ロシアの歴史年表

ロシアの国旗

 

ロシアの領土

 

ロシア(正式名称:ロシア連邦)、ユーラシア大陸北部に位置する連邦制国家です。一つの主権下に複数の構成主体(46州、22共和国、9地方、4自治管区、3市、1自治州)が結合している「連邦国」で、その国土面積は世界最大を誇ります。
ロシアの国が他と突出して広大な土地を領有するにいたったのは、現ロシアの基礎となったモスクワ大公国(13世紀成立)が、周辺の公国を次々と併合し、18世紀にはその支配がシベリアにまでおよぶ広大な帝国を築いたことに起源を持ちます。そうして成立したロシア帝国は戦争により勢力を拡大していき、イギリスフランスドイツオーストリアオスマン帝国といったヨーロッパ列強と覇を争ったわけですが、20世紀初頭にはロシア革命が勃発し、内側から崩壊に追い込まれてしまいます。その後帝政に代わる社会主義国家ソビエト連邦が成立し、旧帝国領をそのまま引き継ぎました。20世紀末に社会主義の行き詰まりからソ連は崩壊しますが、ロシア連邦として再構成が行なわれ、現在にいたるまで広大な領土を保持し続けているのです。ここではそんなロシアの歩みを、もう少し詳しく年表でみていきましょう。

 

ロシアの歴史年表

 

古代ロシア

古代(紀元前から西ローマ帝国が崩壊する476年まで)におけるロシア地域(特に今日のロシア西部)には、様々な部族や民族が居住していました。これらにはスキタイ人やサルマティア人などの遊牧民族が含まれます。 これらの民族は農耕や牧畜を行っており、時には南のギリシャ人と交易を行っていました。スキタイの金細工は特に有名です。

 

ローマ帝国が拡大するにつれて、黒海沿岸地域などのロシア南部はローマ帝国の影響下に入りましたが、ローマ帝国はロシア地域を直接支配することはほとんどありませんでした。 後期ローマ帝国時代には、ゲルマン民族の移動など、多くの民族がヨーロッパ全土を移動し、4世紀から5世紀にかけて、ゴート族をはじめとするゲルマン民族がロシアの南部地域に侵入、影響を及ぼしました。

 

このように古代のロシアは、現在のロシアとは異なり、多様な民族や文化が存在し、南部は時折ローマ帝国の影響を受けていました。ただし、その影響は限定的で、この地域は主に独自の文化的・政治的な発展を遂げていたのです。

 

古代の終わりを象徴する西ローマ帝国の崩壊は、後のヨーロッパ全体に影響を与え、ロシア地域においても、新たな民族の移動や文化の変化を引き起こす契機となりました。

 

中世ロシア

中世ロシアは、9世紀にヴァリャーグ(ヴァイキング)が東スラブ地域に進出してキエフ大公国を建国したことから始まります。この国家は、東スラブ人とスカンジナビア人の混交から成立し、キリスト教の正教会を988年に採用しました。13世紀にはモンゴル帝国の侵攻を受け、その後数世紀にわたりモンゴルの支配下にありました(タタールのくびき)。15世紀末にモスクワ大公イヴァン3世がモンゴルの支配からの独立を宣言し、ロシア国家の基盤を固めました。中世の時代は、東欧のキリスト教化、スラブ文化の発展、そしてモンゴル支配とその後のロシアの統一への道のりを特徴づける時期でした。

 

9世紀

862年 ノヴゴロド建設


東スラヴ系ルス族のリューリク(左図人物)が、ボルホフ川の両岸にまたがる場所に「最初のロシア国家」とされるノヴゴロドを建設する。バルト海・ビザンツ帝国・中央アジアを結ぶ交易の要所として栄えた。

 

ノヴゴロドの位置

 

リューリクが支配を広げた地域には様々な公国が誕生しました。それらをまとめて、彼の属する部族「ルス」の名にちなみ「ルーシ」と呼ばれるようになり、ロシア(Russia)という国名の語源となりました。

 

882年 イーゴリによるキエフ征服


リューリクの子イーゴリ(左図人物)がキエフ(現ウクライナの首都)を征服する。リューリクの死後は、ノブゴロドに代わりキエフがルーシの盟主的存在となる。

 

10世紀

10世紀末にキエフ大公ウラジミール1世がキリスト教に改宗し、ルーシで正教会が広く信仰されるようになる。この改宗はビザンティン帝国の影響を受けており、ウラジミール1世は988年に大量の住民をキリスト教に洗礼させた。

 


洗礼を受けるウラジミール1世/ヴィクトル・ヴァスネツォフ画

 

この出来事は、ルーシ文化や国家のアイデンティティ形成に深い影響を及ぼし、ビザンティンとの緊密な関係を築いた。教会の建設、宗教芸術の発展、教育と文学の促進が進み、キリスト教はルーシの社会的・文化的生活の中核となった。

 

11世紀

11世紀頃からキエフ・ルーシでは、政治的な統一が揺らぎ、分裂が始まった。この時代のキエフ・ルーシは、多数の公(クニャージ)たちによる統治が特徴であり、彼らはしばしば互いに対立した。主要な公たちは、キエフ大公の地位を巡って競合し、この争いは国内の分裂を加速させた。また、経済的な発展が地域ごとに異なり、特に北東部ではモスクワを中心とした地域が勢力を伸ばし始めていた。12世紀に入ると、キエフ・ルーシはいくつかの独立した公国へと分裂し、この状況は13世紀のモンゴル帝国の侵攻によってさらに強まった。これらの分裂は、後のロシア史における地域間の対立と統合の基礎を形成した。

 

1019年ノブゴロド自由都市に昇格

ルーシの中心がキエフに移ったあとも、ノブゴロドは商業・工業を軸に成長を続け、キエフから独立した自由都市に昇格した。自由都市としてのノブゴロドは、独自の法律と自治権を持ち、後には共和国としての性格を強めていく。この時代のノブゴロドの成功は、地域的な特性と商業活動の重要性を反映しており、中世ルーシの多様性と動的な特性を示していた。

