エチオピアとリベリアが「アフリカ分割」の対象外だったのはなぜか

エチオピア・リベリアが植民地にならなかった理由

エチオピアはアドワの戦いでイタリア軍を破るなど武力で独立を守り、リベリアはアメリカの支援を受けて建国された経緯から欧米列強の直接支配を免れた。両国とも特異な国際的立場にあったのである。本ページでは、このあたりの事情や背景について詳しく掘り下げていく。

なぜ?エチオピアとリベリアが「アフリカ分割」から逃れ独立を貫けたワケ


「アフリカの地図」を見ると、そこにはヨーロッパ列強が引いたまっすぐな国境線がズラリと並びます。これは19世紀末の「アフリカ分割」によって形成されたもの。しかしそんな中、例外的に独立を維持していた国がふたつだけ存在します。それがエチオピアリベリア。なぜこの2か国だけが植民地化を免れたのか──そしてその“例外”がどんな影響を残したのか、じっくり解き明かしていきましょう。



エチオピアの理由

エチオピアの場所


アフリカ分割の波を跳ね返した稀有な王国、それがエチオピアです。彼らの独立維持は、まさに“自力で勝ち取った”ものでした。


アドワの戦いでイタリア軍を撃破

1896年、イタリアはエチオピアを保護国化しようとして軍を進めましたが、皇帝メネリク2世率いるエチオピア軍が迎え撃ち、アドワの戦いで圧勝します。これはアフリカの軍がヨーロッパ列強の正規軍に勝利した初の事例であり、列強側に大きな衝撃を与えました。


アドワの戦いでのダボルミーダ将軍の最後の呼号

アドワの戦い・ダボルミーダ将軍の最後
イタリア側はダボルミーダ将軍が右翼を指揮したが、エチオピア軍に包囲され戦死し、作戦の混乱を招いた。

出典:The Graphic / Public Domain Mark 1.0より


中央集権と近代化の努力

メネリク2世は単に軍事だけでなく、電信・鉄道・軍備の西欧化を進め、諸外国との外交関係も強化。こうした近代国家としての努力が、ヨーロッパからも“独立国”として認識される要因となったのです。


メネリク2世とアドワの戦いの挿絵(Le Petit Journal紙面より)

アドワの戦いにおけるメネリク2世
メネリク2世は、アドワの戦いでエチオピア軍を率いてイタリアを破り、アフリカで植民地化を退けた稀有な皇帝。

出典:古フランス紙『ル・プティ・ジャーナル』 / Public Domain Mark 1.0(パブリックドメイン)より


リベリアの理由

リベリアの場所


一方でリベリアは、軍事力ではなく「特殊な成り立ち」によって、アフリカ分割を逃れることとなります。


アメリカ由来の建国経緯

リベリアは19世紀初頭、アメリカから解放奴隷が移住して築いた国家です。アメリカ植民協会の支援を受け、1847年にはリベリア共和国として独立を宣言。首都モンロビアの名も、アメリカ大統領ジェームズ・モンローに由来しています。


リベリア国旗

リベリア国旗
アメリカに似たデザインで、解放奴隷がアフリカに建てた共和国としての出自を象徴している。

出典:Government of Liberia / Public domainより


列強が“触れにくい”存在だった

このアメリカとの関係性が強固だったため、ヨーロッパ諸国としては下手に手を出せない“保護領的な存在”と見なされていたのです。とくに、英仏独などが火種を避けたがったアメリカの影響力が、間接的にリベリアの独立を守っていたともいえます。


分割を回避できた事の影響

では、エチオピアとリベリアが独立を守れたことは、後の時代にどんな意味をもたらしたのでしょうか?


「アフリカ人による国家」の象徴

アフリカのほぼすべての地域が植民地化された中で、この2か国は自主的な政府を持ち、国際的にも認められたという事実が、アフリカ全体の誇りとなりました。とくに20世紀以降のパン・アフリカ主義や独立運動において、両国は「モデル」として語られる存在となったのです。


政治的プレゼンスの形成

第二次世界大戦後、国際連合に加盟したアフリカ諸国の中でも、リベリアとエチオピアは“先輩国”として重要な外交的役割を果たしました。とりわけエチオピアの首都アディスアベバには、アフリカ統一機構(OAU)の本部が設置され、アフリカの政治的首都とすら呼ばれるようになります。


エチオピアとリベリアは、地理的にも歴史的にもまったく異なる経緯をたどりながら、アフリカ分割という大津波を生き延びた“例外中の例外”でした。その存在は、植民地化が当たり前とされた時代において、「独立とは何か」「国家とは何か」を問い直す大きなヒントとなったのです。