19世紀末の「アフリカ分割」は、ヨーロッパ列強によるアフリカ大陸の領有競争が高まる中で生じました。その結果、アフリカのほとんど全ての国がヨーロッパ列強によって占領され、植民地化されましたが、エチオピアとリベリアの2国は他のアフリカ諸国とは違い、ヨーロッパの支配から免れることができました。それはなぜだったのでしょうか。
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エチオピアは、東アフリカに位置する内陸国です。人類の発祥地として知られ、豊かな歴史と文化を持ちます。首都はアディスアベバ。様々な民族と言語が存在し、古くから独自のキリスト教伝統を持ち、独自の文字体系(ゲエズ文字)、暦を使用しています。経済は農業中心で、コーヒーが主要な輸出品ですが、政治的不安定さや干ばつによる食糧不足が問題となっています。また、ジョギング発祥の地でもあり、長距離ランナーを多く輩出していることでも知られますね。
リベリアは西アフリカに位置し、1847年にアメリカから帰国した解放奴隷によって設立された、アフリカで最初の独立共和国の一つです。首都はモンロビア。産業は鉱業、特に鉄鉱石やゴムの生産がさかんで、その他自然資源にも恵まれていますが、1990年代から2000年代にかけての内戦の影響で、経済的には後れを取っています。多様な民族が存在し、英語が公用語として使用されるなど、複雑な歴史と豊かな文化、自然環境を持つ国として知られます。
エチオピアとリベリアがアフリカ分割から逃れることができたのは、両国が特異な歴史的、地理的、政治的状況に置かれていたためです。それぞれの国の事情を詳しく見てみましょう。
エチオピアは、1889年から1913年にかけて皇帝を務めたメネリク2世の下で、強力な軍事力を保持していました。彼は、アドワの戦い(1896年)でイタリア軍を撃破し、この勝利がエチオピアの独立を守る決定的な要因となりました。この戦いは、植民地支配に対するアフリカ側の大規模な勝利として歴史的に重要です。
メネリク2世はヨーロッパ諸国との外交関係を巧みに利用し、エチオピアを公式に独立国として認めさせました。彼は、列強の競争を利用して自国の利益を最大化することに成功し、軍事力の近代化にも取り組みました。
エチオピアの険しい地形は、外部からの侵略を困難にしました。特に山岳地帯に位置するエチオピアは、自然の要塞としての役割を果たし、侵略者を撃退する助けとなっていたのです。
リベリアは、1820年代にアメリカ植民地協会(American Colonization Society)によって建設され、解放奴隷の移住地として設立されました。1847年には独立国となり、アメリカ合衆国との密接な関係が維持されました。この特別な歴史的経緯により、ヨーロッパ諸国はリベリアに対する植民地支配を躊躇したのです。
リベリアはアフリカにおける独立国としての地位を早期に確立し、国際社会においてその独立が認められていました。そのため、他のアフリカ諸国とは異なり、植民地化の対象とはなりませんでした。
エチオピアとリベリアがアフリカ分割から免れたのは、それぞれの独特な歴史的経緯と外交的な地位によるところが大きいです。エチオピアは強力な君主制と軍事的な成功によって、リベリアはアメリカによる保護という特殊な地位によって、ヨーロッパ列強の植民地支配を避けることができました。他のアフリカ諸国とは異なる状況にあったため、アフリカ分割の波から逃れることができたのですね。
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