オランダの国旗
オランダの国土
オランダは西ヨーロッパの北海沿岸・東をドイツ、南をベルギーに囲まれた地域に位置する立憲君主制国家です。国土は本土の他に、カリブ海のアルバ、キュラソー、シント・マールテンなどで構成され、本土は西岸海洋性気候に属しています。首都は世界屈指の海港都市として知られるアムステルダム。
この国ではとくに製造業が発達しており、中でも食品・家庭用品・電子機器などの生産がさかんです。また豊富な天然ガスを背景にしたエネルギー・資源産業もこの国の基幹産業となっています。
そんなオランダの歴史は、中世の頃、ネーデルラント(低地地方)に建設されたホラント伯から始まるといえます。その後オーストリア・ハプスブルク家やスペインの支配を経て、1648年にオランダ連邦共和国として独立。アジア貿易や海外領土の獲得で繁栄を享受しました。17世紀後半には英蘭戦争に敗れフランスによる支配を受けるも、ナポレオン戦争後のウィーン会議の結果1815年にオランダ王国として独立。30年にはベルギーがオランダ王国から分離独立して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんな国名の歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
古代オランダは、多くの部族や文化が交錯する地域であり、その歴史は複雑です。紀元前1千年紀には、現在のオランダの領域にはケルト系やゲルマン系の部族が住んでいました。特に、フリジア人、バタウィア人、カナネファテス人などが知られています。彼らは主に農業や漁業を生業とし、豊かな自然環境の中で生活していました。
紀元前1世紀には、ローマ帝国がこの地域に進出し、特に南部を支配しました。ローマはライン川を境界線とし、そこから北のゲルマン人と境界を設けました。ローマの影響下で、オランダ南部にはローマの軍事基地や道路網が整備され、都市化が進みました。ニジメーヘン(Nijmegen)やマーストリヒト(Maastricht)などの都市はこの時期に発展しました。
バタウィア人は特にローマ帝国との関係が深く、彼らはローマ軍に兵士を提供する代わりに、自治を認められていました。しかし、バタウィア人の反乱(69年-70年)など、ローマ支配への抵抗も見られました。この反乱は、ローマに対する大規模な抵抗の一つとして記録されています。
西ローマ帝国の崩壊(476年)後、オランダの地域は混乱期を迎えました。ゲルマン系のフランク族が勢力を拡大し、最終的にはフランク王国の一部となりました。この時期には、部族間の争いや移住が頻繁に起こり、社会構造が大きく変わりました。
古代オランダは多様な部族が住み、ローマ帝国の影響を受けながらも独自の文化と歴史を築いていった地域です。
ガリア(現フランスやネーデルラントを含む地域)にカエサル率いるローマ軍が侵攻。ガリア人の抵抗は武力で抑えられ、ネーデルラント北部のフリースラント地方を除き、ローマの支配下に入る。
ローマ帝国国境を守る砦として、ライン川河畔に要塞トライェクトゥムが建設される。現オランダの第四の都市ユトレヒトの原型となった。
2世紀半ばより、ゲルマン人がユトレヒトよりローマ帝国領に侵入を繰り返すようになる。衰退傾向にあったローマは、270年頃防衛を放棄し撤退していった。
4世紀半ばよりフン人の圧力に押され、ゲルマン人の大移動が始まる。多くのゲルマン人がネーデルラントを通過し、西ヨーロッパ諸地域に移住した。
ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルにより、西ローマ皇帝位が廃され、西ローマ帝国が崩壊する。
中世オランダ(5世紀から15世紀)の特徴は、政治的な分裂と自治都市の発展が挙げられます。5世紀から8世紀にかけて、オランダの地域はフランク王国の一部として統治されました。カロリング朝の下で、キリスト教の布教が進み、修道院や教会が建設されました。