 

12世紀

1157年 ウラジーミル・スーズダリ大公国の成立

キエフ大公が息子にウラジーミル・スーズダリ公(現モスクワ、スーズダリを含む地域の支配者)の地位を与え、 ウラジーミル・スーズダリ大公国が成立した。この大公国は、ルーシ北東部の発展を促進し、キエフ大公国からの一定の独立性を持ちながら、東スラブの文化と政治の中心の一つとして台頭した。ウラジーミル・スーズダリ大公国の成立は、後のモスクワ大公国への道を準備し、ロシア史における重要な転換点となった。この大公国は、地域の経済的・軍事的な強化を図り、ルーシの分裂と多様化する政治的風景において重要な役割を果たした。

 

1136年 ノヴゴロド共和国の成立

ノブゴロドで暴動が発生し、ノブゴロド公が追放される。以降のノブゴロドは民会(ベーチェ)による意思決定が強い民主的な体制に移行したので、ノブゴロド共和国と呼ばれる。この体制の転換は「12世紀のノヴゴロドの革命」とも呼ばれる。

 

1199年 ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の成立

現在の西ウクライナを中心とした地域に、リューリク朝のルーシ系国家ハールィチ・ヴォルィーニ大公国が成立する。ルーシ系国家では最も大きい公国となった。この大公国は、ポーランド、ハンガリー、リトアニアなど周辺国との関係で重要な役割を果たし、東西ヨーロッパの文化的架け橋としての地位も確立した。ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の成立は、ルーシの政治的地図において重要な変化をもたらし、後の東ヨーロッパの歴史に影響を与えた。

 

 

13世紀

13世紀になると、中央アジアを征服したモンゴル帝国が、ルーシに侵攻を繰り返すようになりました。この侵攻は、1237年から1240年にかけて最も激しくなり、キエフを含む多くの重要な都市が破壊されました。モンゴルの征服後、ルーシは「タタールのくびき」と呼ばれる時代に入り、約240年間にわたってモンゴルの支配下に置かれることとなります。

 

この時期、ルーシの各公国はモンゴル帝国への貢納を強いられ、自らの公を任命する際にはモンゴルの許可が必要とされました。しかし、モンゴルの直接的な支配は限られており、地元の公たちはある程度の自治を保持していました。この時代はルーシにおける重税と抑圧の時期として知られる一方で、ルーシの公国間の対立を一時的に和らげ、モスクワ大公国の台頭の基盤を形成することにもなったのです。モンゴルの支配は、ルーシの歴史において長期的な影響を与えたといえます。

 

1236年 モンゴル帝国のルーシ侵攻

バトゥの西方遠征からモンゴルによるルーシ侵攻がスタートした。ルーシ軍はモンゴル帝国軍の進撃を止められず主要都市を次々占領されていく。40年のキエフの戦いにおいても敗れてしまい、国の心臓部キエフを征服されてしまった。

 


モンゴル帝国軍によるスーズダリ侵攻

 

1240年 北方十字軍のルーシ侵攻

ルーシが北方十字軍・東方植民の侵攻を受けるも押し返す。この時期、北方十字軍は主にスカンジナビアと北ドイツの騎士団によって構成されており、彼らは東ヨーロッパへの拡張を目指していた。この遠征は、バルト海沿岸の異教徒地域へのキリスト教化を目的としていたが、その過程でルーシの領土にも侵入した。

 

ルーシの諸公国は、この侵攻に対して結束し、侵略者を撃退することに成功した。この成功は、ルーシの防衛能力の強さを示すとともに、外部からの圧力に対する抵抗の意志を示した。しかし、この時期のルーシはモンゴルの侵攻による混乱の中にあり、内部の統一は弱まっていた。北方十字軍の侵攻は、ルーシが直面していた多くの挑戦の一つであり、この地域の複雑な国際関係と政治的な動きを反映していた。

 

1243年 ジョチ・ウルスの成立

ルーシ全土がモンゴル帝国に征服され、モンゴルの衛星国ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)による間接支配「タタールのくびき」が開始される。「タタールのくびき」とはジョチ・ウルスによる首かせをはめるようなルーシ支配のやり方に由来する。

 

1263年 モスクワ公国の成立

ノブゴロド公の息子が、現ロシアの首都モスクワを支配するようになりモスクワ公国が成立した。しだいにルーシで有力になり始め大公国となり、当時ルーシを支配下においていたキプチャクハン国を圧迫するようになる。

 

14世紀


14世紀初頭にイヴァン1世(左図人物)の治世のもと、キエフに代わり、モスクワ大公国がルーシにおける宗教的・政治的中心地となった。14世紀末にはさらに力をつけたモスクワ大公国が、モンゴルに対し反乱を起こし「くびき」からの解放を図るも鎮圧される。

 

1325年 イヴァン1世の即位

1325年にイヴァン1世がモスクワ大公に即位したことは、モスクワの勢力拡大と中央集権化の始まりを示す重要な出来事だった。イヴァン1世は、表面上はキプチャク・ハン国(モンゴル帝国の一部)に臣従していたが、実際にはモンゴルの支配を巧みに利用して自身の権力を拡大した。彼はモンゴルとの関係を維持しながら、周辺の公国を併合し、モスクワ大公国の領域を広げていった。

 

この時期、イヴァン1世はまた、モンゴルからの税収徴収権を獲得し、モスクワの経済的基盤を強化した。彼の統治下でモスクワはルーシの諸公国の中で急速に勢力を伸ばし、後のロシア国家形成の礎を築いた。イヴァン1世の政策は、モンゴルの支配下での自己利益の追求と地域の統一を巧みに両立させたことで知られ、ルーシの歴史において重要な転換点となった。

 

1380年 クリコヴォの戦い

ドン川流域のクリコヴォ平原にて、モスクワ大公国とジョチ・ウルスの軍が戦った。結果はモスクワ大公国の勝利となり、モンゴル帝国の無敗伝説を打ち砕き、「タタールのくびき」解放に向けた大きな一歩となった。

