
スウェーデンの国旗
スウェーデンの国土
スウェーデン(正式名称:スウェーデン王国)は、北ヨーロッパの ボスニア湾およびバルト海沿い、スカンジナビア半島東部に位置する 立憲君主制国家です。国土は 南北に伸びるスカンジナビア半島東部とバルト海に浮かぶゴットランド島で構成され、気候区は大部分が亜寒帯湿潤気候 に属しています。首都は 「水の都」、「北欧のヴェネツィア」として知られる ストックホルム。
この国ではとくに製造業が発達しており、中でも自動車や重火器の生産がさかんです。また北部の都市キルナから豊富に産出される鉄鉱石を背景にした鉄鋼業もこの国の基幹産業となっています。
そんなスウェーデンの歴史は、9〜10世紀頃、この地域で有力だったスベア人に建設された部族国家の連合から始まるといえます。その連合国家は14世紀末にカルマル同盟のもとデンマークの支配下に入るも、16世紀には独立を回復。17世紀には戦勝によりフィンランドやノルウェーまで勢力下に治める北欧覇権を築きあげました。しかし18世紀には北方戦争でロシアに敗れ、大幅に領土を失い、さらに20世紀初頭にノルウェーが分離独立して現在の国土に落ち着きました。ここではそんな スウェーデンの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
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スカンディナヴィア半島に青銅器がもたらされ、青銅器時代に入る。青銅器による農業も発達した。岩に絵画や線画が刻まれるようになる。
古代ローマの歴史家タキトゥス(左図人物)が、ゲルマン民族とゲルマニアの地誌・民族誌『ゲルマーニア』を出版する。この中で書かれた「スイーオネース」が、北欧(スカンディナヴィア半島)について書かれた最古の記録とされる。強力な海上勢力を持っていたと記述されている。
地方的権力の台頭により、民族移動がさかんになる。この際にスカンディナヴィア半島南部に多くの砦が建設された。
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元祖スウェーデン人といえるスウェーデンバイキングが活動を始めたのは9世紀頃からです。10世紀には最初のスウェーデン王といわれるエリク6世(別名:勝利王)が登場し、バイキングを撃退してスウェーデンを支配するようになりました。さらに12世紀には、北方十字軍を組織しフィンランドを支配下に置くなど、北欧の覇権国家としてヨーロッパで強い存在感を示すように。13世紀には、現スウェーデンの首都・ストックホルムの原型となった砦も築かれています。しかしスウェーデンの覇権と繁栄は、デンマークの台頭で終止符が討たれます。さらに、スウェーデンは14世紀末、デンマークを盟主とするカルマル同盟に加盟したことで、事実上デンマークの支配下におかれるようになりました。
メーラル湖を中心に勃興したメーラル王国が、スヴェーア諸族を統一してシルフィング王朝を成立させる。
メーラル湖の位置
7世紀中頃に、メーラル王国がデーン人に滅ぼされる。スヴェーア人はスウェーデン中部のヴェルムランド地方に逃れ、インリング朝を創始する。
一部がスウェーデンからロシア平原に移住し、ノヴゴロド公国やキエフ大公国を建設した。彼らは東スラヴ人から「ヴァリャーグ」と呼ばれた。
9世紀後半、ウップランド地方のガムラ・ウプサラに都市が発達。これが後のスウェーデン王国の原型になったといわれている。また強力な船団・艦隊を保有したスカンジナビア出身のバイキングが、バルト海や北海沿岸で交易・略奪活動を行うようになる。とくにスウェーデン出身のバイキングは東方に進出し、東ローマ帝国やイスラム世界との交易を重視した。そして襲った町で調達した捕虜を売りさばく「奴隷貿易」もさかんに行われた。
10世紀にはルーン文字が刻まれたルーン石碑(左図画像)が各地で作られるようになる。また北欧にキリスト教が伝来し、徐々に浸透していったが、スウェーデンでは北欧で最も長く伝統的な北欧神話信仰が残った。
ノヴゴロド公ウラジミール1世(左図人物)がルーシの内乱から逃れてくる。彼はのちにバイキングの戦士を雇い帰還。政敵を破りキエフ大公となった。
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エリク6世の子オーロフ・シェートコヌングが西方教会(キリスト教)による洗礼をうける。
スウェーデン王国とノヴゴロド公国(古代ロシアの有力国)による武力紛争スウェーデン・ノヴゴロド戦争が開始される。北欧と東ローマ帝国をつなぐ河川交易路の支配権をめぐる対立が発端であり、この戦いは15世紀まで続くこととなる。
スウェーデン東部メーラレン湖東の小島スタツホルメン島に、首都ストックホルムの元となる砦が築かれる。
▲ストックホルムの旧市街
ヨーロッパ大陸より封建制度がもたらされ、貴族・聖職者・商工市民・農民といった身分階級が成立する。
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略奪や戦争で得た捕虜を売り飛ばすという、ヴァイキング時代より続いていた奴隷貿易および奴隷制が廃止された。