9世紀から11世紀にかけて、フランク王国の分裂とともに、オランダの地域もいくつかの小さな封建領に分かれました。ホラント、ユトレヒト、ゼーランドなどの領地が成立し、各領主が独自の支配を行いました。この時期には、ヴァイキングの侵攻もあり、沿岸部は度々襲撃を受けました。
12世紀から13世紀にかけて、オランダの都市部では商業が発展し、自治都市が形成されました。特にアムステルダム、ロッテルダム、ユトレヒトなどの都市は、北海やバルト海との貿易で繁栄しました。これにより、都市は独自の自治権を獲得し、ギルドや商人同盟が組織されました。フランドル地方の羊毛取引や北海の漁業も重要な経済活動となりました。
14世紀から15世紀にかけて、ブルゴーニュ公国の支配下に入ったことで、オランダはさらなる統一と安定を迎えました。ブルゴーニュ公国の下で、行政改革が進められ、経済的な発展が加速しました。この時期には、ゴシック建築の教会や市庁舎が建設され、文化も大いに栄えました。
中世オランダは、政治的な分裂と自治都市の発展、商業の繁栄が特徴的な時代でした。
5世紀になるとガリアの地にフランク王国が成立する。その統治者のクローヴィス1世がキリスト教カトリックに改宗したことで、ネーデルラントにもキリスト教が普及した。
ローマ帝国崩壊後、クロヴィス1世がガリア(現フランスやネーデルラントを含む地域)を統一し、メロヴィング朝フランク王国を成立させる。
ヴェルダン条約でフランク王国が西フランク王国、中フランク王国、東フランク王国に分裂。ネーデルラントは東フランク王国の支配下に入った。
9世紀に入り、北欧出身のノルマン人バイキングによる侵略を受けるようになる。9世紀末にはネーデルラントの大部分がバイキングに占領された。
東フランク王国(現ドイツの起源)のオットー1世がローマ皇帝として認められ、神聖ローマ帝国が成立した。ネーデルラントもその支配を受けるようになる。またユトレヒト(現オランダの第四の都市)が皇帝の主要な滞在場所となり、商業港として栄えるようになる。
農業技術の急速な発展により食料の大量生産が可能になり、人口が増加していった。通貨も導入され、商業が繁栄した。
12世紀頃より西ネーデルラントが「ホラント」と呼ばれるようになった。「ホラント」は日本語呼びの「オランダ」の語源となった。
ホラント伯家の断絶に伴い、ホラント伯領はアヴェルニュ家のジャン1世が継承した。この出来事はホラント地域の政治構造に大きな変化をもたらし、中世オランダの領土争いの一因となった。この領地争いはフランドル伯との間の緊張を高め、後の地域政治に影響を与え続けた。
ブルゴーニュ公国によりネーデルラント一帯が統一され、ブリュゴーニュ領ネーデルラントが成立した。この統一により、地域は政治的な安定と経済的な繁栄を経験し、後の北方ルネサンスの中心地となった。ブリュゴーニュ領ネーデルラントは芸術、商業、文化が花開く一大中心地として発展し、ヨーロッパ内での重要な役割を果たすことになった。
近世になると複数の諸侯が分立支配するようになり、最初にブルゴーニュ家がこれらを統一。ブルゴーニュ家が断絶すると、支配権はハプスブルク家に引き継がれました。ハプスブルク家は16世紀半ばに、オーストリア・ハプスブルク家と、スペイン・ハプスブルク家に分裂し、ネーデルラントの大部分はスペイン・ハプスブルク家の領有となりました。
近世は宗教改革が巻き起こった時代でもあります。スペイン・ハプスブルク家はネーデルラントのプロテスタントを弾圧するようになり、これをきっかけに、ネーデルラント独立の機運が生まれました。独立運動の中で、ネーデルラント北部7州によるユトレヒト同盟が結成され、同盟がスペインからの分離独立を宣言したことで、現オランダの基礎となるネーデルランド連邦共和国が成立しました。この独立は30年戦争の講和条約であるウエストファーレン条約の効力により正式なものとなりました。