 


クリコヴォの戦いを描いた民衆版画(ルボーク)

 

1382年 モスクワ包囲戦

モスクワ占領を目論むモンゴル帝国軍と、モスクワ軍が衝突。結果はモンゴル帝国の勝利となり、敗れたモスクワ大公国は、まだこの国がジョチ・ウルスの支配下にある事実を突きつけられることとなった。

 


モスクワを包囲するトクタミシュ率いるモンゴル軍

 

 

近世ロシア

ヨーロッパ近世におけるロシアは、国家の形成、拡大、そして近代化の時期です。15世紀末、モスクワ大公イヴァン3世がモンゴルのくびきを脱し、ロシア国家の基盤を固め、16世紀にはイヴァン4世(雷帝)がロシア初のツァーリとなり、領土拡張を進めました。しかし、彼の治世は強権的であり、後に大動乱(スムータ)を引き起こすきっかけにもなっています。17世紀にはロマノフ朝が成立すると徐々に安定し、さらに国土を拡大。18世紀に入ると、ピョートル大帝が西欧の技術と文化を取り入れ、国家の近代化と強化を進め、新首都サンクトペテルブルクを建設しました。エカチェリーナ2世の時代に、ロシアは黒海へのアクセスを確保し、ヨーロッパの大国としての地位を確立したのです。この時代は、中央集権化、領土拡大、文化と科学の発展が特徴で、ロシアの近代国家への転換期だったといえます。

 

15世紀

1453年 東ローマ帝国の滅亡

オスマン帝国により東ローマ帝国が滅ぼされる。このことによりモスクワ大公国は東ローマ帝国に代わり、「第三のローマ」「正教会の擁護者」として意識を高めていくようになる。

 


コンスタンティノープルを包囲するメフメト2世率いるオスマン軍

 

1480年 ウグラ河畔の対峙


モスクワ大公イヴァン3世(左図人物)がジョチ・ウルスからの独立を宣言し貢納を停止。さらにノヴゴロド公国を併合し、ルーシ北部を統一した。その後ウグラ川のほとりにて、モスクワ大公国軍とモンゴル帝国軍の最後の戦いが行われた。結果はモスクワ大公国の勝利となり、モンゴルのルーシ支配「タタールのくびき」の終焉を決定づけた。

 


ウグラ川で対峙するモンゴル軍とモスクワ軍/ロシア年代記の挿絵より

 

16世紀

16世紀半ば、ロシアは大きな勢力拡大を遂げていた。特に注目すべきは、1552年のカザン・ハン国の征服と、1556年にアストラハン・ハン国を滅ぼしたことである。これらの征服は、ジョチ・ウルス(黄金のホルド)の旧領を取り込む形で行われ、ロシアの版図を大幅に拡大した。

 

この時期のロシアは、イヴァン4世(通称「イヴァン雷帝」)の下で中央集権化が進み、強力な国家としての地位を確立していた。カザンとアストラハンの征服は、ロシアにとって重要な戦略的成果であり、これによりヴォルガ川流域を完全に支配下に置き、ウラル山脈やカスピ海へのアクセスを確保した。また、これらの征服は、ロシアが従来のヨーロッパの枠組みを超えて、アジアへの拡大を図る初期の段階ともなった。この拡大は、ロシアの経済、文化、そして国際関係に長期的な影響を与えることになる。

 

1547年 ロシア・ツァーリ国の成立


モスクワ大公の雷帝イヴァン4世(左図人物)が、故ローマ帝国の称号カエサルに由来するツァーリ(「皇帝」という意味)の称号を使用し、ロシア・ツァーリ国が成立する。ツァーリの称号の採用は、ロシアが独立した帝国としての地位を主張し、以前のキエフ大公国やモンゴル帝国の影響からの脱却を象徴していた。イヴァン4世の統治は、中央集権化、領土拡張、そして厳しい内政措置によって特徴づけられ、そんな統治体制はヨーロッパの大国としてのロシアの地位を確立するとともに、後の帝政ロシアへの道を開いた。イヴァン4世のこの政策は、ロシアの歴史、政治、そして文化に深い影響を与えた。

 

1558年 リヴォニア戦争の勃発

中世リヴォニア(現エストニアラトビアなどがある地域)にて、ポーランドスウェーデンとバルト地方の覇権をめぐり争ったが敗北。ロシアは現ベラルーシをはじめヨーロッパにおける勢力圏を大幅に喪失する。

 


都市ナルヴァを包囲するロシア軍/ボリス・チョリコフ画

 

1570年ノヴゴロド虐殺

1570年のノヴゴロド虐殺は、イワン4世(雷帝)による悲劇的な出来事であり、ノヴゴロドの衰退の重要な原因となった。イワン4世は、自身に対する反逆の疑いを持ってノヴゴロドに対し厳しい処罰を下した。彼の私兵であるオプリーチニナは、市民に対して大規模な弾圧と虐殺を行い、数千人が命を失ったとされる。

 

この事件は、ノヴゴロドの経済的および政治的な地位に深刻な打撃を与えた。かつて繁栄した商業都市であったノヴゴロドは、この虐殺によりその活力を大きく失った。また、この事件はイワン4世の統治スタイルがもたらした恐怖と暴力の極端な例として、ロシア史に残る悲劇の一つとなった。ノヴゴロド虐殺は、雷帝イワン4世の統治下での政治的不安定さと暴力の深刻な結果を示す出来事であり、ロシアの歴史における暗い節目として記憶されている。

 

1598年 リューリク朝の断絶

フョードル1世の死によるリューリク朝の断絶は、ロシアの歴史における大きな転換点となった。1598年にフョードル1世が亡くなると、9世紀から続いていたリューリク朝は終焉を迎えた。これによりロシアは「動乱時代」と呼ばれる混乱の時代に突入した。この期間は約15年にわたり、政治的不安定さ、社会的混乱、外国勢力の介入が特徴だった。

 

