
ロシアの国旗
ロシアの領土
ロシア(正式名称:ロシア連邦)、ユーラシア大陸北部に位置する連邦制国家です。一つの主権下に複数の構成主体(46州、22共和国、9地方、4自治管区、3市、1自治州)が結合している「連邦国」で、その国土面積は世界最大を誇ります。
ロシアの国が他と突出して広大な土地を領有するにいたったのは、現ロシアの基礎となったモスクワ大公国(13世紀成立)が、周辺の公国を次々と併合し、18世紀にはその支配がシベリアにまでおよぶ広大な帝国を築いたことに起源を持ちます。そうして成立したロシア帝国は戦争により勢力を拡大していき、イギリスやフランス、ドイツにオーストリア、オスマン帝国といったヨーロッパ列強と覇を争ったわけですが、20世紀初頭にはロシア革命が勃発し、内側から崩壊に追い込まれてしまいます。その後帝政に代わる社会主義国家ソビエト連邦が成立し、旧帝国領をそのまま引き継ぎました。20世紀末に社会主義の行き詰まりからソ連は崩壊しますが、ロシア連邦として再構成が行なわれ、現在にいたるまで広大な領土を保持し続けているのです。ここではそんなロシアの歩みを、もう少し詳しく年表でみていきましょう。
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東スラヴ系ルス族のリューリク(左図人物)が、ボルホフ川の両岸にまたがる場所に「最初のロシア国家」とされるノヴゴロドを建設する。バルト海・ビザンツ帝国・中央アジアを結ぶ交易の要所として栄えた。
ノヴゴロドの位置
リューリクが支配を広げた地域には様々な公国が誕生しました。それらをまとめて、彼の属する部族「ルス」の名にちなみ「ルーシ」と呼ばれるようになり、ロシア(Russia)という国名の語源となりました。
リューリクの子イーゴリ(左図人物)がキエフ(現ウクライナの首都)を征服する。リューリクの死後は、ノブゴロドに代わりキエフがルーシの盟主的存在となる。
10世紀末にキエフ大公ウラジミール1世がキリスト教に改宗し、ルーシで正教会が広く信仰されるようになる。
▲洗礼を受けるウラジミール1世/ヴィクトル・ヴァスネツォフ画
11世紀頃からキエフ・ルーシの分裂が始まり、政治的統一が揺らいでいった。
ルーシの中心がキエフに移ったあとも、ノブゴロドは商業・工業を軸に成長を続け、キエフから独立した自由都市に昇格した。
キエフ大公が息子にウラジーミル・スーズダリ公(現モスクワ、スーズダリを含む地域の支配者)の地位を与え、 ウラジーミル・スーズダリ大公国が成立した。
ノブゴロドで暴動が発生し、ノブゴロド公が追放される。以降のノブゴロドは民会(ベーチェ)による意思決定が強い民主的な体制に移行したので、ノブゴロド共和国と呼ばれる。この体制の転換は「12世紀のノヴゴロドの革命」とも呼ばれる。
現在の西ウクライナを中心とした地域に、リューリク朝のルーシ系国家ハールィチ・ヴォルィーニ大公国が成立する。ルーシ系国家では最も大きい公国となった。
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13世紀になると、中央アジアを征服したモンゴル帝国が、ルーシに侵攻を繰り返すようになる。モンゴルはやがてルーシの大半を征服し、「タタールのくびき」と呼ばれるモンゴルによるルーシ統治時代が始まった。
バトゥの西方遠征からモンゴルによるルーシ侵攻がスタートした。ルーシ軍はモンゴル帝国軍の進撃を止められず主要都市を次々占領されていく。40年のキエフの戦いにおいても敗れてしまい、国の心臓部キエフを征服されてしまった。
▲モンゴル帝国軍によるスーズダリ侵攻
ルーシが北方十字軍・東方植民の侵攻を受けるも押し返す。
ルーシ全土がモンゴル帝国に征服され、モンゴルの衛星国ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)による間接支配「タタールのくびき」が開始される。「タタールのくびき」とはジョチ・ウルスによる首かせをはめるようなルーシ支配のやり方に由来する。
