オスマン帝国のメフメト2世は1453年に東ローマ帝国を滅ぼした後、東ローマ帝国の後継者として「カイセリ・ルーム(ローマ皇帝)」を自称しました。
実際にギリシア正教のトップ・コンスタンティノープル総主教を支配下に収めてしまったので、後継者という表現も間違ってはいませんでしたが、何といってもオスマン帝国はイスラム教国家。キリスト教世界のヨーロッパ諸国がそれを認めるわけはありませんでした。
オスマン帝国もローマ帝国の後継者という肩書にそこまでこだわりがなかったせいか、メフメト2世の死後は、東ローマ帝国を継承したという主張はあまりなされなくなりました。
「カイセリ・ルーム(ローマ皇帝)」を自称したメフメト2世
代わりに自分たちこそギリシャ正教のトップであり、東ローマ帝国の正当な後継者であるとの主張を始めたのがモスクワ大主教であり、「第三のローマ論」という16世紀ロシアの有名な政治理論が誕生したのです。
この理論を下地に「モスクワはキリスト教世界帝国の首都」であるとして、モスクワ大公が「ツァーリ(皇帝)」を名乗り始め、18世紀にはその称号が国際的に認められたことで、ロシア帝国の成立に繋がっています。
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