この時代、ロシアは複数の偽者(セルゲイ・ラジェヴスキーなどの偽ドミトリー)が出現し、王位を主張した。また、ポーランド・リトアニア共和国やスウェーデンなどの外国勢力もロシアの内政に介入し、さらなる混乱を引き起こした。大動乱は、1613年にミハイル・ロマノフがツァーリとして即位することで終結し、新たな王朝であるロマノフ朝の始まりを告げた。この時期の動乱は、ロシアの政治体制や社会構造に深刻な影響を与え、後のロシアの歴史の方向性を決定づける重要な出来事となった。

 

 

17世紀

1605年 ロシア・ポーランド戦争の勃発

1605年に勃発したロシア・ポーランド戦争は、ロシアの「大動乱」時代の中で起こった重要な紛争である。この時期のロシアは政治的に不安定で、無政府状態に近い状況にあった。ポーランド・リトアニア共和国はこの混乱に介入し、ロシアとの戦争を開始した。

至聖三者聖セルギイ大修道院を包囲するポーランド軍/セルゲイ・ミロラドヴィッチ画

 

戦争の結果、ロシアは敗れ、1610年にはモスクワがポーランド軍に占領された。この時期、ロシアでは偽ドミトリーと呼ばれる数人の人物が登場し、ツァーリの座を主張して内部の混乱をさらに悪化させた。ポーランドの介入とモスクワの占領は、ロシアにとって外国勢力の直接的な脅威となり、国内の統一と独立を求める動きを強めた。これらの出来事は、後のロシアの愛国心と国家意識の形成に大きな影響を与え、ロマノフ朝の成立とロシアの再統一への道を開いた。

 

1611年 モスクワ解放

1611年のモスクワ解放は、ロシア大動乱時代の重要な出来事である。この時、国民からの支持を受けたクジマ・ミーニンが中心となり、モスクワ解放を目指す国民軍が結成された。当時のモスクワはポーランド軍に占領されており、ロシア国内は混乱と外国勢力の干渉により不安定な状態にあった。

 

国民軍は、激しい戦闘の末にポーランド軍をモスクワから追放することに成功した。この勝利は、ロシア人による自主的な抵抗運動の象徴となり、国民的な団結の重要性を示した。モスクワの解放は、大動乱の終結に向けた重要な一歩であり、後のロマノフ朝の成立につながる政治的・社会的な変化の契機となった。ミーニンの役割は、ロシアの愛国心と独立への渇望を象徴するものとして、後のロシア史において高く評価されている。

 

1613年 ロマノフ朝の成立

モスクワ解放後、ロマノフ家のミハイル・ロマノフがツァーリ継承者に選出され、ロマノフ朝が成立した。この選出は、全国会議(ゼムスキー・ソボル)によって行われ、ロシアのさまざまな社会階層からの支持を受けていた。ミハイル・ロマノフの即位によって、約15年間続いた大動乱は終わりを告げ、ロマノフ朝は、ロシアの政治的安定化と領土的拡大を図り、その後300年以上にわたって続くロシア帝国の基盤を築いた。

 

ミハイルの即位とそれにともなうロマノフ王朝の成立は、ロシアにおける内部の統一と国際的な地位の回復に大きく寄与し、ロシアの近代化と発展の礎を形成したといえます。

 

1700年 大北方戦争(〜21年)

バルト帝国を体現していたスウェーデンと大北方戦争を争い勝利。バルト海沿岸を獲得し、そこにサンクトペテルブルクが建設される。1917年までロシアの帝都として機能していた。

 


大北方戦争においてロシア優位へのターニングポイントとなった「ポルタヴァの戦い」

 

18世紀

1762年 エカチェリーナ2世の即位


エカチェリーナ2世(左図人物)が女帝となり、自由主義促進や教育・医療施設の建設といった啓蒙思想に基づいた近代化政策が行なわれた。

 

1773年 プガチョフの乱の勃発

コサック出身のプガチョフが農奴解放、地主打倒を唱えて蜂起を起こした。最終的に政府軍に鎮圧され、首謀者のプガチョフは処刑された。エカチェリーナ2世はこの反乱を機に、反動的な姿勢を強めていった。

 


プガチョフの宮廷に連行される貴族

 

1782年 大黒屋光太夫ロシアに漂着


日本の船頭大黒屋光太夫(左図人物)が嵐により漂流。アリューシャン列島のアムチトカ島(当時ロシア領、現アメリカ領)に漂着し、ロシア人の保護をうける。

 

1792年 ラクスマン来日


ロシアの軍人アダム・ラクスマン(左図人物)が、エカチェリーナ2世の命をうけ、ロシアに漂流していた大黒屋光太夫を伴い来日。ラクスマンはロシアで最初の遣日使節となり、日本に通商を要求した。

 

 

近代ロシア

近代ロシアの歴史は、改革、拡大、革命によって特徴づけられます。19世紀、ロシアは産業化と社会改革、特にアレクサンドル2世の農奴解放令による労働体系の変化を経験しました。しかし、経済の急速な発展と社会的緊張は、政治的不安定さを増大させました。第一次世界大戦中の苦難は、1917年のロシア革命へと繋がり、ツァーリ政の終焉と共産主義のソビエト連邦の成立をもたらしています。

 

ソ連時代は、スターリンの厳格な統治、第二次世界大戦における重要な役割、冷戦時の東西対立が特徴です。しかし1985年のゴルバチョフの登場によるペレストロイカ(再建)とグラスノスチ(透明性)は、1991年のソビエト連邦の崩壊とロシア連邦の誕生へと繋がりました。近代ロシアは、政治的変革と国際関係における重要な役割が特徴といえるでしょう。

 

19世紀

1803年 ナポレオン戦争の開始

ヨーロッパ征服に乗り出したフランスのナポレオン軍と、対仏大同盟諸国の戦争ナポレオン戦争が開始される。ロシアは第三次、第四次、第六次、第七次の対仏大同盟に参加し、フランスと戦った。

 

