覇権は全世界に及ぶようになりました。「太陽の沈まぬ帝国」を体現したのです。
英仏海峡にて、スペインの無敵艦隊アルマダとイギリス艦隊の海戦が行われる。植民地オランダの独立を支援したり、私掠船でスペイン船を襲うイギリスに対し、スペイン側から仕掛けた戦争だが、嵐という不運に見舞われ敗走。制海権をイギリスに奪われ、帝国退潮のきっかけになった。
17世紀のスペインは、「スペイン帝国の衰退」の時代として知られ、国内外での困難が重なり、かつての黄金時代から徐々に衰退へと向かいました。フェリペ3世、フェリペ4世、カルロス2世の治世において、スペインは軍事的・経済的な負担に直面し、度重なる戦争と財政危機が国を疲弊させました。
特に、三十年戦争(1618年〜1648年)と八十年戦争(1568年〜1648年)での敗北により、スペインはヨーロッパでの覇権を失い、ウェストファリア条約(1648年)でオランダの独立を承認。これに加え、国内ではカタルーニャとポルトガルの反乱(1640年)に直面し、ポルトガルは1668年に独立を達成しました。
経済的には、アメリカ大陸からの銀の流入が減少し、重税や経済政策の失敗が重なり、経済は停滞しました。さらに、カルロス2世の死後、スペイン継承戦争(1701年〜1714年)が勃発し、スペインの領土は縮小し、その国際的な影響力も大きく低下しました。このように、17世紀はスペインにとって困難な時期であり、帝国の衰退が決定的となった時代だったのです。
神聖ローマ帝国(ドイツ)を舞台に三十年戦争が開始される。ドイツ内のカトリックとプロテスタントの対立激化がきっかけ。反宗教改革の本山であったスペインは、カトリック勢力として参戦した。
ポルトガル革命にともない、スペイン帝国とポルトガル王国の戦争に発展した。スペインが敗れ、両国の同君連合が解消された。
フランス・スペイン戦争(1635年〜1659年)の講和条約ピレネー条約が結ばれる。この条約でフランスは領土を獲得、ルイ14世とスペイン王女の婚姻が決定し、スペインはフランスに50万エキュの持参金を支払うこととなった。ヨーロッパにおけるスペインの地位がフランスに取って代わられたことを象徴する条約。
フランス国王ルイ14世の孫フェリペ5世が即位。ハプスブルク朝最後の王カルロス2世の遺言に従ったものだが、フランスの拡大を危惧するオーストリアらヨーロッパ諸国が反対し、スペイン継承戦争に発展した。
近世に築かれたスペイン海上帝国はそう長く続きませんでした。18世紀に入りイギリスの台頭。無敵艦隊の敗北・王位継承戦争・植民地の反乱・独立などが重なり、しだいにスペインの国際的地位は低下していきました。20世紀に入り共和制に移行しましたが、ソ連が支援する人民戦線と、ドイツ・イタリアのファシズム政権が支援するフランコ率いる右翼軍部との間で「スペイン内戦」が勃発し、国内はますます荒廃していきました。
スペイン内戦は1936年から1939年にかけて続き、フランシスコ・フランコが勝利し、長期にわたる独裁体制を確立しました。この期間、スペインは国際的に孤立し、国内経済も大きく後退しました。フランコ死後の1975年には、スペインは再び王政へと移行し、フアン・カルロス1世の下で民主化への道を歩み始めます。1986年には欧州共同体(現EU)に加盟し、経済的な回復と政治的安定を達成。スペインは文化や観光が豊かな国として国際社会に再びその地位を確立し、21世紀の現代においても欧州内で重要な役割を果たしています。
18世紀のスペインは、ブルボン朝の成立とともに再生と変革を模索した時代でした。17世紀末のスペイン継承戦争(1701年〜1714年)の結果、フェリペ5世がスペイン王に即位し、フランスのブルボン家がスペインの王位を継承しました。これにより、スペインは中央集権化と近代化を目指し、フランス風の行政改革が進められました。
