リトアニアの国旗
リトアニアの国土
リトアニア(正式名称:リトアニア共和国)は、北ヨーロッパのバルト海東岸に南北に並ぶバルト三国の中でもっとも南に位置する共和制国家です。国土は西はバルト海、北はラトビア、東はベラルーシ、南はポーランドの間で構成され、気候区は亜寒帯湿潤気候に属しています。首都は世界遺産の街として知られるヴィリニュス。
この国ではとくに科学技術が発達しており、中でもバイオテクノロジーの生産がさかんです。また世界遺産を背景にした観光業もこの国の基幹産業となっています。
そんなリトアニアの歴史は、1230年代、ミンダウガスに建設されたリトアニア大公国から始まるといえます。北方十字軍の圧力を受けながらも繁栄を続け、14世紀末までにポーランドとの合同で現在のベラルーシ全域、ウクライナ全域、ポーランドの一部、ロシアの一部を支配下に治めるヨーロッパ最大の国家となりました。しかしロシア、プロイセン、オーストリア帝国など新興勢力の台頭で全盛の時代も終わり、18世紀末のポーランド分割で領土の大部分を喪失しました。その後は小国ながら国体を維持。第二次大戦以降のソ連支配を乗り切り、20世紀末のソ連崩壊を機に独立を回復し現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなリトアニアの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
前1000年頃、リトアニア人の祖先の古バルト系民族が現在のリトアニア地域に定住を開始しました。彼らは森林と湖沼に富んだこの地で農耕や牧畜、狩猟を営み、独自の文化を形成していった。リトアニアの地には多くの集落が点在し、交易も行われていました。紀元前1世紀頃には、リトアニアの地にはいくつかの部族国家が形成され始め、地域間での交流や紛争も増えていきました。これらの古バルト系民族は、後にリトアニア大公国の成立に繋がる文化的基盤を築き上げました。リトアニア大公国は中世ヨーロッパで重要な役割を果たすことになる国家であり、その起源はこの古代のバルト系民族に遡ります。
中世においてリトアニアは、バルト海沿岸の戦略的な位置にあるため、地域の政治・経済・軍事の中心として重要な役割を果たしました。13世紀にはリトアニア大公国が成立し、1240年代にはミンダウガスが初代リトアニア大公として即位しました。14世紀にかけて、リトアニア大公国は急速に領土を拡大し、一時はヨーロッパで最大の国家となり、現在のベラルーシ、ウクライナ、ポーランドの一部まで支配しました。
リトアニアは異教徒の国として長く存続し、西ヨーロッパのキリスト教国家とは一線を画していました。しかし、14世紀末にヤガイロ(ヨガイラ)がポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、キリスト教に改宗することで、リトアニア大公国はポーランド王国との連合を形成しました。これにより、リトアニアはキリスト教世界の一員となり、文化的・経済的交流が促進されました。
この時期、リトアニアは多くの都市を発展させ、貿易や工業が繁栄しました。また、独自の法律や行政制度が整備され、リトアニア語や文化が栄えました。中世リトアニアは、独立と拡大を通じて地域大国としての地位を確立し、その遺産は現在のリトアニアの基盤となっています。
年代記に「Lituae」という名で初めてリトアニアの名前が登場する。この記述は、ドイツの修道士ブルーノによるものであり、リトアニアの地名が国際的な記録に初めて登場したことを示している。この時期、リトアニアはまだ多くの部族に分かれており、統一された国家という形態を持っていなかったが、後の統一と国家形成への重要な前触れとなった。
リトアニア大公ミンダウガスがリトアニア諸部族を統一し、1236年にリトアニア大公国を建国する。ミンダウガスは、リトアニアの初代国王として戴冠し、リトアニアをヨーロッパの地図に載せる重要な役割を果たした。彼の統治は、リトアニアの国家形成と発展の基礎を築き、後にリトアニア大公国は中世ヨーロッパの強国の一つとなる。
