古代ローマにも「学校」に相当する場所は存在しましたが、現代日本やヨーロッパ諸国のように、公共の学校というものはありませんでした。教育は社会が行うものではなく、家庭学習が一般的で、国家は干渉しないものだったのです。帝政期には私塾が出来始め、教育の場は家庭から学校へとシフトしていきますが、教育は親が子に与えるものという状況が変わったわけではありませんでした。
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教育は物心がつく6~7歳頃から始まり、青年期にかけてラテン語の読み書きや歴史、算術、法律、政治、共用語であるギリシャ語などを教わっていくことになります。教育は段階的に進行し、基礎教育(Ludus Litterarius)、中等教育(Grammaticus)、高等教育(Rhetor)の3段階に分かれていました。
基礎教育は主に6歳から12歳の子供を対象に行われ、読み書き、算術、簡単な文学作品の朗読や暗唱が中心でした。教師はLudi Magisterと呼ばれ、通常は家庭で行われるか、小規模な私塾で行われました。
12歳から15歳頃になると、中等教育が始まります。ここでは、ギリシャ語とラテン語の文法、文学、歴史、哲学などが教えられ、ホメロスやウェルギリウスといった古典文学の作品が学習されました。Grammaticusと呼ばれる教師が指導し、教育の内容は高度になります。
15歳以降の青年期には、高等教育が行われます。主に修辞学(レトリック)や弁論術、法学、政治学が中心で、将来の政治家や弁護士を目指す者が学びました。Rhetorと呼ばれる教師が指導し、公の場での演説や討論の技術が重視されました。
教師役は基本的に父親ですが、裕福な家庭は家庭教師に任せていました。家庭教師はもともとはギリシャ人奴隷が務めることが多かったのですが、カエサルが教師になる者には出自問わず市民権を与えたため、教師の社会的地位向上とともに各地から優秀な人材が集まるようになり、ローマの教育レベルが著しく上昇しました。
ギリシャ人教師は、特に修辞学や哲学の教育で重要な役割を果たしました。ギリシャ文化の影響を受けたローマの上流階級は、ギリシャ語を学び、ギリシャ文学や哲学を深く理解することを重要視しました。これにより、ローマの知識層は高度な教育を受け、その文化的水準が向上しました。
初期のローマでは、教育は主に家庭内で行われましたが、帝政期になると私塾が増え、家庭外での教育が一般的になりました。私塾は都市部に多く設立され、裕福な家庭の子供たちが通いました。これにより、教育の機会は広がり、より多くの子供たちが学ぶことができました。
79年ヴェスヴィオ山の噴火に飲み込まれた都市ポンペイの遺跡からは、庶民による落書きが大量に見つかっていることから、識字率はそれなりに高かったものと思われます。これはローマ社会全体において、教育が広く行き渡っていたことを示唆しています。
古代ローマにおける教育は、家庭内での学習が中心でしたが、帝政期には私塾が増え、教育の場が広がりました。教育は段階的に行われ、基礎教育、中等教育、高等教育と進むにつれて高度な知識が求められました。教師は家庭内では父親や家庭教師が務め、私塾では専門の教師が指導しました。ギリシャ文化の影響を受けたローマの教育は、その文化的水準を高め、識字率の向上にも寄与しました。ポンペイの遺跡からは庶民の識字率が高かったことがうかがえ、教育が広く普及していたことを示しています。
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