ウクライナの歴史年表

ウクライナの国旗

 

ウクライナの領土

 

ウクライナ(正式名称ウクライナ共和国)は東ヨーロッパの黒海およびアゾフ海沿岸に面する共和制国家です。ロシアを除けばヨーロッパ最大の国土面積を誇ります。首都は9世紀のキエフ公国を起源とするキエフ

 

ヨーロッパ有数の農業国で、特に小麦の世界的な産地として知られます。また石炭・石油・鉄・マンガンなど豊富な地下資源を背景にした、重化学工業が発達しています。

 

そんなウクライナですが、9世紀にキエフを中心として建設されたキエフ大公国が起源です。13世紀にはモンゴル、16世紀にはポーランド領として過ごし、17世紀以降はロシアの支配に落ち着きます。20世紀にはソ連邦にも参加しますが、91年に独立し現在に至っています。ここではそんなウクライナの歴史を年表にしてわかりやすくまとめています。

 

ウクライナの歴史年表

 

先史ウクライナ

約30万年前頃 現在のウクライナに人類が居住

旧石器時代初期に属するこの時期、現在のウクライナ地域では、人類の初期形態が生存していた。彼らは狩猟と採集を生活の基盤とし、自然の洞窟を住処として利用していた可能性が高い。

 

12万年前頃 旧人(ネアンデルタール人)が居住

ネアンデルタール人は、現在のヨーロッパとアジアの一部に広がっていた。彼らは進んだ石器を使用し、狩猟を主な生活手段としていた。ウクライナでは、彼らの存在を示す遺跡が発見されている。

 

4万年前頃 新人(クロマニョン人)が居住

クロマニョン人は、現代人に近い形質を持つ人類で、彼らの到来によって、ネアンデルタール人は次第に姿を消していった。彼らは芸術的表現に富む文化を築き、洞窟壁画などがその証拠として残されている。

 

1万年前頃 草原・森林地帯の出現

最終氷期の終わり頃、現在のウクライナ地域の気候が温暖化し、草原と森林が広がった。この地理的変化は、人々の生活様式に大きな影響を与え、より定住的な生活への移行を促した。

 

前6000年頃 新石器時代の開始

新石器時代に入ると、人類は土器製作や織物の技術を発展させた。農業の開始は食料の安定供給をもたらし、より大きな集落の形成を可能にした。

 

前4000年頃 トルィピーリャ文化の発展

ドニステル川とドニプロ川の間の地域で発展したトルィピーリャ文化は、大規模な集落と複雑な社会構造を持っていた。彼らは陶芸と銅の加工技術に優れており、この時期には広範囲な交易ネットワークが形成されていた。

 

前3000年頃 農耕文化・畜産文化の発展

トルィピーリャ文化の後を継ぎ、縄文土器文化と竪穴墓文化が発展した。これらの文化は、農業と畜産を中心とした経済活動を行い、より高度な社会構造を築いた。

 

前2000年頃 文化の移行

縄文文化からトシーネツィ・コマリーウ文化とビロフルーディウカ文化への移行は、技術と生活様式の変化を示している。竪穴墓文化から校倉造墓文化への移行も同様に、社会と文化の発展を示している。

 

前1500年頃 キンメリア人の台頭

古史料で確認できるウクライナ最古の民族であるキンメリア人がウクライナに居住を始める。、騎馬民族のキンメリア人は広大な地域を支配し、後のスキタイ人などの文化に大きな影響を与えた。

 

 

古代ウクライナ

前10世紀

この時期、キンメリア人は鉄生産技術を発展させ、その技術は後の文化や民族に大きな影響を与えた。鉄の使用により、農具や武器が改善され、キンメリア人の軍事力と農業生産力が大きく向上した。これにより、彼らの勢力はウクライナ地域を越えて広がりを見せ始めた。

 