1432年にホラントが正式にブルゴーニュ領ネーデルラントに組み込まれたことで、地域的な統合がさらに進んだ。この統合により、ネーデルラント全域で政治的な一体感が強化され、後の経済発展と文化的繁栄の基盤が確固たるものになった。この時期はまた、地域間の交易が活発化し、都市が急速に成長する契機となった。
1477年、ブルゴーニュ公家が断絶した後、ネーデルラント地域はハプスブルク家の支配下に入った。この政治的変化は、ネーデルラントがヨーロッパの政治地図の中で新たな位置を占めることになる。ハプスブルク家の統治下で、地域はさらなる経済発展を遂げ、芸術や文化の黄金時代を迎えた。ハプスブルクの保護下で、絵画、彫刻、建築などの芸術分野が特に栄えた。
16世紀に入り、キリスト教の分派である再洗礼派、カルヴァン派などがネーデルラントに流入するようになる。アムステルダムを中心に信仰を拡大した。この宗教的多様性は、ネーデルラントでの宗教改革の進行を加速させ、後のスペインとの独立戦争(八十年戦争)の触発要因となった。特にカルヴァン派は経済的・社会的影響力を持ち、商業と政治の両面で重要な役割を果たすことになる。
1545年 ネーデルラント諸州に異端審問官が設置された。この措置はカトリック教会とスペイン王室による強硬な異端弾圧の一環であり、宗教的分派や異端とみなされた運動に対して厳しい対応を取ることを目的としていた。この異端審問の導入は、地域の人々の不満を増大させ、後に八十年戦争へとつながる宗教的、政治的な緊張の火種となった。審問官の活動は多くの市民の命と自由を奪い、ネーデルラントの自治と信教の自由への抵抗感情を強めた。
神聖ローマ皇帝カール5世の退位後に、ハプスブルク領がオーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分割。ネーデルラントはスペイン領となる。
1568年、スペインの支配に対するネーデルラントの反乱として八十年戦争が勃発した。この戦争は、ネーデルラントの宗教的、政治的自由を求める戦いであり、最終的に独立を勝ち取るための重要な出来事となった。戦争は激しい戦闘と長期にわたる対立を特徴とし、ネーデルラントの都市と経済に大きな影響を及ぼした。
ネーデルラント北部7州で構成される対スペイン軍事同盟「ユトレヒト同盟」を基礎とするネーデルラント連邦共和国が成立。スペイン支配から独立した。南ネーデルラントはスペイン領に残留した。
オランダ東インド会社が設立。この会社を介してオランダが世界の香料貿易を牛耳り、海上覇権を確立。オランダ海上帝国を築き上げた。オランダ東インド会社(VOC)は世界初の株式会社として、広範な貿易ネットワークを構築し、アジア、アフリカ、南アメリカにまでその影響を広げた。この時期、オランダは金融、商業、軍事力を駆使して国際的な影響力を強め、17世紀には「黄金時代」を迎えた。
カトリックとプロテスタントの対立から史上最大の宗教戦争といわれる「三十年戦争」に発展。ネーデルラント連邦共和国はプロテスタント勢力として参戦した。1648年のヴェストファーレン条約の締結をもって終結。
オランダとイギリスが、植民地や海運・漁業利権をめぐって対立。第一次、第二次(1665年)、第三次(1672年)と3度にわたり英蘭戦争と呼ばれる武力衝突が起こった。最終的にオランダはこの争いに敗れ、海上覇権をイギリスに奪われることになる。
フランス王国とスペイン王国の間で、南ネーデルラントの継承権をめぐる武力衝突ネーデルラント継承戦争が発生。この戦争は、フランス王ルイ14世がスペイン領ネーデルラントの継承権を主張したことで始まった。戦争は激しい戦闘を伴い、ネーデルラント地域全体に大きな影響を与えた。最終的に1668年のアーヘンの和約で終結し、フランスはいくつかの領土を獲得したが、完全な支配権を確立することはできなかった。
17世紀から18世紀にかけてのオランダは、東インド会社を通してアジア香辛料利権を独占し、一時は「オランダ海上帝国」を築き上げるなど、世界有数の商工業国家として繁栄を謳歌しました。しかしそんな黄金時代は長くは続かず、英蘭戦争などに代表する外国との国際紛争が続いたことで衰退していきました。