ノブゴロド公の息子が、現ロシアの首都モスクワを支配するようになりモスクワ公国が成立した。しだいにルーシで有力になり始め大公国となり、当時ルーシを支配下においていたキプチャクハン国を圧迫するようになる。
14世紀初頭にイヴァン1世(左図人物)の治世のもと、キエフに代わり、モスクワ大公国がルーシにおける宗教的・政治的中心地となった。14世紀末にはさらに力をつけたモスクワ大公国が、モンゴルに対し反乱を起こし「くびき」からの解放を図るも鎮圧される。
イヴァン1世がモスクワ大公に即位。表向きはキプチャク・ハン国に臣従しつつその力を利用し、周辺の公国を併合するなど勢力を拡大していった。
ドン川流域のクリコヴォ平原にて、モスクワ大公国とジョチ・ウルスの軍が戦った。結果はモスクワ大公国の勝利となり、モンゴル帝国の無敗伝説を打ち砕き、「タタールのくびき」解放に向けた大きな一歩となった。
▲クリコヴォの戦いを描いた民衆版画(ルボーク)
モスクワ占領を目論むモンゴル帝国軍と、モスクワ軍が衝突。結果はモンゴル帝国の勝利となり、敗れたモスクワ大公国は、まだこの国がジョチ・ウルスの支配下にある事実を突きつけられることとなった。
▲モスクワを包囲するトクタミシュ率いるモンゴル軍
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オスマン帝国により東ローマ帝国が滅ぼされる。このことによりモスクワ大公国は東ローマ帝国に代わり、「第三のローマ」「正教会の擁護者」として意識を高めていくようになる。
▲コンスタンティノープルを包囲するメフメト2世率いるオスマン軍
モスクワ大公イヴァン3世(左図人物)がジョチ・ウルスからの独立を宣言し貢納を停止。さらにノヴゴロド公国を併合し、ルーシ北部を統一した。その後ウグラ川のほとりにて、モスクワ大公国軍とモンゴル帝国軍の最後の戦いが行われた。結果はモスクワ大公国の勝利となり、モンゴルのルーシ支配「タタールのくびき」の終焉を決定づけた。
▲ウグラ川で対峙するモンゴル軍とモスクワ軍/ロシア年代記の挿絵より
16世紀半ばにロシアは、1552年にカザン・ハン国、1556年にアストラハン・ハン国を滅ぼすなど、ジョチ・ウルスの領土を奪いとるほど勢力を拡大していた。
モスクワ大公の雷帝イヴァン4世(左図人物)が、故ローマ帝国の称号カエサルに由来するツァーリ(「皇帝」という意味)の称号を使用し、ロシア・ツァーリ国が成立する。
中世リヴォニア(現エストニア・ラトビアなどがある地域)にて、ポーランド、スウェーデンとバルト地方の覇権をめぐり争ったが敗北。ロシアは現ベラルーシをはじめヨーロッパにおける勢力圏を大幅に喪失する。
▲都市ナルヴァを包囲するロシア軍/ボリス・チョリコフ画
イワン4世(雷帝) によりノブゴロド市民が大量に虐殺される事件が発生。この後のノヴゴロド衰退の原因となった。
イワン4世の子フョードル1世の死により、9世紀から続くリューリク朝が断絶した。以後ロシアは15年にわたり、王朝不在の動乱時代を迎えることとなる。
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「動乱時代」と呼ばれる無政府状態にあったモスクワに、ポーランド・リトアニア共和国が介入し「ロシア・ポーランド戦争」が開始される。最終的にロシアが敗れ、モスクワをポーランド軍に占領された。
▲至聖三者聖セルギイ大修道院を包囲するポーランド軍/セルゲイ・ミロラドヴィッチ画
クジマ・ミーニンを中心にモスクワ解放を目指す国民軍が結成され、激戦の末ポーランド軍を追放することに成功。モスクワが解放された。
モスクワ解放後、ロマノフ家のミハイル・ロマノフがツァーリ継承者に指定され、ロマノフ朝が成立した。