前8世紀

キンメリア人は、その拡大する勢力を背景に、小アジア半島への略奪遠征を開始した。これらの遠征は、地中海地域における政治的および軍事的バランスに大きな影響を及ぼし、古代史の中で重要な役割を果たした。

 

前7世紀

前7世紀には、キンメリア人は遊牧騎馬民族であるスキタイ人の台頭に直面した。スキタイ人の到来により、キンメリア人は黒海北岸から西方へと追い出される。この時期は、スキタイ人の勢力拡大と文化の発展が顕著になり、ウクライナ史における重要な転換期となった。

 

1世紀

1世紀には、ゲルマン民族の一派であるゴート族が北欧からウクライナ地域に移住した。彼らの到来は、地域の民族構成と文化的景観に新たな要素をもたらし、特にゴート族の戦士文化や芸術様式は後のウクライナの歴史に影響を与えた。また、ゴート族は後のローマ帝国との関係で重要な役割を果たすこととなる。

 

中世ウクライナ

ウクライナの起源は、4〜6世紀頃、東スラブ民族が現在のウクライナの地に移入し、定住し始めたのが始まりいわれています。彼らはやがてキエフ公国(12世紀成立)を形成し、ドニエプル川の交易で栄えていました。しかし独立は長くは続かず、13世紀にはモンゴル帝国に、14世紀にはリトアニア大公国に、16世紀後半にはポーランドに…ウクライナは常に外からの勢力に脅かされ、支配者が次から次へと変わっていきました。

 

5世紀

この時期に東スラヴ系のポリャーネ族が、後のウクライナ首都キエフの基礎を築いた。ポリャーネ族は、多様な小規模集団を統合し、キエフを主要な政治・文化の中心地として発展させた。彼らの活動は、地域の経済発展と社会組織の進化に大きく貢献し、後のキエフ・ルーシの基礎を形成することになる。

 


現ウクライナの首都キエフ

 

6世紀

6世紀に入ると、東ヨーロッパ地域では東スラヴ人による国家が建設され始めた。これらの国家は、それぞれ独自の政治体制を持ち、商業、農業、手工業が発展。この時期の国家建設は、後のウクライナ地域における政治的・文化的アイデンティティの基礎を築いた。

 

 

7世紀

7世紀には、カスピ海から黒海にかけての広大な地域にハザール人によるハザール汗国が成立した。ハザール汗国は商業の中心として栄え、様々な民族や文化が交流する場となった。この国家は、東西交易路上の重要な拠点として、後のヨーロッパとアジアの関係にも影響を与えた。

 

8世紀

8世紀に入ると、東スラヴ人がハザール汗国の影響下に入るようになった。ハザールの支配は、地域の政治構造に変化をもたらし、東スラヴ人社会の発展にも影響を及ぼした。この時期は、後のスラヴ国家の成立に向けた重要な過渡期となった。

 

9世紀

882年 ルーシの成立


リューリクの子イーゴリ(左図人物)がキエフを占領。ウクライナの原型であるルーシ(キエフ大公国)が成立した。

 

10世紀

ウクライナはもともと多神教や自然崇拝が一般的だったが、10世紀に入り、東ローマ帝国の影響でじょじょにキリスト教が浸透していった。

 

965年 ハザール汗国の滅亡

10世紀に入るとハザールは衰退を始め、965年にはキエフ・ルーシによる侵攻を受けて滅亡に追い込まれた。ハザールの崩壊は、東ヨーロッパの政治地図を大きく変え、キエフ・ルーシの台頭を加速させた。この出来事は、ウクライナ地域の歴史における重要な転換点となった。

 

11世紀

1037年 ソフィア大聖堂の建立

キエフの中心にキリスト教の大聖堂ソフィア大聖堂が建造される。現代においてウクライナ建築の最高傑作の一つとされる。

 


キエフのソフィア大聖堂

 

 

 

12世紀

1132年 キエフ大公国の分裂

ムスチスラフ・ヴェリーキーの死後権力闘争が苛烈になり、キエフ大公国が複数の公国に分裂。各勢力がしのぎを削る内戦の時代に突入した。

 