ミンダウガスが北方十字軍との抗争の中でリトアニアの諸部族をまとめあげ、リトアニア大公国を成立させる。その後1253年にミンダウガスが戴冠を受け、リトアニア史上唯一の王となった。
ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヨガイラとの婚姻とそれにともない契約(クレヴォ合同)により、ポーランドとの同君連合が結成される。
リトアニアとポーランドの連合軍がドイツ騎士団を破る。中世ヨーロッパ史上最大級の戦いとなり、リトアニア史上最も重要な勝利の一つとなった。
近世リトアニアは、リトアニア大公国とポーランド王国が連合したポーランド・リトアニア共和国の一部としての歴史が中心です。1569年のルブリン合同により、両国は正式に連合し、共和国は広大な領土を持つヨーロッパの強国となりました。リトアニアはこの連合により、政治的な安定と繁栄を享受しましたが、徐々にポーランドの影響力が強まっていきました。
この時期、リトアニアは多様な民族と宗教が共存する多文化国家として発展し、商業と貿易が活発化しました。特にビリニュスは、重要な文化と教育の中心地として栄えました。17世紀には、ポーランド・リトアニア共和国はスウェーデンやロシアとの戦争を経験し、領土の一部を失うこととなりました。
18世紀後半には、ポーランド・リトアニア共和国は政治的混乱と外部の圧力により弱体化し、最終的には1772年から1795年にかけての三度の分割で、リトアニアの領土はロシア帝国、プロイセン、オーストリアによって分割され、国家としての独立を失いました。このように、近世リトアニアは、ポーランドとの連合による繁栄とその後の衰退を経験した時期でした。
ルブリン合同という実質的なポーランドによるリトアニア併合により、ポーランド・リトアニア共和国が成立する。権勢を強めるロシア・ツァーリ国への対抗が主な目的にあった。
リトアニア大公国の一部の大貴族(マグナート)と、スウェーデン王カール10世グスタフとの間で、ポーランド=リトアニア共和国の弱体化を目的としたケダイネイ合同が結ばれる。しかしポーランドとリトアニアの民衆の反対により目論みは実現しなかった・
ポーランド=リトアニア共和国の領土の約三分の一が、ロシア帝国、プロイセン王国、ハプスブルク帝国(オーストリア)に割譲される。
第二次ポーランド分割が行われ、リトアニアはミンスク県全域をはじめとする広大な国土を失った。この分割はプロイセンとロシアによって実施され、リトアニアは大きな領土を失い、政治的な独立も大きく損なわれた。この出来事はリトアニアとポーランドの両国にとって重大な打撃となり、その後の歴史においても長期間にわたる外国の支配と圧力の下で苦しむこととなった。分割後、リトアニアはロシア帝国の支配下に置かれ、その影響は社会、経済、文化に広範な影響を及ぼした。
近代リトアニアは、19世紀から20世紀初頭にかけて、国家の独立を求める民族運動と苦難の時期を経てきました。1791年、ポーランド・リトアニア共和国は、ヨーロッパで初めて成文憲法「5月3日憲法」を採択し、立憲君主制への移行を目指しました。しかし、1795年の第三次分割によりリトアニアはロシア帝国の支配下に置かれました。
19世紀には、ロシアの支配に対する反発と民族意識の高まりが進み、文化的・言語的復興運動が展開されました。第一次世界大戦後、1918年にリトアニアは独立を宣言し、リトアニア共和国が成立しました。しかし、独立は長く続かず、1939年の独ソ不可侵条約によりソビエト連邦の支配下に入り、1940年には正式に併合されました。第二次世界大戦中はナチス・ドイツの占領を経て、戦後再びソビエト連邦の支配下に戻りました。