18世紀末、フランス革命戦争の中でネーデルラント一帯がフランス軍に占領され、代わりにバタヴィア共和国、ホラント王国といったフランスの衛星国に支配されたが、ナポレオン戦争におけるフランスの敗北とともに解放された。19世紀になるとベルギー、ルクセンブルクがオランダから分離独立したことで現在のオランダの国境がほぼ確定しました。
イギリス植民地のアメリカにおいて、本国の重商主義政策への反発から、イギリス支配からの独立を目指すアメリカ独立戦争が始まる。オランダはアメリカ合衆国の国旗に敬意を評した最初の国となった。
アメリカ独立戦争の最中、オランダがイギリスの敵対国アメリカへの支援を続けたことで、イギリスの反感を買い、第四次英蘭戦争に発展した。
フランスで市民革命が勃発し、ブルボン王朝が崩壊。
フランス革命における革命勢力の増長を危惧したヨーロッパ諸外国が、フランスに干渉。フランス革命政府がオーストリアに宣戦布告したことでフランス革命戦争に発展した。
ネーデルラント連邦共和国にフランス革命軍が侵攻。ネーデルラント連邦共和国が崩壊した。跡地にはフランスの衛星国バタヴィア共和国が成立した。
クーデターにより政権を握ったフランスのナポレオン・ボナパルトがヨーロッパ征服戦争を開始する。
皇帝ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトが、バタヴィア共和国の国王に即位。ホラント王国が成立。国名はネーデルラント連邦共和国において中心都市であったホラント州に由来。1810年にフランスに併合された。
オランダ商船を追ってきたイギリス軍艦フェートン号が、日本の長崎港に侵入する「フェートン号事件」が発生。
オランダはナポレオン戦争の最中、フランス軍に征服され、事実上ナポレオンの傀儡となりました。イギリスがオランダ商船を追っていたのは、オランダがイギリスの敵対国となったことによるものです。遠いヨーロッパで起こったナポレオン戦争の余波が、極東の日本にも現れたのですね。
ナポレオン戦争後にウィーン会議が開催され、ヨーロッパの領土の再分割が行なわれた。その結果現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを領土にもつネーデルラント連合王国が成立した。
ネーデルラント連合王国の構成国ベルギーがブリュッセルで反乱を起こし、独立を宣言。独立を認めない立場だったオランダだが、1839年のロンドン条約で承認した。
近代末の20世紀にはヨーロッパ中を巻き込む大戦が二度起きました。第一次世界大戦では、中立を貫きさした被害もありませんでしたが、同じく最初は中立であった第二次世界大戦ではドイツ軍による奇襲を受け、占領されてしまいました。こうなると中立を放棄せざるえなくなり、日本の起こした太平洋戦争の勃発とともに連合国側として参戦したのです。
ドイツ軍がポーランドを侵攻し、第二次世界大戦が勃発。オランダは中立の立場を表明したが、1940年ドイツ軍の侵攻を受けた。
日本の真珠湾奇襲を皮切りに太平洋戦争が勃発。オランダは日本に対し宣戦布告した。
ナチスドイツ、日本が降伏し、連合軍の勝利で第二次世界大戦が終結する。オランダは戦勝国となった。
ユリアナが母ウィルヘルミナから王位を継承。彼女の即位は戦後の復興と新しい時代の始まりを象徴し、人道主義者としても知られた。
オランダは北大西洋条約機構(NATO)の創設メンバーとして加盟し、集団防衛体制の一部となる。またインドネシアの独立を承認し、長年の植民地支配に終止符を打つ。
戦後は北大西洋条約機構(NATO)に加盟、ベルギー・ルクセンブルクとベネルクス経済同盟(欧州共同体の起源)を結成するなど、ヨーロッパをリードする先進国の一つとして強い存在感を放つようになりました。
