カエサルの基本情報
生年:前100年
没年:前44年
出身:ローマ
死没地:ローマ
別名:シーザー
功績:ガリアの平定(西欧・北欧へのラテン文化普及)
ユリウス・カエサル(前100年〜前44年)は、古代ローマ共和政末期における政治家および軍人です。ポンペイウス、クラッススとともに第一回三頭政治を行ったことで有名です。ガリア(おおむね現在のフランス)を征服して、ヨーロッパ文明の支柱たるギリシア・ローマ文化が北欧の地にまで浸透するきっかけをつくりました。つまりヨーロッパの原形を創った人物といえるのです。そんなカエサルは、ポンペイウスとの内乱に勝利した結果、独裁的な権力を握るようになり、様々な改革を行いましたが、共和政ローマの伝統を固持したい保守派の元老院議員に暗殺され生涯を終えました。
ガリアは、現在のフランスやベルギーにあたる地域です。紀元前一世紀にはケルト人の系統の民族がここに住んでいて、ローマの属州となっていました。しかし、現在のドイツ人などの祖先にあたるゲルマン人の民族が徐々にその土地に侵入してローマ支配に抵抗するようになり、またガリア人の反乱も起こりました。カエサルは紀元前58年からの7年間で数回の遠征をおこなってこの地域を平定し、ローマでの発言権を一段と高めました。また、遠征の記録である「ガリア戦記」は文学的にも非常に価値の高い作品で、当時のガリアの文化を知るうえでの貴重な史料にもなっています。
広大な領土を持つようになったローマを統治するのには、結論を出すまでに長い時間がかかる元老院の制度は不向きでした。ガリア平定後のカエサルは、いくつもの内戦を勝ち抜き、共和政のローマの中で強い発言権を持ち、事実上の独裁者となろうとしていました。そのころの元老院は腐敗し始めていて、ローマの利益よりも自分個人の利益や特権を優先する議員も多くなっていましたが、カエサルはそれらの勢力に対抗して改革を行いました。志半ばで暗殺されてしまいますが、彼の下準備があったからこそアウグストゥスは事実上の帝政を開始することができ、ローマはさらに発展していくことになりました。
カエサルはガリア人やヒスパニアの原住民など異民族には容赦ありませんでしたが、同胞、つまりローマ市民に対しては降伏すれば許しを与え、味方として迎え入れていました。ローマ内戦でポンペイウスを支持したキケロも、ポンペイウスが負けたにも関わらず許しを得ています。ただこれを寛容や慈悲深い人物とみるか、ただ単に他人を同列と扱わず、暗殺なんて大それたことなんて出来やしないと舐めていただけと見るかは見解が分かれるところでしょう。
カエサルは「すべての女の男」と揶揄されるほどの女たらしであったことでも有名です。クレオパトラ7世を愛人にした話は有名ですが、元老院議員全ての妻と寝たという嘘か誠かわからない逸話まであり、彼は薄毛を気にしていたことから、ついたあだ名は「モエクス・カウルス(禿の女たらし)」。何とも偉大な実績にそぐわぬ不名誉なものでした。
カエサルは騎士階級の娘と婚約していましたが、父の死後、出世のために貴族階級の妻を求めてキンナの娘コルネリアと結婚します。キンナは当時の有力者の一人でしたが、スッラとの抗争に敗れて亡くなり、カエサルはキンナ派の一部とみなされてスッラに粛清されそうになります。しかし、当時はめだった政治活動を始めていなかったことなどを理由に他の執政官らが助命嘆願を行い、それが聞き入れられたので難を逃れました。コルネリアとの間に、カエサルの唯一の実子ユリアが生まれ、彼女は後にポンペイウスと結婚して三頭政治の橋渡しのひとつになります。
コルネリアが紀元前69年に亡くなり、カエサルはポンペイアを妻に迎えます。ポンペイアはスッラと、スッラ派の軍人また政治家であったポンペイウス・ルフスの孫娘でした。強大な権力を持っていたスッラはすでに亡くなっており、カエサルはスッラの粛清から逃げていた人たちの帰還を支援したり、粛清された人たちを追悼したりする動きをしていました。この結婚は、カエサルの立場を大幅に強化するものになりました。