フェリペ5世とその後継者たちは、地方特権を削減し、経済を活性化させるための改革を行い、特に農業、商業、そして植民地経営の効率化を図りました。また、スペインは再びヨーロッパの大国としての地位を取り戻そうとしましたが、イギリスやフランスとの戦争が繰り返され、財政的には依然として厳しい状況にありました。
18世紀後半には、啓蒙思想がスペインにも影響を及ぼし、教育や科学の振興が進められる一方で、国内の政治的安定と海外植民地の維持に努めました。特に、カルロス3世(在位: 1759年〜1788年)の治世では、啓蒙専制主義的な政策が進められ、公共事業やインフラ整備、そして行政改革が推進されましたが、依然としてスペインの国力は、かつての栄光には及ばない状況でした。
このように、18世紀のスペインは、ブルボン朝の下での再生と改革の試みが続いたものの、国内外の様々な困難に直面し、かつての強大な帝国から、ヨーロッパの一国へと変わっていく過渡期だったのです。
前年、スペイン王カルロス2世に子がいなかったため、フランス国王ルイ14世の孫フェリペ5世が即位するが、フランス拡大を危惧するオーストリア、イギリス、オランダなどが反対。フランス・スペインvsオーストリア・イギリス・オランダ同盟軍のスペイン継承戦争が開始された。戦局は同盟側有利のままユトレヒト条約で講和。フェリペ5世の即位は認められたが、フランス・スペインともに多くの海外領土を失い、貿易利権をイギリスに奪われた形となった。
神聖ローマ皇帝カルル6世の長女でオーストリア大公マリア・テレジアのオーストリア王位継承に際して、継承権を主張するプロイセン、フランス、スペインなどが反対したことで、オーストリア継承戦争が開始された。アーヘンの和約で講和。王位はマリア・テレジアが継ぐことになった。
ナポリ王カルロス3世がスペイン王も継承する。スペインの近代化を目指し数々の改革を行い、衰えを見せていた国力もある程度復興した。
フランスで市民革命が起き、ブルボン王政が打倒される。これによりスペインはフランス革命政府と敵対し、一時交戦状態に入ったが、95年にバーゼルの和約で講和した。
19世紀のスペインは、政治的混乱と社会的変革が続いた激動の時代であり、帝国の崩壊と国内の不安定が特徴的でした。1808年、ナポレオン・ボナパルトがスペインに侵攻し、ジョセフ・ボナパルトを王位に据えたことで、スペイン独立戦争(1808年〜1814年)が勃発。スペインはナポレオン軍と戦うことになります。最終的にナポレオンが敗北した後、ブルボン家のフェルナンド7世が王位に復帰しましたが、この時期からスペインの植民地帝国が崩壊し始めました。
19世紀前半には、ラテンアメリカの植民地が次々と独立し、スペインは広大な植民地帝国の大部分を失いました。これにより、スペインは経済的にも大きな打撃を受けました。国内では、自由主義者と保守主義者の対立が激化し、カルリスタ戦争(1833年〜1876年)などの内戦が頻発しました。特に、1833年にフェルナンド7世が死去し、娘のイサベル2世が即位すると、彼女の即位をめぐって保守派のカルロス派と自由主義派の対立がカルリスタ戦争として表面化しました。
19世紀後半には、政治的不安定が続く中で短期間の共和政(1873年〜1874年)や軍事クーデターが相次ぎましたが、最終的にはアルフォンソ12世によってブルボン朝が復活しました。スペインは経済的・政治的に弱体化した状態で新たな世紀を迎えることとなりましたが、この時期の動乱と変革は、スペインが近代国家としての姿を模索する過程であり、その後の歴史に深い影響を与えたのです。
