ポーランド・リトアニア共和国

ポーランド・リトアニア共和国は、ルブリン合同により成立した、ポーランド王国とリトアニア大公国で成る複合君主制国家です。1569年から1795年まで存在。ヨーロッパ〜アジアを繋ぐ貿易路として栄え、全盛期にはヨーロッパで1,2を争う強国として強い国際的影響力を持っていました。しかし17世紀中頃から衰退が始まり、最終的には周囲の大国(ロシア・プロイセン・オーストリア)により領土を奪いつくされ滅亡しています。

 

 

ポーランド・リトアニア共和国の社会

正式名称は「ポーランド王国およびリトアニア大公国」。公用語はポーランド語で、農業主体の経済構造をとっていました。

 

共和国の政治

政治体制は、貴族を中心とする立法府が王権を厳しく制限する「貴族共和政」を採用。18世紀以後のイギリス政治の特徴である「国王は君臨すれども統治せず」に限りなく近いものがあり、まだまだ絶対王政が支配的だった当時にして、これほど民主的な政治体制を敷いていた国はありません。

 

共和国の憲法

さらに1791年(国崩壊の直前)には「5月3日憲法」と呼ばれる、「主権は国民にあり、国王は国民の支配者ではなく、あくまで国民が支配する国家に対し最大限の責任を負う」と規定するヨーロッパ初の民主主義成文憲法を定めるなど、ポーランドはどこよりも早く近代市民社会を実現していたというのも重要です。

 

ポーランド・リトアニア共和国の歴史

共和国の成立

1569年、「ルブリン合同」により実質的に「ポーランドがリトアニアを併合する」形で成立しました。16世紀末には北欧にまで支配を広げ最大版図を実現、17世紀に全盛期を迎えています。そして17世紀ヨーロッパ最大の脅威といえば、イスラム圏を統一し東方からヨーロッパ世界への侵食を始めていたオスマン帝国でしたが、ポーランドは第二次ウィーン包囲(1683年)で、迫るオスマン帝国の軍勢を打ち破っています。この功績により、ポーランドは「キリスト教世界の守護者」として、その名声を最高のものにしたのです。

 

17世紀に全盛を迎えられた理由
17世紀前半といえば、ヨーロッパ全土を巻き込んだ宗教戦争「三十年戦争(1618〜1648年)」が勃発した時代ですが、ポーランドは宗教寛容の方針をとる希有な国家だったのでこれに参加していません。他の国が戦争に傾倒する中で、自国の発展に注力できたのはかなり大きいといえるでしょう。

 

共和国の滅亡

ポーランドはキリスト教世界の防波堤として重要な位置にいたからこそ、やがては防衛費の増大が財政を圧迫するようになります。そのせいで17世紀中頃から衰退が始まりますが、再建のための改革はロシアなど周辺国が徹底して妨害しました。弱小国のまま緩衝地帯でいてくれたほうが何かと都合がよかったからです。そうして18世紀には大国としての地位を失い、代わりに台頭してきたロシア・プロイセン・オーストリアなどに国土が奪いつくされれるハメとなり(ポーランド分割)、1795年、ついにその存在自体が地図上から消滅してしまうのです。

 

 
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