オランダの歴史年表

オランダの国旗

 

オランダの国土

 

年代 出来事 時代
前1世紀 ローマ帝国がライン川以南の低地地方を支配 古代
5世紀 ローマ帝国崩壊後、フランク王国が支配 古代末期
9世紀 カロリング朝フランク王国が分裂、神聖ローマ帝国に組み込まれる 中世
15世紀 ブルゴーニュ家、その後ハプスブルク家の支配下に入る 中世末期
1568年 ネーデルラント独立戦争(八十年戦争)勃発 近世
1581年 北部7州がスペインからの独立を宣言 近世
1648年 ウェストファリア条約でオランダ独立が国際的に承認 近世
17世紀 ネーデルラント連邦共和国として黄金時代(海上覇権・商業繁栄) 近世
1795年 フランス革命の影響でバタヴィア共和国樹立 近代
1815年 ウィーン会議でネーデルラント連合王国成立(ベルギー含む) 近代
1830年 ベルギーが分離独立 近代
1940〜1945年 ナチス・ドイツに占領される 近代
1949年 インドネシアの独立承認、植民地時代の終焉 近代
1957年 EC(後のEU)創設メンバーとしてローマ条約に署名 現代
2002年 ユーロ導入 現代
2023年 連立政権不安定化と極右政党の台頭が続く 現代

 

オランダの歴史詳細

オランダは西ヨーロッパの北海沿岸・東をドイツ、南をベルギーに囲まれた地域に位置する立憲君主制国家です。国土は本土の他に、カリブ海のアルバ、キュラソー、シント・マールテンなどで構成され、本土は西岸海洋性気候に属しています。首都は世界屈指の海港都市として知られるアムステルダム

 

この国ではとくに製造業が発達しており、中でも食品・家庭用品・電子機器などの生産がさかんです。また豊富な天然ガスを背景にしたエネルギー・資源産業もこの国の基幹産業となっています。

 

そんなオランダの歴史は、中世の頃、ネーデルラント(低地地方)に建設されたホラント伯から始まるといえます。その後オーストリアハプスブルク家スペインの支配を経て、1648年にオランダ連邦共和国として独立。アジア貿易や海外領土の獲得で繁栄を享受しました。17世紀後半には英蘭戦争に敗れフランスによる支配を受けるも、ナポレオン戦争後のウィーン会議の結果1815年にオランダ王国として独立。30年にはベルギーがオランダ王国から分離独立して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんな国名の歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

オランダの歴史年表

 

古代オランダ

古代オランダは、多くの部族や文化が交錯する地域であり、その歴史は複雑です。紀元前1千年紀には、現在のオランダの領域にはケルト系やゲルマン系の部族が住んでいました。特に、フリジア人、バタウィア人、カナネファテス人などが知られています。彼らは主に農業や漁業を生業とし、豊かな自然環境の中で生活していました。

 

紀元前1世紀には、ローマ帝国がこの地域に進出し、特に南部を支配しました。ローマはライン川を境界線とし、そこから北のゲルマン人と境界を設けました。ローマの影響下で、オランダ南部にはローマの軍事基地や道路網が整備され、都市化が進み、ニジメーヘン(Nijmegen)やマーストリヒト(Maastricht)などの都市が栄えています。

 

バタウィア人ははローマ軍に兵士を提供する代わりに、自治を認められていましたが、バタウィア人の反乱(69年-70年)など、ローマ支配への抵抗も見られています。

 

西ローマ帝国の崩壊(476年)後、現オランダ地域は混乱期に入りましたが、ゲルマン系のフランク族が勢力を拡大、最終的にはフランク王国の一部となりました。この時期には、部族間の争いや移住が頻繁に起こり、社会構造が大きく変わりました。

 

古代オランダは多様な部族が住み、ローマ帝国の影響を受けながらも独自の文化と歴史を築いていった地域です。

 