ソビエト支配下では、リトアニアは強制的な集団化と工業化が進められ、多くのリトアニア人がシベリアなどへ強制移住させられました。しかし、1980年代後半のペレストロイカとグラスノスチの影響を受け、リトアニア独立運動が再燃。1990年に独立を宣言し、1991年のソビエト連邦崩壊とともに国際的に承認されました。現在、リトアニアはEUとNATOの一員として、独立国家としての地位を確立しています。
ポーランド=リトアニア共和国の危機的状況を打開するために、ヨーロッパで最初の近代的な成文国民憲法が採択される。三権分立や法の支配を明示し、国王には立法権がないという現代基準でも先進的なものだった。
5月3日憲法採択など、民主化の動きを警戒した周辺諸国により、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド=リトアニア共和国は完全に消滅した。現在のリトアニア地域の大部分はロシア帝国の支配下におかれた。
ナポレオンの対外侵略に端を発しナポレオン戦争が開始される。この戦争の中で、リトアニアは一時フランス帝国軍に占領されていた。戦後は再びロシア領へと戻り、ロシア同化政策が加速していった。
前年に第一次世界大戦が勃発すると、リトアニアはドイツ帝国軍に占領された。これを受け大量のリトアニア人難民が発生し、難民救済を目的としたリトアニア人戦争被害者支援協会が設立されている。
2月16日に完全独立宣言を行った。この日は現リトアニアにおいて独立記念日とされている。この宣言は、第一次世界大戦の混乱の中で行われ、リトアニアの民族自決と独立国家としての再建を目指したものだった。宣言はリトアニア人の民族的な誇りと独立への強い願望を象徴しており、その後の国家建設の礎となった。
諸外国から民族自決にもとづく独立が承認され、正式にリトアニア共和国としてスタートした。この独立の承認は、国際社会におけるリトアニアの地位を確立し、新しい国家としての体制を整える重要な一歩となった。1920年代は、リトアニアが新たな政府を組織し、法制度や経済の基盤を構築する時期となり、国家の安定と発展を目指して多くの改革が行われた。
リトアニア共和国政府への不満から軍部のクーデターが勃発。アンターナス・スメトナが初代大統領に就任し、権威主義的な政治が始まった。スメトナは権力を集中させ、政治的な安定を図るために厳格な統治を行ったが、この体制は多くの市民や政治活動家からの反発を招いた。
タウラゲにて政府に対する蜂起が起きるも鎮圧される。翌年スメトナは憲法改正によりさらなる中央集権化を推し進めた。この蜂起は、スメトナ政権に対する不満と抵抗の一環であり、リトアニア国内の政治的緊張を象徴する出来事となった。憲法改正により、スメトナは権力を強化し、政権の安定化を図ったが、民主主義の後退と政治的自由の制限が進むこととなった。
リトアニアとポーランドの間で国交が回復される。両国は1920年代以来、ヴィルナ地方(現ヴィリニュス)を巡る対立で断交状態にあったが、この年、外交的な和解が成立した。国交回復により、両国は貿易やその他の国際関係を改善し、地域の安定に向けた一歩を踏み出した。この和解は、リトアニアの国際的な地位向上とポーランドとの協力関係の強化に寄与した。
1939年、ドイツのポーランド侵攻に端を発し第二次世界大戦が勃発。翌年ポーランド東部およびリトアニア含めたバルト三国はソ連に占領され、強引にソ連領に編入された。リトアニアはリトアニア・ソビエト社会主義共和国としてソ連の一部となり、厳しい統制と弾圧が行われ、多くのリトアニア人がシベリアへの強制移住や処刑の対象となった。この占領と併合はリトアニアの国家主権を喪失させ、国民に大きな苦難をもたらした。
独ソ戦が勃発するとドイツはリトアニアを占領。ソ連軍やドイツ軍により大勢のリトアニア人が虐殺された。特にユダヤ人コミュニティはホロコーストにより壊滅的な打撃を受け、多くのリトアニアのユダヤ人が命を落とした。ドイツ占領下での抑圧と暴力は、リトアニアの社会と経済に深刻な影響を与えた。