紀元前62年にはカエサルはポンペイアと離婚してカルプルニアと結婚しました。彼女の父カルプルニウスは早い時期からカエサルを支持していた政治家で、この結婚は二人の結束を強化するためのものでしたカルプルニア自身もカエサルを愛していたようで、カエサルが彼女と離婚してポンペイウスの娘と結婚しようとしたのに抵抗し、紀元前44年のカエサルの死まで彼の妻の立場にありました。またカエサルの死後、カルプルニウスは、カエサルの後継者オクタウィアヌスと、カエサルの部下また同僚のアントニウスとの間を取り持って第二回三頭政治に貢献しました。
ポンペイウスは紀元前80年代から頭角を現し始めたローマの軍人かつ政治家でした。主に軍事面の才能で高く評価されていて、多くの戦果を挙げ、当時の権力者の一人スッラからは「偉大な」を意味するマグヌスと呼ばれるまでになりました。紀元前60年、元老院のやり方に不満を抱いたカエサルは、同じく元老院に不満を持っていたポンペイウスの強大な軍事力を利用しようと考えて彼と手を結びます。しかし、この時点でのカエサルは民衆から絶大な人気を集めていたもののポンペイウスほどの実績はなかったので、クラッススを引き入れて3人で同盟することでバランスをとります。クラッススはポンペイウスとは犬猿の仲でしたが、莫大な富で一目置かれていました。この3人がそろったことで元老院に対抗しうる勢力を形成することができたのです。
ローマ内戦しかしクラッススが戦死し、ポンペイウスのよき妻となっていたカエサルの娘が亡くなると、カエサルとポンペイウスの対立が顕在化します。ポンペイウスは元老院側に接近し、紀元前51年には、着実に力をつけつつあったカエサルの台頭を妨害する決議を発します。カエサルは激しく反発し、紀元前49年からローマ内戦が起こります。ポンペイウスは人生初の戦敗を喫し、配下にあったエジプトのプトレマイオス朝に逃れますが、そこで暗殺されてしまいます。2人の最期ポンペイウスを追ってエジプトにやってきたカエサルは彼の死の報せに激昂し、涙を流したと伝えられています。また、彼はポンペイウスの遺品と遺灰がきちんと葬られるように手配しました。後にカエサルは、ポンペイウス劇場のポンペイウスの像のところで暗殺され、ポンペイウスがカエサルに復讐したようにも見えたといわれています。
クレオパトラ7世は、同時代のエジプトの女王で、絶世の美女だったという伝説が残っています。カエサルは紀元前49年に政敵ポンペイウスとの間に内戦を起こし、ポンペイウスは劣勢になってギリシア、そしてエジプトのアレクサンドリアに逃げようとしました。そしてクレオパトラの弟プトレマイオス13世の側近によって殺されます。ポンペイウスを追ってきたカエサルは、そこでクレオパトラと出会います。カエサルに召喚されたクレオパトラは、贈り物として絨毯に身を包んだ自分自身を届けさせ、カエサルはその大胆さに魅せられたと伝えられています。これは伝説にすぎず、史実であったことを裏付ける証拠は見つかっていませんが、ともかくカエサルはクレオパトラと親しくなり、クレオパトラと王位をめぐって争っていた弟と戦って勝ちます。その結果クレオパトラの王位を守ることになり、カエサルはしばらくエジプトで過ごします。
カエサルは紀元前46年にローマに戻り、クレオパトラと彼女の法律上の夫を呼び寄せたので、二人はカエサルの死までカエサルの別荘に住んでいました。クレオパトラとカエサルは正式に結婚したことはありませんが、紀元前47年に生まれたクレオパトラの子カエサリオンの父親は、おそらくカエサルであったと思われます。カエサリオンはプトレマイオス朝の最後の王となりましたが、クレオパトラの死後、カエサルの養子で後継者に指名されていたオクタウィアヌスとの抗争に敗れて亡くなりました。
キケロは、ローマ史上屈指の弁論家で、「カティリナの弾劾演説」によりカティリナによる国家転覆の陰謀を阻止した功績で有名ですね。その功績で「国父」とも称されたキケロとカエサルの関係はどうだったのかというと、基本的にはあまり反りが合わなかったようです。とりわけカエサルとポンペイウスの対立でローマが内戦に突入すると、共和政の維持を望む元老院派のキケロはポンペイウスを支持したため、より関係は悪化しました。