前1世紀

紀元前1世紀のオランダ地域は、現在のような国家として存在していませんでしたが、さまざまなゲルマン系やケルト系の部族が居住していました。この時期、ローマ帝国がガリア(現在のフランス)に侵攻し、勢力を拡大していたため、オランダ地域でもローマとの接触が増えていきます。とりわけバタウィ族と呼ばれるゲルマン系部族がライン川付近に定住しており、彼らはローマと同盟関係を結んでいました。

 

また、ローマの侵攻に伴い、地域の経済活動も次第に活発化していきました。ローマ帝国はこの地を軍事的な拠点として活用し、交易や技術の伝播が進んだのです。しかし、ローマの支配が強まるにつれて、地元の部族たちは反発を強めるようになります。特に紀元後1世紀には、バタウィ族がローマに対して反乱を起こすなど、緊張が続きました。

 

このように、紀元前1世紀のオランダ地域は、ゲルマン系部族とローマ帝国の接触が増え、ローマの影響が強まる中で、地域が大きな変化を遂げていった時代だったといえます。

 

前58年 ローマによるネーデルラント征服

ガリア(現フランスやネーデルラントを含む地域)にカエサル率いるローマ軍が侵攻。ガリア人の抵抗は武力で抑えられ、ネーデルラント北部のフリースラント地方を除き、ローマの支配下に入る。

 

1世紀

1世紀のオランダ地域は、ローマ帝国の勢力がさらに強まった時代です。この頃、ライン川がローマ帝国の北部国境となっており、現在のオランダ南部地域にはローマ軍が駐留し、ローマ文化が浸透していました。また、バタウィ族と呼ばれるゲルマン系の部族がこの地に定住しており、彼らはローマと同盟を結び、ローマ軍の支援を行う一方で、自治も認められていました。

 

しかし、1世紀半ばにバタウィ族はローマの支配に対する不満を募らせ、バタウィ反乱(69年〜70年)を起こします。この反乱はローマ帝国にとって大きな脅威となり、一時的にローマ軍を追い出すことに成功しましたが、最終的には鎮圧されました。反乱後もローマ帝国はライン川沿いに強固な防衛線を築き、地域を再び支配下に置きました。

 

このように、1世紀のオランダ地域は、ローマ帝国の支配が強まりつつも、バタウィ反乱のように地元部族の抵抗も見られる時代だったといえます。

 

47年 ユトレヒトの原型ができる

ローマ帝国国境を守る砦として、ライン川河畔に要塞トライェクトゥムが建設される。現オランダの第四の都市ユトレヒトの原型となった。

 

3世紀

3世紀のオランダ地域は、ローマ帝国の衰退とともに大きな変動を迎えた時期です。ローマの勢力は依然としてライン川沿いを中心に存在していましたが、帝国全体の混乱により、その支配力は弱まっていきました。この頃、ゲルマン系部族の侵攻が増加し、ローマの防衛線が崩壊し始めていました。

 

特に、現在のユトレヒトの地域は、ローマ帝国の北部国境に位置し、重要な軍事拠点として機能していました。ローマ軍の砦があり、ライン川流域の防衛の一環として活用されていたのです。しかし、3世紀後半になるとゲルマン人の圧力が強まり、ローマ軍は次第に撤退を余儀なくされました。ユトレヒトもその影響を受け、ローマの支配下から外れていきます。

 

これにともない、ローマによる都市開発や文化の影響は一時的に停滞しましたが、ユトレヒトはその後も交易や宗教の中心地として徐々に再生していきました。

 

このように、3世紀のオランダ地域は、ローマ帝国の衰退とゲルマン人の侵攻が進行し、ユトレヒトなどの重要な拠点がその影響を強く受けた時代だったといえます。

 

270年頃 ローマ軍がユトレヒトより撤退

2世紀半ばより、ゲルマン人がユトレヒトよりローマ帝国領に侵入を繰り返すようになる。衰退傾向にあったローマは、270年頃防衛を放棄し撤退していった。

 

