ムッソリーニとは何をした人?〜ファシズムの始祖〜

 

ムッソリーニの基本情報

 

本名:ベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニ
誕生:1883年エミリア=ロマーニャ州にて
死没:1945年ロンバルディア州にて
地位:ファシスト党党首/イタリア王国首相
政策:ファシスト党の結成/ローマ進軍/ファシズム独裁体制の確立/第二次世界大戦に参戦

 

ムッソリーニ(1883年 - 1945年)はイタリアの政治家で、ファシズムの始祖として知られる人物です。ロマーニャ地方出身。無政府主義・社会主義者の鍛冶職人の父親のもと育ち、小学校教師時代を経て、1900年社会党に入党。第一次世界大戦では参戦支持のスタンスをとったため除名され、以来右翼に転向。戦後「戦闘ファッシ」「黒シャツ隊」などを組織し、社会主義者を攻撃するようになりました。
そして21年国会議員となり、戦闘ファッシをファシスト党に改組、その党首(ドーチェ)となります。さらに22年ローマ進軍により政権を強奪。軍・立法・司法とあらゆる権力を掌握し、労働者弾圧・言論統制を徹底するファシスト独裁体制を固めたのです。
対外的にはエチオピア侵略やスペイン内戦介入など侵略政策に傾倒し、ナチス・ドイツに接近。その帰結として、第二次世界大戦では枢軸国勢力として参戦するも、近代化の遅れが露呈し、連戦連敗を喫し、失脚・逮捕・監禁の憂き目にあいます。ナチス軍に救出され、北イタリアに傀儡政権を樹立するも、戦争末期には連合軍に制圧され、45年パルチザンにより逮捕、その場で死刑判決を受け銃殺されました。

 

ムッソリーニの最後と死因

第二次世界大戦末期、クーデターで幽閉されるもナチスから救出されたムッソリーニは、北イタリアに拠点を置きイタリア社会共和国を設立しました(1943年7月)。しかし連合軍の北進とパルチザンの蜂起により、イタリア社会共和国は崩壊(1945年4月)。ムッソリーニはスイスに逃亡を図るも、途中コモ湖畔でパルチザンに捕らえられ、即決裁判により愛人クラーラと共に処刑されたのです。処刑方法は銃殺で、死後は公衆の面前で逆さづりにされるという、いくらファシストとはいえ哀れみを禁じ得ない最後となりました。