フランスのナポレオンがヨーロッパ征服戦争ナポレオン戦争を開始する。スペインはフランスの同盟国として参戦。しかし、ナポレオンの野心的な欧州支配戦略によりスペインは次第にフランスの影響下に置かれるようになり、1808年にはフランスによるスペインの占領が始まった。このことがスペイン独立戦争の引き金となり、スペインはフランスに対して抵抗を開始。この戦争はスペインの国民意識の高まりと、ナポレオン軍に対する欧州全体の抵抗運動の象徴となった。
イベリア半島南西部トラファルガー岬の沖にて、フランス・スペインの連合艦隊とイギリス艦隊の海戦が行われる。イギリス侵攻を企図して行われたが、連合艦隊は壊滅的敗北を喫した。
1807年ナポレオンがポルトガルからスペインに上陸。スペイン王カルロス4世を退位に追い込み、代わりに兄ジョゼフ・ボナパルトをホセ1世として即位させ、国を乗っ取った。同時にこのことに反感を抱いた民衆が立ち上がりスペイン独立戦争が開始された。結果はイギリスからの援軍もあり反ナポレオン軍が勝利し、ナポレオンの大陸支配を終わらせるきっかけになった。
スペイン独立戦争の最中、まだナポレオン軍に占領されていないカディスに国民議会(コルテス)が召集され、自由主義的な憲法が制定されました。この憲法は絶対王政を否定するものなので、ナポレオンの敗北後、フェルナンド7世(カルロス4世の子)が王位に返り咲くと破棄されてしまいます。しかしその後スペインの自由主義派の旗印として用いられ、スペインの立憲君主制実現のために重要な役割を果たしました。
スペイン独立戦争にてナポレオン軍を敗走に追い込んだ後、ブルボン朝フェルナンド7世が即位。彼は1808年に一度即位していたが、即位後まもなくスペインを征服したナポレオンに廃位させられていた。即位後はカトリック勢力の強化、王党派復活などフランス革命以前のヨーロッパ秩序に戻す反動政策を推し進めた。
フェルナンド7世が絶対君主制を否定するカディス憲法を破棄。これがきっかけでリエゴ・イ・ヌニェスら自由主義者による反乱が起こった。その結果カディス憲法が復活し「自由主義の三年間(Trienio Liberal)」が始まる。
フェルナンド7世が再びカディス憲法の破棄を宣言し、自由主義者らが徹底的に弾圧される「忌むべき十年間(Decada Ominosa)」が始まる。この時期、フェルナンド7世は強硬な反自由主義政策を推進し、多くの自由主義者が投獄されたり亡命を余儀なくされた。この「忌むべき十年間」は、スペインにおける政治的な自由と進歩の停滞を示す時期であり、国内の緊張と分裂を深める原因となった。
フェルナンド7世が死去し絶対王政復古体制が終焉。イサベル2世が即位したが当時3歳だったため、マリア・クリスティナが政治の実権を握った。新政は43年から。
民衆と進歩派の支持を受け、クーデターにより政権を掌握。マリア・クリスティナを摂政の座から引きずり下ろした。しかしのちに保守主義に傾き、独裁政治を行ったため、クーデターを招き失脚。
反動政策に抗議する反乱が起こりイザベル2世が追放される。空位となった王位には、イタリア王家よりアマデオ1世が迎えられ即位した。
アマデオ1世の退位にともないスペイン史上初めて共和制が成立する。しかし統治は安定せず2年と満たず終焉。イザベル2世の息子アルフォンソ12世が即位し王政復古した。
父アルフォンソ12世の死にともない、アルフォンソ13世が即位。16歳までは母マリア・クリスティナが摂政となる。1931年の共和革命にともないに退位しフランスに亡命。スペイン・ブルボン王朝最後の王となった。
スペイン植民地キューバ、フィリピンの独立運動を助けたアメリカと戦争に発展。アメリカに敗北し、キューバ、フィリピン、グアム、プエルトリコなど多くの植民地を失った。アメリカはカリブ海を制し、西太平洋進出の拠点を手にした。