4世紀

4世紀のオランダ地域は、大きな動乱の時代でした。この時期、ローマ帝国の支配力はさらに弱まり、外部からの圧力が強まっていきます。とりわけ、4世紀半ばからフン人がヨーロッパに進出したことで、ヨーロッパ全体でゲルマン人の大移動が始まりました。この移動により、オランダ地域(ネーデルラント)もその影響を受け、多くのゲルマン人がこの地を通過し、西ヨーロッパの各地へと移住していったのです。

 

この移動の中で、いくつかのゲルマン系部族がネーデルラントを通過しましたが、定住する部族もいました。特にフリース族サクソン族といった部族がこの地域に定住し、後のオランダの文化や言語に影響を与えていきます。ローマ帝国の力が衰退する中、地域の防衛が弱まり、ゲルマン人の移動はネーデルラントの社会構造にも大きな変化をもたらしました。

 

これにともない、ローマ文化やインフラの影響は徐々に薄れていき、ゲルマン人の影響が色濃くなっていくのです。

 

このように、4世紀のオランダ地域は、フン人の圧力によるゲルマン人の大移動の影響を受け、移住や定住が進む中で社会的・文化的な変化が加速した時代だったといえます。

 

5世紀

5世紀のオランダ地域は、ローマ帝国の完全な崩壊とともに、大きな変化が進んだ時期です。4世紀に始まったゲルマン人の大移動が続き、オランダ地域(ネーデルラント)では、ローマの支配が完全に消え去り、ゲルマン系の部族がこの地に定住するようになりました。特に、フリース族フランク族が定住し、後のオランダ地域の民族的基盤を形成しました。

 

この時期、フランク族は次第に勢力を拡大し、5世紀末にはクローヴィス1世のもとで、強大な王国(フランク王国)を築くことになります。これにともない、ネーデルラント南部もフランク王国の影響下に入っていきました。北部では引き続きフリース族が支配していましたが、フランク族との接触が増える中で、地域全体における政治的な構造が変わっていきました。

 

また、ローマ時代に築かれたインフラや都市は衰退し、ゲルマン系の文化が定着していく時代でもあったのです。

 

このように、5世紀のオランダ地域は、ローマ帝国の崩壊とゲルマン人の定住によって、フランク族を中心とした新たな勢力が台頭し、社会的な変化が進んだ時代だったといえます。

 

476年 西ローマ帝国の崩壊

ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルにより、西ローマ皇帝位が廃され、西ローマ帝国が崩壊する。

 

中世オランダ

中世オランダ(5世紀から15世紀)の特徴は、政治的な分裂と自治都市の発展が挙げられます。5世紀から8世紀にかけて、オランダの地域はフランク王国の一部として統治されました。カロリング朝の下で、キリスト教の布教が進み、修道院や教会が建設されました。

 

9世紀から11世紀にかけて、フランク王国の分裂とともに、オランダの地域もいくつかの小さな封建領に分かれました。ホラント、ユトレヒト、ゼーランドなどの領地が成立し、各領主が独自の支配を行いました。この時期には、ヴァイキングの侵攻もあり、沿岸部は度々襲撃を受けました。

 

12世紀から13世紀にかけて、オランダの都市部では商業が発展し、自治都市が形成されました。特にアムステルダム、ロッテルダム、ユトレヒトなどの都市は、北海やバルト海との貿易で繁栄しました。これにより、都市は独自の自治権を獲得し、ギルドや商人同盟が組織されました。フランドル地方の羊毛取引や北海の漁業も重要な経済活動となりました。

 

14世紀から15世紀にかけて、ブルゴーニュ公国の支配下に入ったことで、オランダはさらなる統一と安定を迎えました。ブルゴーニュ公国の下で、行政改革が進められ、経済的な発展が加速しました。この時期には、ゴシック建築の教会や市庁舎が建設され、文化も大いに栄えました。

 

中世オランダは、政治的な分裂と自治都市の発展、商業の繁栄が特徴的な時代でした。

 