1812年 祖国戦争(1812年ロシア戦役)の勃発

1812年の祖国戦争(1812年ロシア戦役)は、ナポレオン戦争の中で特に重要な出来事であった。この年、ナポレオンは巨大な軍を率いてロシアに侵攻した。フランス軍は当初成功を収め、一時はモスクワを制圧するに至った。しかし、ロシア軍は戦術的な撤退を行い、スコルチェナヤ(焦土)作戦を実行してフランス軍の補給線を断ち、彼らを消耗させた。

 


モスクワから撤退するナポレオン/アドルフ・ノーザン画

 

冬が訪れると、極寒の天候と長引く補給線の問題がフランス軍に大打撃を与えた。ナポレオンはモスクワからの退却を余儀なくされ、退却中にフランス軍は寒さ、飢餓、ロシア軍の攻撃により甚大な損害を受けた。この戦役は、ナポレオンの軍事的威信に大きな打撃を与え、後の彼の失脚につながる大きな要因となった。また、ロシアではこの戦いが祖国への愛と犠牲の象徴として、国民意識の形成に大きく貢献した。1812年の祖国戦争は、ナポレオン戦争の流れを変え、ヨーロッパの歴史における重要な転換点となった。

 

1825年 デカブリストの乱

首都ペテルブルクで「デカブリストの乱」の発生。西欧思想に感化された青年将校(デカブリスト)が、ツァーリ(皇帝)の専制政治に抗する反乱を起こした。最終的に鎮圧され失敗に終わったが、ロシア史上初めて帝政打倒と農奴解放を目的に起こされた闘争となり、その後のロシアにおける革命運動に大きな影響を与えた。

 


ピエトロ広場のデカブリスト

 

1853年 クリミア戦争の勃発(〜56年)

ロシアは南下政策の一環として、聖地エルサレムをオスマン帝国から奪おうとし、クリミア半島を主戦場とした戦争に発展した。結果はロシアの勢力拡大を恐れたフランスイギリスイタリアなどの介入もあり、ロシアの敗北となった。

 


クリミア戦争においてロシア黒海艦隊が無力化される結果となったセヴァストーポリ包囲戦

 

1861年 農奴解放令の発布


ロシア皇帝アレクサンドル2世(左図人物)により、農奴制廃止のための法律が定められる。ただし土地を自分で買わなければならなくなるなど、農民にとって必ずしもいいものではなかった。一方でクリミア戦争の敗北にてその後進性が露呈したロシアが、これをきっかけに近代化に向けて歩みだすという意味で重要な出来事でもあった。

 

20世紀前半

1904年 日露戦争の勃発

南下政策の中で、満州・支配権をめぐり日露戦争が勃発。中国大陸が戦場とされた。両国ともに経済的・内政的問題で戦争の継続に限界を感じ、アメリカを介したポーツマス条約の締結で講和。

 


日露戦争の口火を切った仁川沖海戦

 

1905年 血の日曜日事件の発生

1905年の「血の日曜日事件」は、ロシア帝国の歴史において重大な転換点となった。この事件は、労働者たちによる平和的な請願行進中に起こった。彼ら・彼女らは、より良い労働条件、個人の自由、そして立憲政治の実施を求めてサンクトペテルブルクの冬宮に向かっていた。

 

この行進は、司祭ゲオルギー・ガポンによって組織され、何千もの労働者、その家族、そして一般市民が参加していた。しかし、ツァーリの宮殿に近づいた際、軍隊が彼らに発砲し、多数の死傷者を出す悲劇が発生した。この事件は、国民の間で広範な衝撃と憤りを引き起こし、反政府運動に火をつける結果となった。

 

「血の日曜日事件」は、ロシア第1革命(1905年革命)の引き金となり、この革命はロシア帝国における社会的・政治的な変革の波をもたらした。この事件は、帝国政府に対する国民の信頼を大きく損ない、ロシアの政治体制に対する広範な批判と改革要求を加速させた。また、後の1917年のロシア革命への道を準備する重要な出来事として、ロシアの近代史において重要な位置を占める。

 

1914年 第一次世界大戦が勃発

1914年の第一次世界大戦の勃発は、ロシア帝国に深刻な影響を与えた。この戦争は、サラエボでのオーストリア大公フランツ・フェルディナント暗殺事件(サラエボ事件)をきっかけに始まり、ヨーロッパを中心に世界的な規模で展開された。ロシアは連合国側について戦争に参加したが、その戦果は芳しくなかった。

 


ロシア潰走のきっかけとなったゴルリッツ=タルヌフ攻勢の後捕虜となるロシア兵

 

ロシア軍は軍事的な劣勢、組織の不備、そして物資の不足に苦しんだ。戦争の長期化により、国内では食料不足、経済の不況、そして社会的な不安が高まった。これらの問題は、すでに不安定だった国内の政治状況をさらに悪化させ、ツァーリ政府に対する広範な不満を生じさせた。

 

第一次世界大戦におけるロシアの苦境は、1917年のロシア革命へとつながる重要な要因の一つとなった。戦争による苦難は、ツァーリの政府への信頼を損ない、社会的、政治的な変革を求める国民の動きを加速させた。この戦争は、20世紀初頭のロシア史において、決定的な瞬間として記憶されている。

 

1917年 2月革命の勃発/ロマノフ朝の終焉/ソビエト共和国の成立

労働者による大規模なストライキ(2月革命)の発生。大量の兵士が革命側に合流したことで制御が利かなくなり、ニコライ2世が退位に追い込まれる。ここに304年続いたロマノフ朝が終焉した。また労働者・農民・兵士からなる新政府ソビエトが設立され、世界初の社会主義国家ソビエト共和国が成立した。

 

1922年 ソビエト連邦の成立

十月革命を皮切りとして、革命派の赤軍と反革命派の白軍による内戦が勃発(ロシア内戦)。その結果赤軍が勝利し、旧ロシア帝国領の支配を確立。ソビエト共和国を盟主とするソビエト連邦が成立した。

 

1924年 スターリンの政権掌握


レーニンの死後ヨシフ・スターリン(左図人物)が政権を握る。彼は最高指導者の座に就くと党の権力を自分に一極集中させ、独裁政治体制を築き上げた。

 