20世紀前半のスペインは、社会的・政治的な激動が続き、内戦と独裁政権の成立へと至る時代でした。まず、1920年代には軍事独裁政権がミゲル・プリモ・デ・リベラのもとで成立しましたが、経済の不安定さや反発が高まり、1930年に彼は辞任しました。これに続き、1931年にはアルフォンソ13世が退位し、スペイン第二共和政が樹立されました。
共和政は社会改革や土地改革を推進しましたが、政治的な対立が激化し、左派と右派の間で深刻な分断が生じました。この対立は1936年に勃発したスペイン内戦へと発展し、フランコ将軍率いる右派のナショナリストが、左派の共和派政府と戦うことになりました。内戦は1939年にフランコが勝利して終結し、彼の独裁政権が成立しました。
フランコ体制は、第二次世界大戦中に中立を維持しつつも、国内では厳しい抑圧と独裁が続きました。このように、20世紀前半のスペインは、共和政から内戦、そしてフランコ独裁へと続く混乱と変革の時代であり、国の社会構造と政治体制に深い影響を及ぼしたのです。
カタルーニャの労働者により、スペイン政府の徴兵方法の不公平性を訴える抗議運動が発生。暴動鎮圧にでたスペイン軍により多数の死者がでた。
オーストリア皇太子暗殺事件(サラエボ事件)をきっかけに第一次世界大戦が勃発する。この戦争でスペインは中立の立場をとったが、大戦中のインフレーションで貧困層の困窮化が加速。労働運動を誘発し政治的混乱を招いた。
スペインが植民地支配していたモロッコの支配を強化するべく、反乱を続けるベルベル人への攻撃を開始する。しかしアンワールでの戦いで大敗を喫した。戦争を推し進めた国王アルフォンソ13世への不信が高まった。
第一次世界大戦による混乱収拾を名目に、軍人プリモ・デ・リベラによる独裁政治が始まる。初期は容認されたものの、独裁が長引くと反発が強まり退陣に追い込まれた。
プリモ・デ・リベラ独裁政権の崩壊で、共和主義・社会主義政党が勢いづき、王政が打倒される。ここに第二共和政が成立した。政情不安により33年に崩壊し、反動政治が始まった。この期間は「暗い2年間」と呼ばれる。
政治的混乱が続くなか、フランシスコ・フランコ将軍の人民戦線政府に対するクーデターが起こり、スペイン内戦に発展した。最終的に反乱軍が勝利しフランコによる独裁が始まった。
ナチスドイツのポーランド侵攻をきっかけに第二次世界大戦が勃発。スペインは中立を維持するも、同じファシズム国家として枢軸国側に肩入れしていたため、戦後の孤立化に繋がった。
スペイン内戦後は内戦に勝ったフランコによる独裁がしばらく続き、フランコが死去すると、立憲君主制による王政が復活。現在に続くスペインの政体が確立され、没落した経済も観光業などを軸に少しずつ回復していった。現在は経済停滞に悩まされるも、ヨーロッパを牽引する重要な経済先進国の一つであることに変わりない。
20世紀後半のスペインは、フランシスコ・フランコの独裁体制の終焉と民主主義への移行が特徴的な時代でした。フランコ政権は、内戦後から続いた厳しい抑圧と中央集権的な統治を維持していましたが、1960年代に入ると経済成長が加速し、「スペインの奇跡」と呼ばれる経済繁栄を遂げました。しかし、政治的自由は依然として厳しく制限されていました。
1975年、フランコが死去すると、彼によって指名されていたフアン・カルロス1世が国王に即位しました。フアン・カルロス1世は、フランコ体制を引き継ぐかと思われていましたが、彼は民主化への道を選びました。1976年、スペインはアドルフォ・スアレス首相の下で政治改革を進め、1978年には新しい民主的な憲法が制定され、立憲君主制の下での議会制民主主義が確立されました。
1980年代には、スペインは欧州共同体(EC、後の欧州連合)への加盟(1986年)を果たし、ヨーロッパへの統合を進めるとともに、経済的な安定と成長を追求しました。また、文化面でも国際的な影響力を強め、特にバルセロナオリンピック(1992年)やセビリア万博が成功を収めました。