ポンペイウスが内戦に敗れカエサルが実権を握った後は、カエサルから許しを得て彼に協力することで関係を修復しますが、腹の内は独裁者然とふるまうカエサルを苦々しく思っており、ブルートゥスらによる暗殺も支持していました。
名声を高めるために、汚職のはびこっていた属州総督の告発をしていたカエサルは、当時の最高権力者のドラベッラまで告発しますが失敗し、ロードス島に留学してドラベッラの手から逃れようとします。しかし途中で海賊に捕まり、身代金を要求するための人質にされてしまいます。一文無しの上に実質亡命中と日陰の身であるはずのカエサルですが、20タラントの身代金を要求しようとした海賊たちに対して、ふてぶてしく身代金を50タラントにするよう指示します。海賊たちに対しても身代金の要求先の都市に対しても自分の価値をつり上げてみせ、大切に扱わざるを得ない状況を作り出したのです。捕虜になっている間も海賊たちの間で王のように振る舞い、自由になったら磔刑にしてやると宣言していたといいます。この作戦はうまくいき、カエサルは50タラントとひきかえに生還し、取って返して海賊を殲滅、宣言通り彼らを磔刑にし、没収した財産で50タラントを返済します。この事件の前後でカエサルの性格が大きく変わったとみる専門家も多く、このときの成功体験がなければ、豪胆で弁舌巧みな野心家のカエサルは誕生しなかったかもしれません。
カエサルは女性関係が派手だったことで知られています。記述に残っているだけでも10人以上の妻や愛人たちがいます。カエサルは陰謀のかどで査問のための委員会にかけられたことがありました。そのカエサルのもとに手紙が届き、彼が中身を見せることをためらうので、カエサルを訴えた政敵カトは陰謀の証拠に違いないと鼻息荒く詰め寄りましたが、手紙を開けてみたところカトの姉からカエサルに届いた恋文でした。カトは巧みな弁舌で知られていましたが、このときばかりは「この女たらし!」という以上に言葉が見つからず、場は大爆笑に包まれて終わったようです。
ユリウス・カエサルはJulius Caesarのラテン語読みです。ユリウスは氏族名、カエサルは家族名で、どちらも個人名ではありませんが、現代では基本的には共和政ローマの終身独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルのことを指します。後にアウグストゥスが帝政を開始したのち、ローマ皇帝が代々「カエサル」の家名を受け継いだことから、「カエサル」はローマ皇帝、または次期皇帝を表すようになりました。さらに後に、ローマの専制君主制の中で、「カエサル」は正帝を補佐する副帝のことを指す言葉として使われるようになりました。この影響を受けて、ドイツ語のカイザー、ロシア語のツァーリ、トルコ語のカイセル、アラビア語のカイサルなど、「皇帝」を意味するたくさんの言葉が生まれました。
ジュリアス・シーザーという呼び方は、イギリスの偉大な劇作家ウィリアム・シェイクスピアの書いた悲劇によって定着しました。シェイクスピアはローマ史を題材にいくつか劇を書いていますが、「ジュリアス・シーザー」は、カエサルとその友人ブルータスを中心にして、人々が裏切り合う心の動きを描いた、シェイクスピアらしい悲劇の名作です。シーザーとカエサル、今日では、人名や地名などの固有名詞は現地の呼び方に近づけて表記されることが多くなっているため、「カエサル」という言葉を使われることのほうが多くなっています。
カエサルは紀元前1世紀の共和政ローマの政治家でした。「カエサル」は当時一般的だったローマ人の家族名です。しかし、カエサルの後継者オクタウィアヌス(のちのアウグストゥス)がカエサルの名を名乗り、自分の後継者にもカエサルを名乗らせたため、「カエサル」という言葉は徐々に皇帝の一般名詞として使われるようになってゆきました。これがドイツ語やロシア語などで「皇帝」を意味する単語の語源ともなりました。さらに後の時代になって、3世紀にディオクレティアヌス帝が行った改革の中で、「カエサル」は正帝を補佐する副帝の称号になりました。
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