5世紀

5世紀のオランダ地域(ネーデルラント)は、ローマ帝国の崩壊後、ゲルマン系の部族が定住し始めた時期です。特にこの時期、フランク王国がガリア(現在のフランス)に成立し、その影響がネーデルラントにも及びました。フランク王国の統治者クローヴィス1世は、5世紀末にカトリックのキリスト教に改宗し、彼の改宗により、フランク王国の支配下にあったネーデルラントにもキリスト教が広まり始めています。

 

それまでのネーデルラント地域では、主に異教信仰が根付いていましたが、クローヴィス1世の改宗によってカトリックが強力に普及し、後のヨーロッパ全体の宗教的な発展に深く関わることになります。これにともない、フランク王国の影響力が強まり、ネーデルラント南部を中心に、キリスト教の教会が次第に建設されていくなど、宗教的な変革が進んでいきました。

 

このように、5世紀のオランダ地域は、フランク王国の成立とクローヴィス1世のキリスト教への改宗を通じて、カトリックが広がり、宗教的な変革が進んだ時代だったといえます。

 

481年 メロヴィング朝フランク王国の成立

ローマ帝国崩壊後、クロヴィス1世がガリア(現フランスやネーデルラントを含む地域)を統一し、メロヴィング朝フランク王国を成立させる。

 

8世紀

8世紀のオランダ地域(ネーデルラント)は、フランク王国の支配が強まっていく時代でした。特にこの時期、フランク王国の支配者であるカール・マルテルやその孫カール大帝(シャルルマーニュ)の影響力が増し、ネーデルラント全域にフランク王国の統治が及ぶようになります。カール大帝は、帝国を統一し、キリスト教の拡大を積極的に進めていました。

 

この過程で、ネーデルラント地域にもキリスト教がますます普及しました。特に8世紀半ば、宣教師のボニファティウスがネーデルラントを訪れ、異教徒にキリスト教を広める活動を行ったのは転機でした。彼は、ネーデルラントのゲルマン人に対してキリスト教を説き、フランク王国の支配と宗教的統一を進める重要な役割を果たしましたが、754年にフリース族によって殺害されてしまいます。

 

この事件は、キリスト教の広がりと共に、地域内の異教徒との対立が続いていたことを示していますね。その後も、フランク王国の支配下でネーデルラントはキリスト教化が進み、文化的・政治的にもフランク王国の一部としての地位を確立していったのです。

 

このように、8世紀のオランダ地域は、フランク王国の支配とキリスト教の普及が進む中で、地域の統一と宗教的な変革が続いた時代だったといえます。

 

843年 東フランク王国領に

ヴェルダン条約でフランク王国が西フランク王国、中フランク王国、東フランク王国に分裂。ネーデルラントは東フランク王国の支配下に入った。

 

9世紀

9世紀のオランダ地域(ネーデルラント)は、フランク王国の影響を強く受け続けた時代です。この頃、カール大帝(シャルルマーニュ)の死後、フランク王国は分裂し、その影響がネーデルラントにも及びました。843年のヴェルダン条約によってフランク王国は三つに分割され、ネーデルラントの大部分はロタール1世が支配する中部フランク王国に属しました。この分割によって地域は政治的に不安定になり、各地で小規模な権力争いが続きます。

 

また、9世紀のネーデルラントはヴァイキングの襲撃を頻繁に受けました。ヴァイキングは沿岸部や川沿いの町や村を略奪し、多くの人々が被害を受けました。特に、フリースランド地方はヴァイキングの攻撃にさらされ、大きな打撃を受けた地域の一つです。これにともない、フランク王国の支配者たちは防衛を強化し、要塞や防壁が築かれましたが、ヴァイキングの侵攻は続きました。

 

それでも、この時期にはキリスト教の影響が強まり続け、教会や修道院が建設され、宗教的な統一が進んでいきます。

 

このように、9世紀のオランダ地域は、フランク王国の分裂とヴァイキングの襲撃による混乱の中で、政治的な不安定さが続きながらも、キリスト教の浸透が進んだ時代だったといえます。