1199年 ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の成立

西ウクライナを中心にルーシ系国家ハールィチ・ヴォルィーニ大公国が成立した。ハールィチ公国とヴォルィーニ公国というルーシの2公国が合併したことによるもの。

 

13世紀

1240年 キエフの戦い


バトゥ率いるモンゴル帝国軍の侵攻をうけ「キエフの戦い」が勃発。同年12月に陥落し、キエフ大公国は滅び、キエフはモンゴルの属領となった。この戦いはキエフに多大な被害をもたらし、人口が戦前の5万人から2000人にまで激減した。また多くの文化遺産も破壊された。(左図画像は陥落するキエフ)

 

1250年頃 リヴィウの建設

ダヌィーロ・ロマーノヴィチ公によって都市リヴィウが建設される。現在はリヴィウ州の州都で、ウクライナ文化の中心地として知られる。

 


13世紀に成立したウクライナ西部の古都リヴィウ

 

14世紀

1340年 ハールィチ・ヴォルィーニ戦争勃発(〜92年)

ハールィチ・ヴォルィーニ王国(ルーシ王国)の領土継承をめぐりポーランドとリトアニアによる戦争が勃発。92年アストラヴァスの和約が結ばれた結果、ハールィチ・ヴォルィーニ王国(ルーシ王国)はポーランド領とリトアニア領に分割されることとなった。

 


ポーランドに占領されるハールィチ・ヴォルィーニ王国

 

 

1362年 青水の戦い


ウクライナのシュニュハ川でアルギルダス(左図人物)率いるリトアニア大公国軍とモンゴル帝国軍が衝突。この戦争で大勝したリトアニア大公国がキエフ支配を確立した。

 

近世ウクライナ

15世紀

イスラム国家のクリミア・ハン国とオスマン帝国が南ウクライナを占領した。

 

16世紀

1569年 ポーランド・リトアニア共和国成立

ポーランド王国とリトアニア大公国が合同(ルブリン合同)し、ポーランド・リトアニア共和国が成立した。当時のヨーロッパではオスマン帝国に次いで広大な国家で、ウクライナもその支配下に入った。

 

1572年 登録コサック制度の導入

ポーランド・リトアニア共和国で、治安維持・災害救助・国防などを担うかわりに俸給を支払う「登録コサック」の制度が導入される。

 


登録コサックの制服/左は連隊長、右は平士

 

1594年 ナルィヴァーイコの乱


セヴェルィーン・ナルィヴァーイコ(左図人物)が率いるコサックが、ポーランド・リトアニア共和国政府に対して反乱を起こした。反乱は最終的に政府軍に鎮圧され、ナルィヴァーイコはじめとする首謀者は1597年ワルシャワで処刑された。

 

 

 

17世紀

1632年 キエフ・モヒーラ・アカデミー国立大学創立


ペトロー・モヒーラ府主教によって、東欧最古の大学校で現ウクライナの国立大学キエフ・モヒーラ・アカデミー国立大学の前身「キエフ・モヒーラ・アカデミー」が創立される。(左図は同大学の紋章)


 

1648年 フメリニツキーの乱(〜57年)


ウクライナ・コサックのヘーチマン(将軍)ボフダン・フメリニツキー(左図人物)により、ポーランド・リトアニア共和国政府への反乱が引き起こされた。ウクライナとポーランドの大規模の戦争に発展し、この戦争の結果、ウクライナ・コサックによるヘーチマン国家が誕生した。

 

この戦いはウクライナ史の観点から「ウクライナ民族解放戦争」とも呼ばれ、当時の東ヨーロッパの勢力図を大きく塗り替えた、東ヨーロッパ史上最大の軍事衝突の一つといわれています。


 

1654年 ウクライナ争奪戦争の勃発(〜67年)