バルト帝国を体現していたスウェーデンと大北方戦争を争い勝利。バルト海沿岸を獲得し、そこにサンクトペテルブルクが建設される。1917年までロシアの帝都として機能していた。
▲大北方戦争においてロシア優位へのターニングポイントとなった「ポルタヴァの戦い」
エカチェリーナ2世(左図人物)が女帝となり、自由主義促進や教育・医療施設の建設といった啓蒙思想に基づいた近代化政策が行なわれた。
コサック出身のプガチョフが農奴解放、地主打倒を唱えて蜂起を起こした。最終的に政府軍に鎮圧され、首謀者のプガチョフは処刑された。エカチェリーナ2世はこの反乱を機に、反動的な姿勢を強めていった。
▲プガチョフの宮廷に連行される貴族
日本の船頭大黒屋光太夫(左図人物)が嵐により漂流。アリューシャン列島のアムチトカ島(当時ロシア領、現アメリカ領)に漂着し、ロシア人の保護をうける。
ロシアの軍人アダム・ラクスマン(左図人物)が、エカチェリーナ2世の命をうけ、ロシアに漂流していた大黒屋光太夫を伴い来日。ラクスマンはロシアで最初の遣日使節となり、日本に通商を要求した。
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ヨーロッパ征服に乗り出したフランスのナポレオン軍と、対仏大同盟諸国の戦争ナポレオン戦争が開始される。ロシアは第三次、第四次、第六次、第七次の対仏大同盟に参加し、フランスと戦った。
ナポレオン戦争の最中、フランス軍の侵攻をうける。一時フランス軍にモスクワを制圧されるも、冬になると極寒により兵站がままならなくなり退却していった。
▲モスクワから撤退するナポレオン/アドルフ・ノーザン画
首都ペテルブルクで「デカブリストの乱」の発生。西欧思想に感化された青年将校(デカブリスト)が、ツァーリ(皇帝)の専制政治に抗する反乱を起こした。最終的に鎮圧され失敗に終わったが、ロシア史上初めて帝政打倒と農奴解放を目的に起こされた闘争となり、その後のロシアにおける革命運動に大きな影響を与えた。
▲ピエトロ広場のデカブリスト
ロシアは南下政策の一環として、聖地エルサレムをオスマン帝国から奪おうとし、クリミア半島を主戦場とした戦争に発展した。結果はロシアの勢力拡大を恐れたフランス、イギリス、イタリアなどの介入もあり、ロシアの敗北となった。
▲クリミア戦争においてロシア黒海艦隊が無力化される結果となったセヴァストーポリ包囲戦
ロシア皇帝アレクサンドル2世(左図人物)により、農奴制廃止のための法律が定められる。ただし土地を自分で買わなければならなくなるなど、農民にとって必ずしもいいものではなかった。一方でクリミア戦争の敗北にてその後進性が露呈したロシアが、これをきっかけに近代化に向けて歩みだすという意味で重要な出来事でもあった。
南下政策の中で、満州・支配権をめぐり日露戦争が勃発。中国大陸が戦場とされた。両国ともに経済的・内政的問題で戦争の継続に限界を感じ、アメリカを介したポーツマス条約の締結で講和。
▲日露戦争の口火を切った仁川沖海戦
労働者による平和的な請願行進に軍隊が発砲する事件(「血の日曜日事件」)が発生。この事件がきっかけで反政府運動に火が付きロシア第1革命が起こる
サラエボ事件に端を発し第一次世界大戦が勃発。ロシアは連合国側について参戦するも戦果は得られず、長引く戦争による不況で国民の不満が高まった。
▲ロシア潰走のきっかけとなったゴルリッツ=タルヌフ攻勢の後捕虜となるロシア兵
労働者による大規模なストライキ(2月革命)の発生。大量の兵士が革命側に合流したことで制御が利かなくなり、ニコライ2世が退位に追い込まれる。ここに304年続いたロマノフ朝が終焉した。また労働者・農民・兵士からなる新政府ソビエトが設立され、世界初の社会主義国家ソビエト共和国が成立した。
十月革命を皮切りとして、革命派の赤軍と反革命派の白軍による内戦が勃発(ロシア内戦)。その結果赤軍が勝利し、旧ロシア帝国領の支配を確立。ソビエト共和国を盟主とするソビエト連邦が成立した。