 

10世紀

10世紀のオランダ地域(ネーデルラント)は、フランク王国の分裂後、さらなる政治的な変動の中にありました。この時期、フランク王国は東フランク王国、西フランク王国、中部フランク王国に分割され、ネーデルラントの大部分は東フランク王国の影響下に置かれました。やがて東フランク王国は神聖ローマ帝国へと発展し、ネーデルラントもその一部となりました。

 

また、この時期のネーデルラントでは、ヴァイキングによる襲撃が続いており、沿岸部のフリースランド地方などが頻繁に標的となりました。ヴァイキングの活動は徐々に弱まりますが、彼らの影響は依然として残り、地域社会に大きな混乱をもたらしています。

 

同時に、ネーデルラント地域での封建制度が発展し、地方の有力者が次第に力を持つようになった時代でもありますね。神聖ローマ帝国の統治下にありながら、ネーデルラントの各地で地方領主が実質的な支配権を握るようになり、独自の発展が進んでいったのです。

 

このように、10世紀のオランダ地域は、ヴァイキングの影響と封建制度の進展を背景に、政治的な変動が続く中で、地方領主が力を増していった時代だったといえます。

 

962年 神聖ローマ帝国の成立

東フランク王国(現ドイツの起源)のオットー1世がローマ皇帝として認められ、神聖ローマ帝国が成立した。ネーデルラントもその支配を受けるようになる。またユトレヒト(現オランダの第四の都市)が皇帝の主要な滞在場所となり、商業港として栄えるようになる。

 

11世紀

11世紀のオランダ地域(ネーデルラント)は、封建制度がさらに発展し、地方の領主たちが大きな力を持ち始めた時代です。この時期、ネーデルラントは神聖ローマ帝国の一部でありながらも、各地で伯爵司教が実質的な支配を行うようになりました。特にフランドル伯領やホラント伯領が強い影響力を持ち始め、後のオランダ地域の基盤が形成されていきます。

 

また、11世紀は、干拓事業が本格的に始まった時期でもあります。オランダの多くの地域は低地に位置しており、湿地や沼地が広がっていましたが、この時期から堤防や水路が建設され、土地を開拓する動きが活発化しました。この干拓事業によって、新たな農地が生まれ、地域の経済的基盤が強化。食料の大量生産が可能になり、人口が増加していった上、通貨導入で商業的にも栄えるようになるのです。。

 

宗教面では、ネーデルラントでもキリスト教の影響が強まり、各地に教会や修道院が建設されました。特に、ユトレヒト司教領が宗教的な中心地となり、地域全体の宗教的発展に寄与しました。

 

このように、11世紀のオランダ地域は、地方領主の台頭と干拓事業による土地の開発が進み、経済的・宗教的に大きな発展を遂げた時代だったといえます。

 

12世紀

 

12世紀のオランダ地域(ネーデルラント)は、さらなる政治的発展と経済成長が見られた時代です。この頃、ネーデルラントは依然として神聖ローマ帝国の一部に属していましたが、地方の伯爵領主が実質的な支配を強化し、特にホラント伯領フリースランドが大きな影響力を持つようになっていました。これにともない、地方領主同士の争いも頻繁に起こり、ネーデルラント全体が封建社会として機能しつつ、各地での独自性が強まっていきました。

 

また、12世紀は経済的にも重要な変化があった時期です。特に干拓事業が引き続き進み、新たな土地が開発され、農業生産が増加しました。これに加え、都市の成長も見られ、アムステルダムロッテルダムといった後の主要都市が、商業や交易の拠点として発展し始めたのです。この経済成長は、商業ネットワークの拡大をもたらし、ネーデルラントは国際貿易の重要な一角を占めるようになりました。

 

さらに、宗教面でも発展が続き、キリスト教の影響が強まる中で、修道院の建設が盛んに行われ、地域の精神的な中心地として機能していました。西ネーデルラントが「ホラント」と呼ばれるようになったのもこの時期で、日本語呼びの「オランダ」の語源となりました。