デンマーク・ノルウェー・スウェーデンの3王国間で同君連合を結ぶカルマル同盟が結成される。君主はデンマーク女王なので、スウェーデンは事実上デンマークの支配を受けるようになった。
▲カルマル同盟の旗
スウェーデン・ストックホルムにて「ストックホルムの血浴」事件が発生すると、宗主国に対する反感が爆発し、グスタフ・ヴァーサが独立を宣言。ヴァーサ朝スウェーデンが成立します。17世紀になるとグスタフ・アドルフ2世の治世のもと、外征により勢力を拡大。人類史上最後にして最大の宗教戦争「三十年戦争」に介入し、ウエストファリア条約の締結をもって、フィンランド・エストニア・バルト海全域を治める北ヨーロッパ最大の勢力を手に入れました。
15世紀に入り、スウェーデンではデンマークからの独立にむけた動きがみられるようになる。
デンマーク人によるスウェーデン人の抵抗運動弾圧がピークに達し、100名を越える独立派スウェーデン人が処刑・粛清される「ストックホルムの血浴」が発生。
▲ストックホルムの血浴
ストックホルムの血浴はスウェーデン人の結束をかえって強める結果となり、大規模な蜂起を引き起こした。結果反乱のリーダーグスタフ・ヴァーサ(グスタフ1世)によりスウェーデンが独立を勝ち取り、ヴァーサ朝が成立した。
国内のカトリック教徒を粛清し、ルター派を国教化する。
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北アメリカのデラウェアにスウェーデン植民地「ニュースウェーデン」が建設される。
▲1650年頃のニュースウェーデンの地図/アマンダス・ジョンソン作
デンマークとスウェーデンがカルマル地方の領有を巡り対立。カルマル戦争に発展した。1613年のクネレド条約で講和。スウェーデンはカルマル地方は死守したが、主要な要塞エルヴスボリとイェータ川河口を失った。
▲カルマル戦争を描いたイラスト
1618年に始まった三十年戦争にプロテスタント勢力として介入。多大な戦果をあげ北欧での覇権を確立し、ヴェストファーレン体制の一員となった。
▲三十年戦争「ブライテンフェルトの戦い」におけるグスタフ2世アドルフ
ポーランド、デンマークを相手取った北方戦争が勃発した。バルト海の支配権をめぐる対立が原因。スウェーデンはこの戦争に勝利し、北欧の覇権を確立させた。
▲北方戦争におけるスウェーデン王カール10世による氷上侵攻
反スウェーデン同盟(ロシア・ポーランド・デンマークなど)を相手取った大北方戦争が勃発。スウェーデンはこの戦争に敗れ、バルト海沿岸を喪失。ロシア帝国にその地位を取って代わられることとなった。
▲16世紀末以来スウェーデン領だったナルヴァを占領するロシア軍
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スウェーデンの黄金時代は長くは続きませんでした。18世紀になると、ロシアとの北方戦争に敗北し、バルト海沿岸部などの広大な領地を失うこととなります。19世紀初頭にはナポレオン戦争による疲弊も追い打ちとなり、以降スウェーデンは下手に戦争に打って出ない、非同盟・中立政策に転換することとなりmさいた。また政体を立憲君主制に転換し、一時結んでいたノルウェーとの連合も、ノルウェー独立をもって解消。20世紀初頭には、ほぼ今と同じ体制になったのです。
ヨーロッパ中を戦火で覆った第一次世界大戦、第二次世界大戦でも、スウェーデンは中立を貫き、地理的に主戦場から離れていたこともあり、さした被害を被らずに済みました。戦後は新憲法を発行し、スウェーデン王国として歩みをスタートし、今にいたっているのです。
グスタフ3世により王権が復活し、絶対君主制が復活
バルト海における勢力均衡を確立することを目的に、ロシアを相手取ったロシア・スウェーデン戦争をひきおこした。結果はスウェーデンの勝利となり、落ちかかっていたスウェーデンの国際的地位を上昇させることに成功した。
▲フィンランド海域におけるロシアとスウェーデンの海戦(1790年)
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フランスの革命政府によりフランス革命戦争が引き起こされ、スウェーデンは第三次、第四次対仏大同盟に加わり、参戦するも敗北を喫した。
19世紀半ばに列強への対抗心から北欧統一の気運が高まり、汎スカンディナヴィア主義(ノルマン主義)と呼ばれる運動が活発になる。
フランス皇帝ナポレオンがヨーロッパ征服にのりだし、ナポレオン戦争が勃発する。スウェーデンは対仏大同盟に加わり、最終的なヨーロッパの解放に貢献した。
フランス革命の影響を恐れたグスタフ4世は反動政策をとるようになる。これが反感を買い、クーデターが引き起こされ、君主の権力が憲法で縛られる立憲君主制に体制が改められた。
▲クーデターで逮捕されるグスタフ4世
ナポレオン戦争が終結し、スウェーデンは戦勝国としてノルウェーを獲得。キール条約にもとづき連合王国「スウェーデン=ノルウェー」が成立する。
20世紀前半には第一次世界大戦、第二次世界大戦という二つの大戦が勃発するが、スウェーデンは中立の立場を取った為さしたる被害はなかった。
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