1932年 大飢饉(ホロドモール)

スターリン主導のもと急速な農業集団化を行なったことで、ウクライナを中心に大飢饉(ホロドモール)が発生。強制移住により家畜や農地を奪われたウクライナ人が大勢犠牲になった。

 

 

1936年 スターリン憲法制定

18年制定のレーニン憲法を改正したスターリン憲法が制定された。スターリンが直接作成に携わったためこのように呼ばれる。企業の国有化、コルホーズなど社会主義の原則を定めた。

 

1939年8月23日 独ソ不可侵条約の締結

モスクワにてそれまで水と油とされたナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を結ぶ。この条約は、両国間の戦争を回避し、相互の領土侵略を禁止する内容を含んでいた。独ソ不可侵条約の締結は、第二次世界大戦前夜の国際政治において大きな衝撃を与えた。条約には秘密裏の付属議定書も含まれており、これによって東欧の多くの国々がドイツとソビエト連邦の影響圏に分割された。この動きは、特にポーランドに対する後の侵攻を含む第二次世界大戦の勃発に影響を与えた。

 

しかし、この不可侵条約は長くは続かず、1941年6月22日にドイツがソビエト連邦に対して奇襲攻撃を行うバルバロッサ作戦を開始し、条約は破棄されました。独ソ不可侵条約の締結は、第二次世界大戦の流れを形作る上で重要な役割を果たし、戦争の複雑な外交関係を象徴する出来事となりました。

 

1939年9月1日 ポーランド占領/第二次世界大戦勃発

ソ連は、ドイツとともにポーランドを侵攻。この侵攻は、独ソ不可侵条約の秘密裏の付属議定書に基づいて行われ、ソ連はポーランドの東半分を占領した。これにより、ポーランドは事実上の消滅状態となり、国際社会に大きな衝撃を与えた。またイギリスフランスがドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が勃発した。第二次世界大戦は、ヨーロッパだけでなく、世界規模で展開される壮絶な紛争となり、多大な犠牲を伴うことになる。

 


ソ連軍の捕虜となるポーランド兵

 

この戦争は、国際関係の根本的な変化をもたらし、後の世界秩序の再編成に大きな影響を与えた。ソ連の役割は、戦争の流れにおいて重要であり、特に戦後の東ヨーロッパにおける政治的影響力の確立につながった。

 

1939年11月30日 冬戦争の勃発

レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)の安全保障を口実に、フィンランドに侵攻し冬戦争が開始される。しかしフィンランド軍の必死の抵抗にあい、征服を断念。40年のモスクワ講和条約で講和。フィンランドは独立は守ったものの、産業の中心地カレリアをソ連に奪われてしまった。

 


冬戦争中におけるフィンランド軍のスキー兵

 

1941年 独ソ戦の勃発

1941年の独ソ戦の勃発は、第二次世界大戦の中でも特に重要な転換点であった。この年、ナチス・ドイツはバルバロッサ作戦を発動し、ソビエト連邦に対する大規模な侵攻を開始した。この攻撃は、独ソ不可侵条約の明確な破棄を意味し、ソ連にとってはまさに裏切り行為であった。

 

ドイツの突然の侵攻は、ソ連に大きな損害を与え、多くの領土が占領された。しかし、ソ連はその後抵抗を続け、連合国側として第二次世界大戦に本格的に参戦。独ソ戦は、戦争の全体像を大きく変える要因となり、特にスターリングラードの戦いやクルスクの戦いなど、いくつかの決定的な戦闘が行われた。ソ連の参戦は、連合国側の勝利に大きく貢献し、戦争の結果と戦後の世界秩序に影響を与えた。

 


「モスクワの戦い」において歩兵をサポートするソ連機関銃士

 

1943年 「カティンの森事件」の発覚

1943年、第二次世界大戦中に「カティンの森事件」が発覚し、国際的な衝撃を与えた。この事件は、ソビエト連邦の秘密警察(NKVD)によって、ポーランドの軍人、将校、官僚など約22,000人が無裁判で銃殺されたとされるものである。

 

この虐殺は1940年春に行われ、犠牲者たちはソ連によって占領されたポーランド東部から連れ去られた人々だった。カティンの森事件は、ナチス・ドイツによって発見され公表されたが、ソビエト連邦は長い間、この事件の責任を否定し続けた。

 

この事件の発覚は、連合国の一員として戦っていたソ連と、ナチス・ドイツに抵抗していたポーランド亡命政府との間に深刻な緊張を生じさせた。また、カティンの森事件は、スターリン体制下での政治的弾圧と恐怖政治の象徴となり、冷戦時代における東西対立の要因の一つとなった。

 

この事件は、戦後の歴史認識においても重要な問題として残り、1990年代に入ってソビエト連邦の後継国であるロシアが正式に責任を認めるまで続きました。

 

1945年8月8日 日本に宣戦布告

1945年8月8日、ソビエト連邦はヤルタ会談での密約に基づき、日ソ中立条約(1941年締結)を一方的に破棄し、日本に宣戦布告した。この行動は、第二次世界大戦の最終段階における重要な転換点であり、戦争の結果に大きな影響を与えた。

 

ソビエトの宣戦布告は、アメリカによる広島と長崎への原子爆弾投下の直後に行われ、日本は国際的に孤立した状態に置かれていた。ソ連軍はすぐに千島列島、南樺太、そして満州に侵攻を開始し、日本軍に対して迅速に圧倒的な軍事行動を展開した。

 

このソ連の参戦は、日本の無条件降伏と第二次世界大戦の終結を加速させた。また、戦後の極東における地政学的な状況にも大きな影響を与え、特に千島列島と南樺太の帰属に関する問題は、後のソビエト連邦(及びロシア)と日本との間で長期にわたる外交問題となった。

 