 

このように、12世紀のオランダ地域は、地方領主の力が強まり、経済的・宗教的に成長しつつ、干拓事業や都市の発展が進んだ時代だったといえます。

 

13世紀

13世紀のオランダ地域(ネーデルラント)は、政治的な統合と経済的な発展が進んだ時代です。この頃、ホラント伯領フリースランドユトレヒト司教領など、地方の権力者がさらに力を強め、地域ごとに独立した政治的支配が確立されていきました。特にホラント伯領は、海上交易を通じて影響力を拡大し、経済的にも重要な地位を築きます。一方、フリースランドでは自治的な傾向が強く、中央の統治に対する抵抗も見られました。

 

また、13世紀はオランダの都市化が進んだ時期でもあります。アムステルダムロッテルダムなどの都市が成長し、商業と交易の中心地として発展していきました。これにともない、都市住民の権利や特権が強化され、自治権を得る都市も増えていきます。こうした都市の発展は、オランダがヨーロッパの貿易ネットワークにおいて重要な位置を占めるようになる基盤を作り上げました。

 

このように、13世紀のオランダ地域は、地方領主による政治的支配が進む一方で、都市化と経済成長が著しく、商業と農業が大きく発展した時代だったといえます。

 

1299年 ホラント伯家が断絶

ホラント伯家の断絶に伴い、ホラント伯領はアヴェルニュ家のジャン1世が継承した。この出来事はホラント地域の政治構造に大きな変化をもたらし、中世オランダの領土争いの一因となった。この領地争いはフランドル伯との間の緊張を高め、後の地域政治に影響を与え続けた。

 

14世紀

14世紀のオランダ地域(ネーデルラント)は、政治的混乱と経済的な発展が交錯した時代です。この頃、地域では依然としてホラント伯領フリースランドユトレヒト司教領といった地方の権力者が独立した支配を行っていましたが、内部での権力闘争が激化していました。とりわけ、ホラント伯領では継承問題をめぐる争いが頻繁に発生し、地域の安定を揺るがす原因となりました。

 

一方で、14世紀はオランダ地域の都市化がさらに進展し、商業の拠点としての地位が強化されました。アムステルダムハールレムなどの都市は、海上交易を通じて大きく発展し、ネーデルラントはヨーロッパ内でも重要な交易地となっていきます。特に、ハンザ同盟のネットワークに加わることで、北欧やバルト海地域との商業関係が強まり、経済がさらに成長しました。

 

また、14世紀半ばには黒死病(ペスト)がヨーロッパ全土に広がり、ネーデルラント地域も大きな被害を受けました。多くの人口が失われ、経済的にも打撃を受けましたが、それでも商業と農業は回復し、都市の成長が続きました。

 

このように、14世紀のオランダ地域は、内部の権力闘争や黒死病による困難を抱えながらも、都市化と交易を通じて経済的な発展が進んだ時代だったといえます。

 

1384年 ブルゴーニュ公国によるネーデルラント統一

ブルゴーニュ公国によりネーデルラント一帯が統一され、ブリュゴーニュ領ネーデルラントが成立した。この統一により、地域は政治的な安定と経済的な繁栄を経験し、後の北方ルネサンスの中心地となった。ブリュゴーニュ領ネーデルラントは芸術、商業、文化が花開く一大中心地として発展し、ヨーロッパ内での重要な役割を果たすことになった。

 

近世オランダ

近世になると複数の諸侯が分立支配するようになり、最初にブルゴーニュ家がこれらを統一。ブルゴーニュ家が断絶すると、支配権はハプスブルク家に引き継がれました。ハプスブルク家は16世紀半ばに、オーストリア・ハプスブルク家と、スペイン・ハプスブルク家に分裂し、ネーデルラントの大部分はスペイン・ハプスブルク家の領有となりました。

 