ポーランド・リトアニア共和国とロシア・ツァーリ国の間で、ウクライナの支配権をめぐる戦争が勃発。ポーランド・リトアニア共和国はこの戦争に敗れ、ウクライナの半分を消失。東ヨーロッパの盟主としての地位をロシアに明け渡すことになった。ロシア・ポーランド戦争とも。

 


ウクライナ争奪戦争のラホヴィツェの戦い

 

1672年 ポーランド・オスマン戦争(〜76年)

ポーランド・リトアニア連邦とオスマン帝国の間でポーランド・オスマン戦争が勃発した。オスマン帝国の勝利と終わり、ウクライナ西部のポジーリャがオスマン帝国に占領された。

 

1676年 露土戦争(〜81年)

オスマン帝国の伸長とそれを阻むロシアとの間で露土戦争が勃発。バフチサライ条約で終結。この条約によりウクライナのコサック国家の領域が、ロシア・オスマン両国により分割された。

 

近代ウクライナ

17世紀になると、ポーランド支配に対し独立運動が活発化。ウクライナはロシアに援助を求め、18世紀後半に起こったポーランドとロシアの戦いにロシアが勝利したことで、ポーランド支配からは解放されました。しかし今度は恩を売ったことで立場的に優位にたったロシアに支配されるようになりました。

 

 

 

18世紀

1795年 第三次ポーランド分割

第三次ポーランド分割を実施した3ヵ国の君主
左からプロイセン王ヴィルヘルム2世/ロシア女帝エカチェリーナ2世/神聖ローマ皇帝フランツ2世

 

プロイセン王国・神聖ローマ帝国・ロシア帝国の3国によりポーランド・リトアニア共和国の領土が分割される。この分割によりポーランド・リトアニア共和国は消滅。ウクライナ人の居住地は、オーストリアとロシアに分裂してしまった。

 

19世紀

1834年 キエフ大学の創立


ウクライナのキエフにキエフ大学が設立される。ウクライナで人気の高い画家タラス・シェフチェンコの名をとって「タラス・シェフチェンコ大学」とも呼ばれる。(左図は同大学の紋章)


 

1848年 1848年革命(諸国民の春)

フランスで起こった1848年革命(諸国民の春)の影響がウクライナにもおよび、ウクライナ人の民族解放運動が活発になる。

 

1863年 ウクライナ文学作品の出版・流通禁止

ロシア政府により文学作品以外のウクライナ語による書物の出版・流通が禁止される。

 

20世紀

20世紀になりロシア革命が勃発し、ソビエトがロシアの政権を手にしたことで、1919年、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国が成立。ウクライナはソ連共産党の強い影響下に置かれるようになりました。1980年代に入り、ソ連でペレストロイカが起こると、ウクライナでも民主化の動きが活発化。そして1991年のソビエト連邦解体に伴い、ついに共和制国家として独立を果たしたのです。ここで国名をウクライナと改称し、首都も現在のキエフになりました。

 

 

1917年 ロシア革命

第一次大戦中にロシア革命が起き、ロシア帝国は崩壊する。宗主国の政治的混乱によりウクライナに複数の政府が立ち上がり、激しい内戦状態に突入した。

 

1918年1月 ウクライナ人民共和国が独立


前年にウクライナ民族主義者によりウクライナ人民共和国(1917年〜1921年)が樹立され、翌年には独立。言論・出版・集会の自由を保障、死刑廃止、土地私有の制限を定めるなど、非常に近代的な体制であったが、他国の干渉により長続きはしなかった。

 

1918年4月 ポーランド・ソビエト戦争の勃発

ウクライナ、ベラルーシの帰属をめぐりソビエト・ロシアとポーランドとの間で戦争が開始。結果ポーランド軍が勝利し、ウクライナの大部分がポーランドの支配下に入った。

 


キエフに進軍するポーランド軍

 

1918年4月 ヘーチマンの政変

ウクライナ・キエフにて右派勢力によりウクライナ中央ラーダ政府が打倒される。政府への批判が頂点に達した時に起こったこの政変は「4月の暑い夜」とも呼ばれる。

 