1945年9月2日 第二次世界大戦終結/冷戦の開始

1945年9月2日の第二次世界大戦の終結は、ロシア史において極めて重要な出来事である。この年、ナチス・ドイツの無条件降伏(5月8日)に続き、日本も降伏し、長く続いた壮絶な戦争が終わった。戦勝国となったソビエト連邦は、敗戦国から多くの領土を獲得。これには、東ヨーロッパの諸国をソビエトの影響圏に組み込むことが含まれ、戦後のヨーロッパの地政学的な地図を大きく変えた。

 

冷戦時代の始まり

第二次世界大戦の結果は、戦後の世界秩序の形成に大きな影響を及ぼした。特に、ソビエト連邦とアメリカ合衆国をはじめとする西側諸国との間のイデオロギー的、政治的対立は、冷戦の時代へとつながった。冷戦は、約半世紀にわたる東西対立の時代であり、核戦争の危機、国際政治の分極化、そして多くの地域紛争を特徴としていた。

 

ソビエト連邦の戦勝は、その後の国際的な地位を強化し、世界的な超大国としての地位を確立した。しかし、同時にアメリカとの間の緊張関係が激化し、冷戦という新たな国際的な対立の時代が始まった。第二次世界大戦の終結は、20世紀の歴史において決定的な瞬間であり、その後の世界の進路に大きな影響を与えた。

 

20世紀後半

1962年 キューバ危機の発生

ソ連が、キューバに中距離ミサイル基地を建設したことに始まる、冷戦下における米ソの軍事的緊張を象徴する事件。核戦争に発展することも危惧されたが、交渉の末、ソ連がミサイル撤去を決定したことで事態は何とか収まった。この事件のあと両国は急速に歩み寄りを始め、その情勢緩和の様は「雪解け」と称された。

 

1979年アフガニスタン紛争(〜89年)

アフガニスタンが反共産武装勢力の手に落ちたことを受け、ソ連は共産主義政府の要請を受け軍事介入を開始。戦いは10年にもおよび、1万4000人以上のソ連兵が戦死した。

 


アフガニスタン紛争中、ソ連軍に捕獲されたムジャーヒディーン(聖戦士)

 

1980年 モスクワオリンピック開催

1980年のモスクワオリンピックは、冷戦時代の政治的緊張がスポーツの世界にまで及んだ例として記憶されている。このオリンピックはソビエト連邦で開催されたが、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、アメリカをはじめとする多くの西側諸国がボイコットを決定した。

 

ボイコットは、オリンピックの歴史における大規模な政治的行動の一つとされ、多くのアスリートが競技に参加する機会を失った。この出来事は、スポーツイベントが冷戦の政治的対立に翻弄されることを示す象徴的な例となった。

 

モスクワオリンピックのボイコットは、国際的なスポーツの場における政治的介入の危険性と、冷戦時代の東西対立の激しさを浮き彫りにしました。このオリンピックは、ソビエト連邦が国際的な舞台で威信を示そうとしたイベントでしたが、ボイコットによりその影響力は大きく損なわれました。この出来事は、冷戦時代の複雑な国際関係を反映しており、スポーツと政治がどのように相互に影響を与えるかを示す事例として、後の歴史の中で重要な位置を占めています。

 

1985年 ゴルバチョフの就任


ゴルバチョフ(左図人物)がソビエト連邦共産党の書記長に就任したことは、ソビエト連邦および世界史における重要な転換点であった。ゴルバチョフは、一党独裁の硬直した政治体制を立て直すための一連の改革に着手した。これらの改革はペレストロイカ(ロシア語で「建て直し」の意味)と呼ばれ、経済と政治の両面で実施された。経済面では、企業活動の自由化と市場原理の導入を試み、経済の効率化と活性化を目指し、政治面では、人民代議員大会の創設や、政治的な透明性を高めるグラスノスチ(ロシア語で「公開」の意味)政策を推進した。

 

ゴルバチョフの改革は、ソビエト連邦の政治体制と経済システムに大きな変化をもたらしましたが、これらの改革は、国内の政治的、経済的、社会的な不安定化をも引き起こし、結果としてソビエト連邦の崩壊へとつながることになりました。しかしゴルバチョフの時代は、冷戦の終結と世界の新たな秩序への移行期として、20世紀後半の歴史において非常に重要な役割を果たしたことは確かです。

 

1989年 東欧革命

1989年の東欧革命は、冷戦終結期の重要な出来事であり、ソビエト連邦の影響下にあった東ヨーロッパ諸国において起こった一連の民主化運動である。ソ連の衰退とミハイル・ゴルバチョフの改革政策により、これらの国々では一党独裁の共産主義政権が次々と打倒された。

 


▲崩壊する壁に喚起するベルリン市民

 

この革命は、ポーランド、ハンガリー、東ドイツ(ドイツ民主共和国)、チェコスロバキア、ブルガリア、ルーマニアなど、複数の国で非暴力的な抗議運動や政治変革が相次いで発生した。特に記憶に残るのは、ベルリンの壁の崩壊であり、これは東西ドイツの統一と冷戦終結の象徴となった。

 

東欧革命は、ソビエト連邦の支配体制の終焉と、東ヨーロッパにおける民主化と市場経済への移行を加速させました。これらの出来事は、冷戦時代のイデオロギー的な対立の終結を意味し、ヨーロッパおよび世界の歴史において重要な節目となり、ソビエト連邦自体の崩壊へとつながる道を開きました。東欧革命は、20世紀の歴史において、自由と民主主義の勝利の象徴として、広く記憶されています。

 

現代ロシア

現代ロシアの歴史は、政治的変革と国際舞台での再定義によって特徴づけられます。1991年のソビエト連邦の崩壊後、ロシア連邦はボリス・エリツィンの下で市場経済と民主化への移行を試みましたが、経済的不安定さと政治的混乱に直面しました。2000年、ウラジーミル・プーチンの大統領就任は、国内の安定化と強権的な政治スタイルをもたらし、経済面では、エネルギー資源の豊富さを活用し、国際的な影響力を拡大しましたが、政治的な自由や人権問題については国内外から批判も受けるようになりました。さらに2014年のクリミア併合や2022年ウクライナ侵攻は、西側諸国との関係を悪化させ、経済制裁を招くなど、現代ロシアは総じて、世界秩序の変動と地域的緊張の高まりに寄与しているといえます。