近世は宗教改革が巻き起こった時代でもあります。スペイン・ハプスブルク家はネーデルラントのプロテスタントを弾圧するようになり、これをきっかけに、ネーデルラント独立の機運が生まれました。独立運動の中で、ネーデルラント北部7州によるユトレヒト同盟が結成され、同盟がスペインからの分離独立を宣言したことで、現オランダの基礎となるネーデルランド連邦共和国が成立しました。この独立は30年戦争の講和条約であるウエストファーレン条約の効力により正式なものとなりました。

 

15世紀

15世紀のオランダ地域(ネーデルラント)は、政治的な統合と経済的な繁栄が進んだ時期です。この頃、ブルゴーニュ公国がネーデルラント地域を支配下に収め、地方ごとの独立した支配が次第に統合されていきました。特に、フィリップ善良公シャルル突進公の時代に、ネーデルラント全域がブルゴーニュ領の一部として統治されるようになり、地域全体での政治的安定が強まりました。これにともない、ネーデルラントはフランスやドイツとの間で戦略的にも重要な位置を占めるようになっていきます。

 

一方で、経済面では、海上交易を中心にアムステルダムブルッヘといった都市が急速に発展し、商業活動が繁栄しました。特に、北海やバルト海の交易ルートにおける要所として、ネーデルラントの都市は国際的な商業ネットワークの中心地となり、金融や物流も発展します。また、農業も引き続き拡大し、干拓による土地の開発が進み、地域全体の経済力がさらに強化されました。

 

宗教的には、後半にルネサンスの影響がネーデルラントにも広がり、文化的・知的な発展が見られるようになったことが重要ですね。

 

このように、15世紀のオランダ地域は、ブルゴーニュ公国の統治による政治的統合と、海上交易を中心とした経済的繁栄が進んだ時代だったといえます。

 

1432年 ホラントがブルゴーニュ領ネーデルラントの一部に

1432年にホラントが正式にブルゴーニュ領ネーデルラントに組み込まれたことで、地域的な統合がさらに進んだ。この統合により、ネーデルラント全域で政治的な一体感が強化され、後の経済発展と文化的繁栄の基盤が確固たるものになった。この時期はまた、地域間の交易が活発化し、都市が急速に成長する契機となった。

 

1477年 ネーデルラントがハプスブルク領に

1477年、ブルゴーニュ公家が断絶した後、ネーデルラント地域はハプスブルク家の支配下に入った。この政治的変化は、ネーデルラントがヨーロッパの政治地図の中で新たな位置を占めることになる。ハプスブルク家の統治下で、地域はさらなる経済発展を遂げ、芸術や文化の黄金時代を迎えた。ハプスブルクの保護下で、絵画、彫刻、建築などの芸術分野が特に栄えた。

 

16世紀

16世紀のオランダ地域(ネーデルラント)は、政治的・宗教的な混乱と激しい変化の時代でした。特に、ブルゴーニュ公国の支配が終わり、ネーデルラントはハプスブルク家の支配下に入りました。神聖ローマ皇帝カール5世はネーデルラントを直接統治し、地域の中央集権化を進めましたが、重税や強権的な支配に対する反発が次第に強まっていきます。

 

また、この時期には宗教改革がヨーロッパ全土で広がり、ネーデルラントでもプロテスタントが勢力を拡大しました。特にカルヴァン派が支持を集め、カトリック教会との対立が深まりました。これに対し、カール5世の後を継いだフェリペ2世はカトリックを強く支持し、プロテスタントへの弾圧を強化。この弾圧は、ネーデルラントの住民の反感をさらに高めることになります。

 

その結果、1568年に八十年戦争が勃発し、ネーデルラントはスペイン(ハプスブルク家)に対して独立を求めて戦い始めました。この戦争は長期にわたり、最終的に北部の7州が独立し、ネーデルラント連邦共和国が誕生するきっかけとなるのです。

 

このように、16世紀のオランダ地域は、ハプスブルク家の強権的な支配に対する反発と、宗教改革によるプロテスタントの台頭が絡み合い、八十年戦争が勃発するなど、大きな変革を迎えた時代だったといえます。

