アレクサンドル1世の基本情報
本名:アレクサンドル・パヴロヴィチ
誕生:1777年サンクトペテルブルクにて
死没:1825年タガンログにて
王朝:ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝
在位:1801年3月23日 - 1825年
政策:ウィーン会議で神聖同盟を提唱
アレクサンドル1世(1777年〜1825年)はロシア皇帝で、ナポレオン戦争期にナポレオンのロシア侵略を食い止め、戦後のウィーン体制をリードした人物として知られます。即位後は啓蒙専制君主の代表として有名な祖母エカチェリーナ2世の影響で自由主義的改革を推し進めましたが、ナポレオン戦争の勃発により中止を余儀なくされます。
戦後のウィーン会議においては、モスクワ遠征阻止でナポレオン失脚のきっかけを作ったことで大きな発言力を得て、ウィーン会議をリード。そしてウィーン体制下では神聖同盟の盟主として、一転自由主義者を抑圧するようになってしまったのです。
アレクサンドル1世は即位後、三権分立などが導入された自由主義社会を目指し、(ナポレオン戦争後に反動化するまでは)進歩的政策を推し進めていました。少なくともナポレオン戦争が終わる直前までは自由主義志向は残っており、それは1815年ポーランド王国憲法を承認したことからも見て取れます。
ナポレオン戦争末期、ロシアはナポレオン軍の侵略を受け、一時はモスクワを占拠されました。しかしナポレオン軍が冬の寒さと食料不足に苦しむようになると反攻を開始し、1813年ライプツィヒの戦いでナポレオン軍を撃破。ロシアを危機から救い、ナポレオン失脚のきっかけを作ったのです。
天敵ナポレオンはアレクサンドル1世の知性や能力を高く評価し、「北方のタルマ」「ビザンツ時代のギリシャ人」などと呼んでいました。
アレクサンドル1世はナポレオン戦争後、当時ほとんどが教会スラブ語で書かれていた聖書のロシア語訳を進め、その普及に尽力しました。
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