このように、20世紀後半のスペインは、独裁から民主主義への劇的な転換と、国際社会への再統合を成し遂げた時代であり、現代スペインの基盤を築いた重要な時期だったのです。
1953年の米西防衛協定締結は、冷戦時代のスペイン外交政策における重要な転換点だった。この協定により、アメリカはスペインに軍事基地を設置することができ、代わりにスペインには経済援助が提供された。この協定は、フランコ政権下のスペインが国際社会に再統合するための一歩となり、西側諸国との関係強化に寄与した。しかし、同時に国内外からの批判も招き、独裁政権との関係をめぐる論争の一因ともなった。
1955年の国際連合加盟は、スペインが第二次世界大戦後の国際社会において正式な一員となることを意味した。この加盟は、スペインが国際社会での孤立から脱却し、国際的な政治舞台での発言力を高めるきっかけとなった。加盟はフランコ政権による外交努力の成果であり、スペインの外交政策に新たな方向性をもたらした。
1958年の国際通貨基金加盟は、スペイン経済の国際化の一環として重要なステップだった。この加盟により、スペインは国際金融市場へのアクセスを拡大し、経済成長に必要な外国からの投資を引き付けることが可能となった。国際通貨基金への加盟は、スペイン経済の安定化と近代化への道を開いた。
フランシスコ・フランコが死去し、独裁政治が終焉を迎えた。そしてフアン・カルロス1世が国王に即位(1975年)、新憲法(スペイン1978年憲法)が承認され、立憲君主制に体制を移行(1978年)
スペインが急速に民主化していく中、軍事独裁の復活を図り陸軍がクーデターを起こすも失敗に終わった(23-F)
1986年の欧州共同体(EC)への加盟は、スペインがヨーロッパ統合に積極的に参画することを決定した歴史的な瞬間だった。EC加盟は、スペイン経済の近代化を加速させ、市場の拡大、資本の流入、社会基盤の改善を促進した。また、加盟はスペインの国際的な地位を高め、ヨーロッパ内での発言力を強化する効果ももたらした。
1992年のバルセロナオリンピック開催は、スペインの国際的な地位を象徴する大きな出来事だった。このオリンピックは、スペインの文化、歴史、そして近代化の成果を世界に示す舞台となり、国内外からの注目を集めた。オリンピックの成功は、スペインが国際社会で重要な役割を果たす国としての地位を確立するきっかけとなった。
現代スペインの歴史は、民主化の進展と国際的な統合の過程によって特徴づけられます。1975年のフランコの死後、スペインは独裁体制から民主主義へと移行し、1978年には新憲法を採択。1986年の欧州共同体(現EU)加盟は経済の近代化を加速させ、国際社会でのスペインの地位を強化しました。21世紀に入ってからも、スペインはEU内で重要な役割を担いつつ、経済危機や政治的変動に直面しています。
特に2008年の世界的な金融危機は、スペインに大きな打撃を与え、高い失業率と経済不況を引き起こしました。しかし、経済改革と緊縮政策の導入により、徐々に回復の兆しを見せています。政治的には、カタルーニャ州の独立問題が注目され、国内外に大きな影響を与えています。これに対する政府の対応や、それに伴う社会的・政治的な議論は、スペインの未来の方向性を決定する重要な要素となっています。現代スペインは、多様性と統合のバランスを模索しながら、新たな局面に向かって進んでいます。
21世紀のスペインは、グローバル化と欧州連合(EU)内での役割を背景に、経済的繁栄と政治的課題に取り組む時代となっています。スペインは2000年代初頭、経済成長と不動産ブームを経験し、欧州の主要経済国としての地位を固めました。しかし、2008年の世界金融危機により深刻な不況に見舞われ、特に若者の失業率が高まり、社会的・経済的な不安が広がりました。
