「タタールのくびき」とは、13世紀前半から16世紀まで続いた、モンゴル=タタール人によるルーシ諸国の支配のことです。ルーシはロシアの前身で、当時はいくつもの公国に分かれていました。
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モンゴルの遊牧民族は、勇猛果敢な騎馬軍団によってルーシ諸国を攻め落とし、領主を置いて税を課して支配下に置きました。彼らは抵抗する相手に対して容赦がなかった一方で、一度支配下に置いた国に対しては極端に残酷な扱いをすることはあまりなかったようです。
例えば、モンゴル人たちはシャーマニズムを信仰していましたが、征服した土地の人々を無理やり改宗させることはしませんでした。逆にモンゴル人の側が、キリスト教に改宗してルーシ側の貴族たちと政略結婚をした記録があり、モンゴル支配下の教会はかえって栄えていたとされています。
またモンゴル側は、交易路や駅伝制度の整備など、当時の人たちの生活水準を向上させたと思われる政策を推し進めました。これにより、経済活動が活発化し、商業が発展する要因ともなりました。
ルーシ側の史料としてモンゴル人たちからの被害の記録は残っていますが、モンゴル側の史料が極端に少ないために、圧政と抑圧を思わせる「タタールのくびき」という表現は正しくないとする見解もあります。
現在のロシア語には、モンゴルの言語から影響を受けたと思われる単語がたくさんあります。例えば、「караул(警護)」、「ям(駅)」などがその一例です。また、中世ロシアの大貴族たちの中には、モンゴル系の血をひく人たちが大勢いました。
最も重要な点として、モンゴル人たちによる侵略はモスクワを中心としたルーシ社会の成立につながり、ロシア帝国の登場の重要な一因となりました。モンゴルとの関係を巧妙に利用して権力を握り、やがてモンゴルと対等に渡り合うようになったモスクワ大公国には、多くのルーシ有力者たちが集まりました。
モスクワ大公国は、モンゴルからの支配を巧妙に利用して勢力を拡大しました。税の徴収を通じて経済的な基盤を固め、他のルーシ諸国との連携を強化していきました。1380年のクリコヴォの戦いでの勝利は、モンゴルの支配に対するルーシの抵抗の象徴となり、その後の独立運動を加速させました。
1480年のウグラ河畔の対峙で、モスクワ大公イヴァン3世はモンゴル軍と対峙し、不戦勝を収めました。これにより、モスクワ大公国は長く続いた貢納をやめ、他のルーシ諸公も相次いでモンゴルに離反しました。16世紀の初めには、タタールのくびきから完全に脱却したとされています。
タタールのくびきは、ルーシの歴史における重要な時期であり、モンゴルの支配はルーシの政治、経済、社会に大きな影響を与えました。しかし、モスクワ大公国の台頭と独立への道のりは、ルーシの結束と強化を促し、最終的には強力なロシア国家の形成へと繋がりました。この時期の経験は、後のロシア帝国の統治や拡大においても重要な教訓となりました。
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