1918年11月 西ウクライナ人民共和国


ロシア革命期の混乱に乗じ、ウクライナ南西部のハルィチナ地方に西ウクライナ人民共和国が成立。1919年にポーランドに占領されて崩壊した。

 

1919年 ウクライナ社会主義ソビエト共和国の成立

ロシア革命に端を発する内戦の結果、ウクライナにはソビエト政府主導でウクライナ社会主義ソビエト共和国が建設された。

 

 

 

1922年 ソ連の成立

ロシア帝国領を継承する国家として、複数の共和国からなる多民族国家ソビエト連邦(ソ連)が成立し、ウクライナもこれに加盟した。

 

1933年 大飢饉(ホロドモール)

ソ連からの圧力(主に強制的な穀物徴発政策)により大飢饉、通称「ホロドモール」が発生。数百万人が餓死した。

 


ソ連による穀物強制徴収の様子/ウクライナのハルキウ州にて

 

1939年 第二次世界大戦が勃発

ナチスドイツのポーランド侵攻に端を発し第二次世界大戦が勃発。ドイツと不可侵条約を結んだソ連はポーランドに侵攻し、西ウクライナをウクライナ領に組み入れた。

 

1941年 独ソ戦勃発

ドイツ軍が不可侵条約を破棄しソ連に侵入。独ソ戦が開始された。ウクライナは激戦地の1つとなり、住民500万人以上の犠牲が出た。ウクライナは一時的に、ナチス・ドイツの設置した帝国管区ウクライナの統治下に置かれた。

 

1942年 ウクライナ蜂起軍(UPA)の結成

ドイツ軍に対抗する反体制武装組織ウクライナ蜂起軍(UPA)が結成される。粘り強い抵抗運動の結果43年11月に首都キエフの解放に成功。

 


解放後のキエフ

 

1945年 第二次世界大戦の終結

ナチスドイツ、日本の降伏で第二次世界大戦が終結。戦場となったウクライナは荒廃したが、戦後はソ連統治下のもと五か年計画により復興を遂げた。

 

現代ウクライナ

20世紀後半

1954年 クリミア半島の併合

露土戦争以来ロシア領だったクリミア半島が、ソ連からウクライナへ割譲される。歴史的経緯からクリミアにはロシア系住民が多く、これがのちのクリミア危機に繋がる。

 

クリミア半島の位置

 

1986年 チェルノブイリ原発事故

キエフ州プリピャチにてチェルノブイリ原発事故が発生。被害地域には約220万人が住んでおり、甚大な被害が発生した。

 


原発事故で無人となったキエフ州プリピャチ

 

 

1989年 東欧革命

80年代ソ連のペレストロイカの中、東欧諸国で民主化革命が勃発(東欧革命)。ウクライナも例外ではなく、民族運動が活発化し、ウクライナ語の公用語化、ユニエイトの公認化が実現。8月24日、最高会議はウクライナの独立を宣言した。

 

1991年 独立/ウクライナの成立


国名をウクライナ・ソビエト社会主義共和国からウクライナに変え、8月ソ連からの独立を宣言した。ソ連は同年12月に崩壊。


 

21世紀

2014年 クリミア危機

ウクライナで親ロシアの政権が反ロシア・親EU勢力に倒される。これをうけ住民の大半がロシア系住民のクリミアでは大きな反発が起き、クリミア自治共和国独立の動きが一気に高まる。ロシアもそれを支持し、同年3月にクリミア自治共和国議会とセバストポリ議会は独立を宣言。すぐさまロシアはクリミアを自国領に編入する条約を結び、クリミアの海軍拠点を占領した。事実上ロシアがウクライナを「侵略」した形となり、国連、EU諸国、米国などはこれを非難。国際的緊張が走った。

 

クリミア危機を描いた映画『ウクライナ・クライシス』

 

2022年 ロシアのウクライナ侵攻