 

1991年 ソ連崩壊/ロシア連邦の成立

ソビエト社会主義共和国連邦を構成する各連邦共和国が主権国家として次々独立し、ソビエト連邦が崩壊。同年にソビエト社会主義共和国連邦の継承国としてロシア連邦が成立し、ボリス・エリツィンが初代大統領に就任した。ロシア連邦の成立は、ソビエト体制下での中央集権的、一党独裁の統治からの脱却を意味し、政治的、経済的、社会的な多大な変革を伴った。

 

2000年 ウラジーミル・プーチンの大統領就任

ウラジーミル・プーチン

 

2000年、ウラジーミル・プーチンのロシア連邦大統領への就任は、ロシアの近現代史における重要な出来事である。プーチンの就任は、ポストソビエト時代のロシアの新たな方向性を象徴し、国内外で大きな影響を与えた。

 

プーチンは、ボリス・エリツィンの後継者として、ロシアの政治的、経済的安定を目指し、国内の秩序と強権的な統治を重視した。彼の政策は、経済の近代化、国際的な影響力の拡大、そして国内のセキュリティと治安維持に焦点を当てられた。

 

また、プーチンの統治は、民主主義的な制度と人権に関する問題、特に言論の自由や政治的な多様性について、国内外から批判を受けることもあった。彼の就任以降、ロシアは国際政治においてより積極的な役割を果たし始め、特に西側諸国との関係においては緊張と協調の両面を見せた。

21世紀

2008年 メドベージェフの大統領就任

2008年、ドミトリー・メドベージェフのロシア連邦大統領への就任は、ロシア政治における注目すべき変化であった。ウラジーミル・プーチンの任期満了に伴い、メドベージェフはプーチンの支持を受けて大統領に選出された。

 

しかし、メドベージェフ大統領の任期中も、プーチンが首相として強い影響力を保持していたことが特徴的であり、この期間はしばしば「タンデム体制」と表現されます。

 

メドベージェフの政権は、ロシアの近代化と法の支配の強化を主張し、経済の多角化や技術革新に重点を置く政策を展開した。また、彼の政権下でロシアは、国際的な協力と外交関係の拡大を模索し、特に西側諸国との関係改善を試みた。

 

2012年 ウラジーミル・プーチンの大統領再就任

2012年、ウラジーミル・プーチンがロシア連邦大統領に再就任したことは、ロシアの現代政治における重要な出来事である。プーチンは2000年から2008年まで大統領を務めた後、首相として政治の舞台に留まっていたが、2012年の選挙に勝利し、再び大統領職に戻った。プーチンの再就任は、国内外で様々な反応を呼んだ。一部では、彼の強力なリーダーシップとロシアの国際的地位の強化を歓迎する声があった一方で、選挙の公正性、民主主義の進行度、政治的自由に関する懸念も表明された。

 

2014年 クリミア侵攻

2014年、ロシアによるクリミア半島への軍事介入とその後の併合は、現代国際政治における重要な出来事である。この行動は、ウクライナの政治危機と内戦の中で起こり、ロシアと西側諸国との間の緊張関係を一層高めた。

 

ロシアのクリミア侵攻は、ウクライナの親ロシア派政権が崩壊し、親西派の新政権が誕生した後に行われた。ロシアは、クリミアのロシア人コミュニティを保護するという名目で軍事行動を開始し、クリミア半島の実効支配を確立した。その後、クリミアでは住民投票が行われ、ロシアへの併合が決定されたが、この投票は国際的に広く非合法と見なされている。国際法と領土の不可侵の原則に対する挑戦として、西側諸国からは経済制裁が課された。

 

クリミアのロシアによる併合は、東欧および旧ソビエト圏における地政学的な均衡を変化させ、特にNATOや欧州連合(EU)との関係に影響を与えました。この事件は21世紀の国際関係において重要な転換点となり、東西の新たな対立軸を形成することとなったのです。

 

2022年 ウクライナ侵攻

2022年、ロシアによるウクライナ侵攻は、現代の国際政治における最も重要な出来事の一つとなった。この侵攻は、長い期間にわたる地政学的な緊張の高まりと、ウクライナ東部での分離主義者との紛争の背景の中で行われた。ロシアのウクライナへの軍事行動は、国際社会に衝撃を与え、多くの国々から強い非難を受けた。この侵攻は、ウクライナ国内での広範な破壊と人道的危機を引き起こし、数十万人の避難民を生み出した。

 

国際的には、この事件は東西間の新たな対立を引き起こし、NATOや欧州連合(EU)などの西側諸国はロシアに対して経済制裁を加えた。この侵攻は、国際法および国際秩序に対する深刻な挑戦と見なされ、21世紀の国際関係の方向性に影響を与える重要な要因となっている。

 

ロシア史まとめ

以上が、古代から現代までのロシアの歴史年表になります。

 

古代の東スラブ人の土地から始まり、9世紀のキエフ大公国の成立を経て、モンゴル帝国の支配を受けた後、モスクワ大公国が台頭。15世紀末にはモスクワ大公イヴァン3世がモンゴルのくびきを脱し、ロシア国家が形成されました。そして17世紀にはロマノフ朝が始まり、18世紀にピョートル大帝による近代化が進みました。

 

19世紀はナポレオン戦争の勝利と帝政ロシアの拡大を見ましたが、1917年の革命でツァーリ政は終わり、ソビエト連邦が成立しました。冷戦時代を経て、1991年にソ連は崩壊し、ロシア連邦が成立。21世紀にはプーチン政権下で国際的な影響力を増し、2022年にはウクライナに侵攻し、新たな地政学的緊張を生み出しています。

 

この長い歴史を通じて、ロシアは多様な文化的・政治的変遷を経験し、世界史において良くも悪くも重要な役割を果たしてきたのです。