
1848年頃のサルデーニャ王国旗
ミラノのリソルジメント博物館所蔵、サルデーニャ王国の公式国旗として使用されたもの
出典:Flag of the Kingdom of Sardinia in 1848 / Daufer CC0 1.0より
イタリア統一運動──「リソルジメント」は、単なる内部の民族運動ではなく、国同士の思惑がぶつかり合う国際政治のドラマでもありました。そんな中で、この統一運動を主導した中心的な国家、そして外から手を貸した支援国の存在は、決して見逃せません。今回は、この運動を主導したサルデーニャ王国と、それをさまざまな形で後押ししたフランス・プロイセン・イギリスといった支援国たちに注目しながら、イタリア統一を“国ぐるみ”で見ていきます。
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イタリア統一の中心で旗を振ったのは、どこでもない一つの王国でした。
イタリア統一の中心勢力はサルデーニャ王国(ピエモンテ=サルデーニャ)。首都トリノを拠点とし、当時もっとも近代化の進んでいた国家でした。王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と、首相カミッロ・カヴールのコンビが中心となり、内政改革と軍備拡張、そして巧みな外交でイタリア全土の統一を狙います。
この王国が掲げたのは「君主制による統一」。革命によってではなく、外交や戦争、そして住民投票を活用して周囲の国々を合併させていく方針でした。その意味で、カヴールの外交戦略はまさにリソルジメントの“司令塔”だったんですね。
イタリア内部だけで統一が実現したわけではありません。周囲の列強国の動きもまた、カギとなったのです。
統一初期の最大の支援国がナポレオン3世の治めるフランス第二帝政でした。サルデーニャ王国との密約(プロンビエール密約)を結び、1859年の第二次イタリア独立戦争でオーストリアと戦ってロンバルディア地方の獲得に貢献。見返りにサヴォイアとニースを手に入れるという“ギブアンドテイク”の関係だったわけです。
次に登場するのがプロイセン。1866年の普墺戦争でプロイセンとオーストリアが戦ったとき、イタリアはプロイセン側について参戦。この戦争の勝利によってヴェネツィア地方を獲得することができました。つまり、ドイツ統一を進めていたプロイセンの動きが、結果的にイタリア統一を後押ししたかたちになったんですね。
直接的な軍事介入はありませんでしたが、イギリスはリベラルで自由主義的なサルデーニャ王国を外交的に支持していました。特に反教皇的な立場を評価し、カヴールの外交に理解を示す形で、オーストリアへの国際的圧力を和らげるのに一役買っていたんです。
支援国がいれば、当然ながらそれを妨げようとした勢力も存在しました。
最大の“障壁”となったのがオーストリア。ロンバルディア=ヴェネツィアなどイタリア北部を支配し、リソルジメントを体制破壊運動として徹底的に弾圧しました。1848年のミラノの5日間では一時撤退を余儀なくされましたが、のちに軍を投入して反乱を鎮圧。オーストリアは一貫してイタリア統一に敵対し続けた存在でした。
もう一つの反対勢力がローマ教皇ピウス9世を頂く教皇領。特にローマの併合(1870年)に至るまで、カトリック信者を多数抱えるヨーロッパ各国にとってもデリケートな問題となりました。結果的にローマを失った教皇は「ヴァチカンの幽閉者」となり、国家と宗教の対立という新たな問題を引き起こします。
イタリア統一は、サルデーニャ王国という“小国”が、列強の力をうまく使いながら達成した見事な外交ゲームでもあったんです。支援国との駆け引き、敵国の出方、そして国内の民意──それらを巧みに組み合わせて“パズルのピース”を埋めていったのがリソルジメントの本質なんですね。
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