物々交換や贈りもの、接触と交易が下地となり、やがて蛮族侵入と呼ばれた事態(4世紀以降のゲルマン民族大移動)から、そこに敵対や暴力はあったにせよ、文化の大規模な混交が生じるのである。
ジャック・ル=ゴラ著『ヨーロッパは中世に誕生したのか?』p56より
ヨーロッパ史における民族大移動時代とは、4世紀末から6世紀末までおよそ200年続いた、ヨーロッパにおけるゲルマン民族の大規模移住のことです。英語では「ゲルマン人の侵入」(German invasions)「蛮族の侵入」(Barbarian invasions)などとも呼ばれ、この社会現象が招いた「西ローマ帝国の滅亡」は、ヨーロッパが「古代」から「中世」へと移る画期とされています。
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大規模移住の誘因となったのは、中央アジアの遊牧騎馬民族フン人の圧力によるものといわれていますが、実際には人口増加による土地不足、気候変動など複数の要因が重なった結果だと考えられています。
375年、黒海北岸・ドナウ川以北のゲルマニア・ライン川以東などで暮らすゲルマン系の民族集団が、ローマ帝国領内に侵入を開始し、防衛に予算を圧迫されたローマはしだいに衰退していきます。そして476年にはゲルマン人の傭兵隊長オドアケルにより、西方正帝が廃止されたことで、西ローマ帝国の存在はヨーロッパの地から姿を消してしまいました。
オドアケルに帝冠を差し出す西ローマ皇帝
ゲルマン人の大移動は、ヨーロッパの民族分布を激しく変動させ、この地が現在のような多様性に満ちた世界に変貌しいくきっかけとなりました。
ゲルマン民族の流入で、ローマ文化とゲルマン文化の融合が起こり、ゲルマン文化が、ギリシア文明・ローマ文明・キリスト教に並び、ヨーロッパ世界を構成する重要な要素の一つとなります。
西ローマ帝国領内に移住・定住したゲルマン部族は、各地に王国を建設しました。しかしほとんどのゲルマン国家は、東ローマ帝国、イスラーム勢力、フランク王国など大国に征服され中世のうちに滅亡しています。
ゲルマン王国一覧
西ゴート王国
西ゴート人はもともと黒海沿岸に住んでいましたが、フン族の圧力を受け、ローマ帝国領内に侵入しました。408年、ローマを占領し略奪。その後、イベリア半島に移住し、418年に西ゴート王国を建国。711年、ウマイヤ朝イスラム勢力により滅ぼされました。
東ゴート王国
東ゴート人も西ゴート人同様、フン族の圧力を受けて移動を開始。493年にイタリアに移住し、東ゴート王国を建国。東ゴート王テオドリック大王は、ローマの伝統を尊重しつつ、統治を行いました。しかし、553年に東ローマ帝国のユスティニアヌス1世による再征服で滅ぼされました。
ブルグンド王国
ブルグンド人はもともとスカンジナビア半島出身で、ライン川沿いに定住。ローマ帝国の崩壊後、現在のフランス東部とスイス西部にブルグンド王国を建国。しかし、534年にフランク王国に征服されました。
フランク王国
フランク人はライン川下流域に住んでいましたが、ローマ帝国の崩壊後、現在のフランス北部とベルギーに移住。クローヴィス1世の下で統一され、フランク王国を建国。フランク王国は、その後カール大帝の時代に西ヨーロッパ全域に広がる大帝国へと成長しました。
七王国
アングロサクソン人は、ゲルマン民族の一派で、イギリスの東海岸に移住し、七つの王国(ノーサンブリア、マーシア、イーストアングリア、エセックス、ケント、サセックス、ウェセックス)を建国しました。これらの王国はやがて統一され、イングランド王国が成立しました。
上記のゲルマン王国のうち、ローマの精神を継承したフランク王国が、8世紀末、現在のフランス・ドイツ・イタリア北部にまたがる大帝国を築き上げました。このことでヨーロッパ史の中心舞台が地中海沿岸から、ヨーロッパ西部に移行したことは非常に重要です。
西ヨーロッパの基礎を築いたフランク王国の最大版図
「大移動」の前、黒海北岸・ドナウ川以北のゲルマニア・ライン川以東などに暮らしていたゲルマン人は、もともとは北欧に原住地を持っていました。ローマ帝国の成立期から徐々に移住を始め、この地に定住するようになっていたのです。
北欧に腰を据えていた「北ゲルマン民族(ノルマン人、ヴァイキング)」は、9世紀頃から、海を渡り西ヨーロッパや東ヨーロッパに移住を始めるようになり、ブリテン島やノルマンディー、シチリア島などに国家を建設したり、傭兵や商人として活躍したりしました。
北ゲルマン人の植民活動は11世紀まで続き、これを第二次ゲルマン人大移動といいます。
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