リトアニアは反撃に出たソ連軍により再び占領された。ソ連の再支配により、リトアニアは再度リトアニア・ソビエト社会主義共和国としてソ連に編入され、厳しい統制と政治的弾圧が続いた。多くのリトアニア人が強制移住させられ、国民の自由と権利は著しく制限された。この再占領期は、リトアニアにとって再び困難な時代となり、独立回復への道のりは遠いものとなった。
スターリンは戦後に開催されたヤルタ会談の中で、リトアニアがソ連に加盟する共和国であるとイギリス・アメリカに認めさせた。以後ロシア人のリトアニア入植が進み、工業化への転換が始まった。
ソ連政府はリトアニアで集団農場化政策を実施し、1949年までに多くの個人所有農地を集団農場(コルホーズ)に統合した。この政策は農民に対して強制的に行われ、多くの人々が反発し、農村部の生活に大きな混乱と困難をもたらした。農業生産性の低下や食糧不足も深刻な問題となった。
1980年代後半、ソ連の衰退とゴルバチョフの改革政策(ペレストロイカとグラスノスチ)により、リトアニア国内で独立への機運が高まった。リトアニアの人々は民主化と独立を求める声を上げ、ソ連からの分離を目指す動きが活発化した。
ソ連が衰退により影響力を弱める中、リトアニア独立を目指す民族組織「サユディス」が結成される。サユディスはリトアニアの民主化と独立を推進する主要な運動体となり、大規模なデモや集会を組織し、国民の支持を集めた。サユディスの活動は、リトアニアの独立革命の原動力となり、1990年の独立宣言に繋がる重要な役割を果たした。
ヴィリニュス〜リガ〜タリンらバルト三国首都を繋ぐ、全長600kmにも渡る「人間の鎖」(バルトの道)が形成される。この歴史的な平和的デモには、約200万人が参加し、バルト三国の独立と自由を求める声を世界に発信した。この象徴的な出来事は、バルト三国の連帯と独立運動の強さを示し、国際的な注目を集めた。「バルトの道」は、ソ連からの独立への道筋を切り開く重要な一歩となり、バルト三国の歴史における象徴的な瞬間となった。
1991年のソビエト連邦崩壊後、リトアニアは独立を回復し、国際的に承認されました。1991年にソ連から独立を宣言し、1991年9月に国連に加盟しました。リトアニアは市場経済への移行を進め、民主主義の強化と経済改革に取り組みました。2004年には欧州連合(EU)と北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、ヨーロッパとアメリカの安全保障と経済連携の一員としての地位を確立しました。
リトアニアはITやバイオテクノロジーなどの先端産業の育成に注力し、経済の多様化を図りました。特に、首都ヴィリニュスはスタートアップ企業の拠点として成長しています。2015年にはユーロを導入し、欧州経済の一体化にさらに深く組み込まれました。
また、リトアニアはソビエト時代の過去の清算と歴史的記憶の保存にも力を入れています。強制収容所やシベリアへの追放を経験した世代の記憶を次世代に伝えるため、教育や記念施設が設けられています。国際関係では、バルト三国としてエストニア、ラトビアと連携し、地域の安全保障と経済発展に取り組んでいます。
選挙でサユディスが圧勝し、共和国最高会議議長に就任したランズベルギスはソ連からの独立を宣言した。この独立宣言は、ソ連の崩壊過程において初めて行われたもので、リトアニアは独立国家としての再建を目指し始めた。独立宣言は国際的な注目を集め、リトアニアの人々にとって大きな希望となったが、ソ連政府はこれを認めず、緊張が高まることとなった。それでも、リトアニアは独立への道を進み続け、最終的に1991年に国際的に独立が承認されることになる。
