ボニファティウス8世とは何をした人?〜アナーニ事件で憤死〜

聖年を宣言するボニファティウス 8 世/ジョット画

 

ボニファティウス8世の基本情報

 

本名:ベネデット・カエターニ
誕生:1235年頃アナーニ
死没:1303年ローマ
在位:1294年 - 1303年
政策:『ウナム・サンクタム』の発布/学術・芸術の振興
誘発:アナーニ事件

 

ボニファティウス8世(1235年頃 - 1303年)はラツィオ州アナーニ出身のローマ教皇で、フィリップ4世を争った末に起こったアナーニ事件により「憤死」した教皇として有名な人物です。1276年教皇庁に入り、いくつかの要職をつとめたのち、1294年教皇に就任。就任後、十字軍の失敗で衰退していた教皇権の回復に着手し、その結果、絶対主義体制の確立を目指すフィリップ4世と対立するのです。ボニファティウスは教皇勅書『ウナム・サンクタム』により教権が王権に優越することを強調するも、フィリップの刺客により監禁・暴行された挙句、退位を迫られるという強硬手段で反撃されてしまいました。その後教皇はアナーニ市民により救出されましたが、怒りと屈辱を抱いたまま死去。このいわゆる「アナーニ事件」は教皇権の衰退の始まりを示す事件であり、欧州史における画期の1つとして重要です。ちなみに彼はアナーニ事件の当事者としてばかり有名ですが、学術や文化の保護に努めた功績があることも知っておきましょう。

 

ボニファティウス8世の死因「憤死」とは

ボニファティウス8世といえば、歴史の教科書でアナーニ事件の末に「憤死」したと記述されていることが多いですが、そもそも死因「憤死」って何?と思いますよね。しかし難しく考える必要はなく、歴史の教科書でこのような言い回しを見た場合「怒りや失意を抱えたまま死んだ」と解釈するのが妥当です。

 

ボニファティウス8世は退位を迫るフィリップ4世に監禁・暴行された後、アナーニ住民に救出されるのですが、その1か月後に持病の結石が悪化して死亡しています。そしてアナーニ事件は相当にショックであったらしく、死の直前まで錯乱状態で怒り心頭であったことから、「憤死」と表現されているのです。

 

ちなみに他にも「憤死」したとされる教皇といえば、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との叙任権闘争を繰り広げたグレゴリウス7世が有名です。詳細は【グレゴリウス7世】にて。