1954年、オランダ王国憲章が公布され、オランダ本国、オランダ領アンティル、アルバの間に新たな関係が定められた。これにより、これらの地域はオランダ王国内で平等な構成部分となり、それぞれが内部自治権を持つことが認められた。この憲章は、王国の統治構造を改編し、植民地支配から自治領への移行を象徴するものであった。旧植民地との関係が平和的に再構築され、各地域の自主性が尊重されるようになった。オランダ王国憲章の公布は、オランダとその海外領土の関係を根本的に変える重要な節目となった。
西ニューギニアをインドネシアに譲渡し、紛争を解決。これにより、オランダは長年の植民地支配を終え、インドネシアとの関係を正常化させることができた。
ベアトリクス王女(後の女王)がクラウス・フォン・アムスベルクと結婚。この結婚は国内外で注目を集め、オランダ王室の現代化と国際的な連携を象徴する出来事となった。
ユリアナ女王が退位し、ベアトリクスが即位。ベアトリクス女王の即位は、オランダの近代化と国民統合の象徴であり、彼女の治世は国内の安定と繁栄をもたらした。
経済改革が実施され、労働市場の自由化と福祉制度の見直しが行われる。オランダは、経済の再構築と成長を目指した政策を推進。
欧州連合(EU)の設立条約であるマーストリヒト条約に調印。これにより、オランダは欧州統合に積極的に参加し、政治的および経済的な結束を深める重要な一歩を踏み出した。
オランダがユーロを正式な通貨として導入。これにより、欧州連合内での経済統合が強化され、加盟国間の貿易と投資が促進された。ユーロの導入は、オランダ経済に安定と成長をもたらした。
ウィレム=アレクサンダー王太子(後の国王)がマキシマ・ソレギエタと結婚。この結婚は国内外で大きな話題となり、オランダ王室の新時代の幕開けを象徴する出来事となった。
映画監督テオ・ファン・ゴッホがイスラム過激派により暗殺され、国内外で大きな衝撃を与える。この事件はオランダ社会における宗教的緊張と移民問題に対する議論を激化させた。
ベアトリクス女王が退位し、息子のウィレム=アレクサンダーが即位。彼はオランダ初の国王となり、新たな時代の象徴としての役割を担った。
オランダは同性婚を合法化した最初の国であり、この年に10周年を迎える。この節目は、LGBTQ+の権利擁護と平等に向けたオランダの先進的な姿勢を再確認する機会となった。
オランダも他国同様にパンデミックの影響を受け、ロックダウンや公共衛生対策を実施。経済的な影響や医療体制の逼迫など、深刻な課題に直面した。
総選挙で、マルク・ルッテ首相率いる自由民主党(VVD)が勝利し、政権を維持。この選挙結果は、ルッテ政権の継続と政治的安定を示すものとなった。
オランダの歴史は多様な発展と変革を経てきた。古代には、ケルト系やゲルマン系の部族が現在のオランダ地域に定住し、ローマ帝国の影響を受けた。西ローマ帝国の崩壊後、フランク王国の一部となり、キリスト教が広まる。中世には、自治都市が発展し、商業と貿易が繁栄。特にアムステルダムやロッテルダムが重要な商業都市となった。ブルゴーニュ公国やスペインの支配を経て、16世紀後半には八十年戦争を通じてスペインから独立し、オランダ共和国が成立する。
17世紀には「黄金時代」を迎え、科学、芸術、経済が大いに栄えた。18世紀後半から19世紀にかけてはフランス革命戦争やナポレオン戦争の影響を受け、フランスの支配下に入るが、1815年のウィーン会議で独立を回復。19世紀末から20世紀初頭にかけて、工業化が進み、国際貿易が再び活発化する。
第二次世界大戦ではナチス・ドイツに占領されるが、1945年に解放され、戦後の復興を遂げる。1949年にはNATOに加盟し、欧州統合に積極的に参加。1999年にはユーロを導入し、経済的な結びつきを強化。現代のオランダは、エネルギー政策や環境問題への対応、社会的進歩(例えば同性婚の合法化)などで先進的な国として知られている。
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