政治面では、カタルーニャ独立問題が大きな争点となり、2017年にはカタルーニャ自治政府が独立を宣言しましたが、スペイン中央政府はこれを認めず、緊張が続いています。さらに、21世紀初頭からの移民問題やテロの脅威にも直面しており、社会の多様性と安全保障が重要な課題となっています。
また、2020年には新型コロナウイルス(COVID-19)のパンデミックがスペインを襲い、厳しいロックダウンや経済対策が取られる一方で、医療体制の強化が求められました。これにより、経済再生と社会福祉のバランスを取ることが求められるようになりました。
このように、21世紀のスペインは、経済的な浮き沈みと政治的な試練を乗り越えつつ、国内外での安定と繁栄を目指しているのです。
3月11日にスペインの首都マドリードで爆弾テロ事件が発生。191人が死亡し、2000人以上が負傷した。スペインのイラク派兵に対するアルカーイダの犯行であった。この事件はスペイン社会に大きな衝撃を与え、国際的なテロ対策の強化が求められるきっかけとなった。事件後の総選挙では、与党が敗北し、新政権はイラクからの部隊撤退を決定するなど、国内外の政策に大きな影響を与えた。
グローバルな経済危機がスペインにも波及し、失業率が急上昇。不動産バブルの崩壊により、スペイン経済は深刻な打撃を受け、財政赤字と銀行危機が問題となった。
長年にわたりスペイン政府と戦ってきたバスク分離主義組織ETAが、武装闘争の停止を宣言。これにより、バスク地方の治安が大幅に改善された。
スペイン全土で大規模な抗議運動「インディグナドス」が発生。経済危機や政府の緊縮政策に対する不満が爆発し、民主主義や社会正義を求める声が高まった。
2014年にフェリペ6世が即位したことは、スペイン王室における新時代の幕開けを象徴している。彼の即位は、スペインの民主主義の成熟と、王室の近代化への取り組みを示すものとなった。フェリペ6世の治世は、国内外でのスペインのイメージ向上、世界的な経済危機に対応する政策、そしてカタルーニャ独立問題への対応など、多くの課題に直面している。
カタルーニャ自治州で独立を問う住民投票が実施され、独立賛成派が勝利。しかし、スペイン政府はこれを違法とし、カタルーニャ政府を解散。独立問題が国内外で大きな議論を呼んだ。
スペインも新型コロナウイルスのパンデミックに直面し、政府は厳格なロックダウンや経済対策を実施。パンデミックは社会と経済に大きな影響を与え、医療システムの重要性が再認識された。
スペインはCOVID-19ワクチン接種を全国的に推進し、パンデミック収束に向けた取り組みを強化。ワクチン接種の進展により、経済活動の再開と社会の正常化が期待された。
以上が、古代から現代までのスペインの歴史年表になります。古代には多様な民族がイベリア半島に移住し、フェニキア人、カルタゴ人、そしてローマ人の支配を経験しました。ローマ時代の終焉と共にゲルマン民族の西ゴート族が支配を確立。8世紀にイスラム勢力の侵入により、キリスト教勢力のレコンキスタが始まり、数世紀にわたる宗教紛争が続きました。15世紀にはカスティーリャ王国とアラゴン王国の統合によりスペイン王国が成立し、大航海時代の到来と共に「太陽の沈まぬ帝国」として世界的な海上帝国を築きました。しかし、17世紀から18世紀にかけての一連の戦争と内政の不安定化により、徐々に国力が低下。19世紀と20世紀には、政治的混乱と内戦を経験し、フランコ独裁政治の後、1978年に立憲君主制に移行しています。そして現代においては、EU加盟国として国際的な役割を果たしながら、経済的および政治的な課題に直面しているのです。
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