ビスマルクとは何をした人?〜鉄血宰相〜


ビスマルクの基本情報

 

生年:1815年
没年:1898年
出身:シェーンハウゼン
死没地:フリードリヒスルー
別名:「鉄血宰相」
功績:ドイツ統一・ドイツ帝国の建国

 

ビスマルク(1815年〜1898年)はプロイセンおよびドイツ帝国の軍人・政治家で、ドイツ統一(ドイツ帝国建国)の立役者として知られる人物です。プロイセン・ユンカー出身。保守派の政治家として知られ、1848年の三月革命では反革命派として活動。1862年プロイセン首相となった後は、軍備増強の「鉄血政策」のもとデンマーク、オーストリア、フランスに対する連戦連勝し名声を得て、それを原動力に1871年にはドイツ帝国を成立させています。その後はドイツ帝国初代宰相としてヨーロッパ外交をリードしました。

 

 

ビスマルクの政策

ビスマルクが「鉄血宰相」の二つ名で呼ばれるようになった理由の一つに、1862年にプロイセン議会で彼が行った演説があります。ビスマルクはこのとき軍拡のための予算案を提出していて、「現在の諸問題の解決は鉄と血によってなされる」と話しました。この時のビスマルクの考えは議会の存在を軽視したものだったので、議会は激しく反発して予算を否決しました。しかしビスマルクは予算がないまま軍拡と対外強硬策の実施に踏み切り、結局ドイツの統一を成功させました。

 

鉄血政策

1862年以降ビスマルクが展開した一連の政策を鉄血政策と呼ぶこともあります。ビスマルクは議会を停会させたまま軍備を拡張し、小国が乱立していたドイツの統一を行いました。まずオーストリアと手を組んでデンマークと戦い、二つの公国をデンマークの支配下から奪いました。次にオーストリアと対立しますが、フランスがオーストリア側につかないことがわかるとオーストリアと戦い、比較的短期間で勝利して北ドイツをほぼ統一します。その後フランスを共通の敵として南ドイツも統合しました。このように、彼の政策は、周囲のヨーロッパ諸国のパワーバランスに対する鋭い感覚の点で他の追随を許しません。1890年に失脚するまでの間、ビスマルクは反対勢力である自由主義や社会主義を厳しく弾圧しながらドイツの富国強兵を押し進め、近代ドイツの基礎を固めました。

 

ビスマルクの偉業・功績

ビスマルクの第一の功績といえばやはりドイツ統一の立役者となったことでしょう。当時のドイツは複数の領邦国家が寄り集まった政治的統一性のない「地域」に過ぎなかったため、イギリスやフランスといった列強国に対抗していくためには、ドイツ文化圏を統一し「ドイツ国家」となることが不可欠でした。

 

そんな中、ビスマルクは1862年プロイセン首相に任命されると、鉄血政策という富国強兵政策のもと統一を推し進めていき、1867年オーストリアとの普墺戦争に勝利することで北ドイツ連邦を樹立。さらに1871年にはフランスとの普仏戦争にも勝利することで、南ドイツを併合し、統一ドイツ国家(ドイツ帝国)の樹立を実現させたのです。

 

その後1890年に至るまでプロイセン首相とドイツ国宰相を兼任し、ドイツの政治・経済・軍事・文化などにおいて優れた業績を残しています。とりわけその外交能力が高く評価されており、各国と良好な同盟関係を結んでいくことで、19世紀後半には「ビスマルク体制」と呼ばれる国際関係を構築しています。

 

ビスマルクに関する逸話・エピソード

若気の至り

若かりし日のビスマルクは、語学をはじめとした多くの分野で優秀な成績をおさめながらも、飽きっぽい性格が災いして不安定な生活を送っていました。女遊びと賭博で借金を抱えるようになったことさえありました。

 

「ビスマルク風」

目玉焼きをのせた料理のことを「ビスマルク風」といいます。ビスマルクは大柄な大食漢で、とくに卵が好きだったようで、何にでも目玉焼きをのせて食べていたので、この名前が今でも残っています。

 

大日本帝国憲法

ビスマルクが活躍していたころ、日本では明治維新が行われ、初代総理の伊藤博文はビスマルクに学ぼうとその元を訪れました。ビスマルクはこれを歓迎し、ドイツの高名な法学者グナイストを伊藤博文に引き合わせ、これが大日本帝国憲法の制定にも大きな影響を与える出会いとなりました。

 

ロマンチスト

ビスマルクは、その強硬な政策によって国内外を問わず多く敵を作りましたが、その反動か家族に対する愛情はとても深いものでした。彼自身、家族以外を愛することは許されていないのだと発言していたそうです。彼が妻ヨハンナにあてて書いた手紙には、政治家としてのビスマルクの顔からは想像できないほどロマンチックな愛の詩がつづられています。晩年にビスマルクが失脚した後も、ヨハンナはビスマルクの絶対的な味方としてずっとそばにいて、彼を支え続けました。