マルクス・アウレリウス・アントニヌスとは何をした人?~哲人皇帝~

マルクス・アウレリウス・アントニヌスとは

マルクス・アウレリウス・アントニヌスはストア哲学を信奉し、「自省録」を著した哲人皇帝である。北方や東方での戦争を指揮しつつ、知性と責任感を持った統治を行ったことで知られる。本ページでは、このあたりのバックグラウンドと後世への影響について詳しく掘り下げていく。

アウレリウスとは何をした人?~哲人皇帝~

『マルクス・アウレリウスの最後の言葉』/ウジェーヌ・ドラクロワ画


アウレリウスの基本情報

 

本名:マルクス・アウレリウス・アントニヌス
肩書:五賢帝
渾名:「哲人皇帝」
誕生:121年ローマ
死没:180年ウィンドボナ
在位:161年 - 180年
王朝:ネルウァ=アントニヌス朝
先代:アントニヌス・ピウス
次代:コモドゥス
著書:『自省録』
政策:法制度改革、貧民救済策、孤児の保護、要職の刷新など


アウレリウス帝は、第16代ローマ皇帝で、最後の五賢帝として知られる人物です。スペインの名家出身で、138年にアントニヌス・ピウスの養子となり、帝位継承権を獲得。161年に即位しました。家庭教師フロントのもと哲学や法律を学び、ストア哲学に傾倒したため「哲人皇帝」とも呼ばれています。自ら学問所『自省録』を著すほどに、軍事より学問を好んだ「学究肌」な人物でした。
治世では豊富な法知識に基づいた法制度改革、貧民救済策、孤児の保護、要職の刷新など善政を行い、貴族らしからぬ庶民的な皇帝として人気を集めました。一方対外的には東のパルティア人、北のゲルマン人の侵入への対処に追われ、蛮族との戦争長期化は国庫を圧迫しています。また彼は実子のコモドゥスを継承者に指名したため、優秀な者を養子にし、帝位を継がせるという伝統が終わり、ローマ帝国は世襲制に移行していきます。コモドゥス帝の治世からローマ帝国は下降線を辿っていくのです。


アウレリウスの『自省録』の内容

哲学の知識に長けた哲学者でもあったアウレリウスは『自省録』という今日でも読まれる有名な著作を残しています。『自省録』はアウレリウスが自身の内面に語りかける戒める内容で、主に以下のようなことが綴られています。


  • 父の思い出と死後に聞かされた話で「謙虚と剛毅さ」の学びを得たこと。
  • ストア哲学の禁欲主義を志向しながら、しばしば宮殿の退廃的生活に飲まれてしまったことへの反省。
  • 自身の即位を策謀したハドリアヌス帝への辛辣な評価。