リトアニアの独立宣言を受け、ソ連はリトアニアに軍を派遣。占拠の過程で多くの民間人が犠牲になる「血の日曜日事件(一月事件)」に発展し、リトアニアにおける反ソ感情をいっそう高めた。事件は、ヴィリニュスのテレビ塔やラジオ局の占拠をめぐって発生し、13人が死亡し、数百人が負傷した。この暴力的な弾圧は、国際社会からも強い非難を浴び、リトアニアの独立運動への支持を強化する結果となった。事件後、リトアニアの人々はさらに団結し、独立への決意を新たにした。
この出来事は、ソ連崩壊の象徴的な一端となり、リトアニアの独立への道を決定的にしました。
91年8月に起きたクーデター失敗によりソ連共産党は権威を完全に失い、バルト三国の独立承認を余儀なくされた。リトアニアは正式に独立を回復し、国際社会からも広く承認された。同年9月、リトアニアは国際連合に加盟し、独立国家としての地位を確立した。相次ぐ構成共和国の独立を受け、同年12月にソ連は崩壊し、リトアニアは完全な主権国家として再出発を果たした。この独立回復は、長い間抑圧されてきたリトアニアの民族的自決と自由の象徴となり、新しい歴史の幕開けを意味した。
1993年、リトアニアは欧州評議会(CoE)に加盟。欧州評議会は、ヨーロッパの人権、民主主義、法の支配を促進するための国際機関であり、加盟によりリトアニアはこれらの基本原則を尊重し、欧州の価値観に基づく改革を進めることを表明した。これにより、リトアニアの民主主義と人権の強化が期待された。
1998年、ヴァルダス・アダムクスがリトアニアの大統領に当選。アダムクスは、アメリカで教育を受け、国際的な経験を持つ政治家であり、リトアニアの欧州統合と市場経済の推進に尽力した。彼の指導の下、リトアニアは経済改革と国際関係の強化を進め、欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)への加盟準備を進めた。
2004年、リトアニアは欧州連合(EU)および北大西洋条約機構(NATO)に正式加盟。これにより、リトアニアは経済的および政治的に欧州と強固に結びつき、安全保障面でもNATOの保護下に入ることができた。この加盟はリトアニアの国際的地位を大きく高め、経済発展と安全保障の安定に寄与した。
2015年、リトアニアはユーロを正式な通貨として導入した。これにより、リトアニアはユーロ圏の一員となり、欧州連合内での経済統合を一層深めた。ユーロ導入により、為替リスクの低減や貿易の円滑化が期待され、リトアニア経済の安定と成長に寄与した。
2018年、リトアニアは経済協力開発機構(OECD)に加盟した。OECD加盟により、リトアニアは先進国の経済政策や統計基準に基づく政策評価やアドバイスを受けることができ、経済運営の効率化と透明性の向上が図られた。これにより、リトアニアの経済改革がさらに進展し、国際競争力が強化された。
リトアニアの歴史は、古代から現代にかけて多くの変遷を遂げてきました。前1000年頃、古バルト系民族が定住を開始し、13世紀にはミンダウガスによってリトアニア大公国が成立しました。14世紀には広大な領土を持つヨーロッパ最大の国家となり、1386年のポーランドとの連合でキリスト教を受容しました。1569年のリュブリン合同により、ポーランド・リトアニア共和国が成立し、繁栄を享受しましたが、18世紀末の分割で独立を失いました。
19世紀にはロシア帝国の支配下に置かれ、文化的復興運動が展開されました。第一次世界大戦後、1918年に独立を宣言しましたが、第二次世界大戦中にナチス・ドイツとソ連の占領を経験しました。戦後はソビエト連邦に編入され、1980年代後半のペレストロイカを経て、1990年に独立を再宣言しました。
1991年のソビエト連邦崩壊とともに独立が国際的に承認され、2004年にEUとNATOに加盟しました。現代のリトアニアは、高い経済成長と民主主義の確立を達成し、ユーロ導入(2015年)やOECD加盟(2018年)を通じて国際社会で重要な役割を果たしています。
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