レーニンの死後ヨシフ・スターリン(左図人物)が政権を握る。彼は最高指導者の座に就くと党の権力を自分に一極集中させ、独裁政治体制を築き上げた。
スターリン主導のもと急速な農業集団化を行なったことで、ウクライナを中心に大飢饉(ホロドモール)が発生。強制移住により家畜や農地を奪われたウクライナ人が大勢犠牲になった。
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18年制定のレーニン憲法を改正したスターリン憲法が制定された。スターリンが直接作成に携わったためこのように呼ばれる。企業の国有化、コルホーズなど社会主義の原則を定めた。
モスクワにてそれまで水と油とされたナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を結ぶ。
ソ連は、ドイツとともにポーランドを侵攻。ポーランドの東半分を占領した。またイギリス、フランスがドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が勃発した。
▲ソ連軍の捕虜となるポーランド兵
レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)の安全保障を口実に、フィンランドに侵攻し冬戦争が開始される。しかしフィンランド軍の必死の抵抗にあい、征服を断念。40年のモスクワ講和条約で講和。フィンランドは独立は守ったものの、産業の中心地カレリアをソ連に奪われてしまった。
▲冬戦争中におけるフィンランド軍のスキー兵
ドイツがバルバロッサ作戦を発動し、独ソ戦が勃発。ドイツの裏切り(独ソ不可侵条約の破棄)を受け、連合国側として第二次世界大戦に参戦した。
▲「モスクワの戦い」において歩兵をサポートするソ連機関銃士
ソビエト社会主義共和国連邦の秘密警察(NKVD)が、ポーランドの軍人・将校・官僚などを無裁判で銃殺したとされる「カティンの森事件」の発覚
ヤルタ会談における密約に基づき、日ソ中立条約(41年締結)を破棄し日本に宣戦布告。千島列島、南樺太、満州に侵攻した。
ドイツ、日本が降伏し第二次世界大戦が終結。戦勝国となったソ連は敗戦国から多くの領土を獲得。戦後、アメリカ合衆国をはじめとする西側諸国との対立が激化し、冷戦の時代に突入した。
ソ連が、キューバに中距離ミサイル基地を建設したことに始まる、冷戦下における米ソの軍事的緊張を象徴する事件。核戦争に発展することも危惧されたが、交渉の末、ソ連がミサイル撤去を決定したことで事態は何とか収まった。この事件のあと両国は急速に歩み寄りを始め、その情勢緩和の様は「雪解け」と称された。
アフガニスタンが反共産武装勢力の手に落ちたことを受け、ソ連は共産主義政府の要請を受け軍事介入を開始。戦いは10年にもおよび、1万4000人以上のソ連兵が戦死した。
▲アフガニスタン紛争中、ソ連軍に捕獲されたムジャーヒディーン(聖戦士)
モスクワオリンピックが開催されるも、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議し、アメリカなど西側諸国がボイコットした。
ゴルバチョフ(左図人物)が書記長に就任し、一党独裁の硬直した政治体制を立て直すべく、企業活動の自由化、人民代議員大会の創設など改革=ペレストロイカ(ロシア語で「建て直し」の意味)に着手する。
戦後一貫してソ連の影響かにあった東ヨーロッパ諸国にて、ソ連が衰退しその力を弱めたために、民主化革命が吹き荒れ、次々と一党独裁の共産主義政権が打倒された(東欧革命)。
ソビエト社会主義共和国連邦を構成する各連邦共和国が主権国家として次々独立し、ソビエト連邦が崩壊。同年にソビエト社会主義共和国連邦の継承国としてロシア連邦が成立した。
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