 

1545年 ネーデルラント諸州に異端審問官が設置

1545年 ネーデルラント諸州に異端審問官が設置された。この措置はカトリック教会とスペイン王室による強硬な異端弾圧の一環であり、宗教的分派や異端とみなされた運動に対して厳しい対応を取ることを目的としていた。この異端審問の導入は、地域の人々の不満を増大させ、後に八十年戦争へとつながる宗教的、政治的な緊張の火種となった。審問官の活動は多くの市民の命と自由を奪い、ネーデルラントの自治と信教の自由への抵抗感情を強めた。

 

1555年 ネーデルラントがスペイン領に

神聖ローマ皇帝カール5世の退位後に、ハプスブルク領がオーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分割。ネーデルラントはスペイン領となる。

 

1568年 八十年戦争の勃発

1568年、スペインの支配に対するネーデルラントの反乱として八十年戦争が勃発した。この戦争は、ネーデルラントの宗教的、政治的自由を求める戦いであり、最終的に独立を勝ち取るための重要な出来事となった。戦争は激しい戦闘と長期にわたる対立を特徴とし、ネーデルラントの都市と経済に大きな影響を及ぼした。

 

1581年 ネーデルラント連邦共和国の成立

ネーデルラント北部7州で構成される対スペイン軍事同盟「ユトレヒト同盟」を基礎とするネーデルラント連邦共和国が成立。スペイン支配から独立した。南ネーデルラントはスペイン領に残留した。

 

17世紀

17世紀のオランダは、世界史において「黄金時代」として知られる、繁栄と発展の時代でした。八十年戦争を経て独立を果たしたネーデルラント連邦共和国は、政治的にも経済的にも強力な国家へと成長しました。とりわけ、海上貿易が国を支える基盤となり、オランダ東インド会社西インド会社が設立され、アジアやアメリカ大陸との貿易が拡大。オランダは世界的な商業帝国としての地位を確立したのです。

 

また、この時期、オランダは強力な海軍を有し、英蘭戦争(1652年〜1674年)を通じてイギリスと海上覇権を争いました。戦争は激しいものでしたが、オランダはしばしばイギリスに勝利し、その海上での影響力を維持しました。

 

さらに、17世紀のオランダは文化的にも開花の時代であり、レンブラントフェルメールといった画家が活躍し、世界的な名声を得ました。科学や哲学の分野でも、スピノザホイヘンスなどが大きな貢献をし、ヨーロッパ全体に知的影響を与えていますね。

 

このように、17世紀のオランダは、海上貿易と文化の発展を通じて世界的に強い影響力を持ち、「黄金時代」として大きく栄えた時代だったといえます。

 

1602年 オランダ東インド会社が設立

オランダ東インド会社が設立。この会社を介してオランダが世界の香料貿易を牛耳り、海上覇権を確立。オランダ海上帝国を築き上げた。オランダ東インド会社(VOC)は世界初の株式会社として、広範な貿易ネットワークを構築し、アジア、アフリカ、南アメリカにまでその影響を広げた。この時期、オランダは金融、商業、軍事力を駆使して国際的な影響力を強め、17世紀には「黄金時代」を迎えた。

 

1618年 三十年戦争の勃発

カトリックとプロテスタントの対立から史上最大の宗教戦争といわれる「三十年戦争」に発展。ネーデルラント連邦共和国はプロテスタント勢力として参戦した。1648年のヴェストファーレン条約の締結をもって終結。

 

1652年 第一次英蘭戦争の勃発

オランダとイギリスが、植民地や海運・漁業利権をめぐって対立。第一次、第二次(1665年)、第三次(1672年)と3度にわたり英蘭戦争と呼ばれる武力衝突が起こった。最終的にオランダはこの争いに敗れ、海上覇権をイギリスに奪われることになる。

 

1667年 ネーデルラント継承戦争の勃発

フランス王国とスペイン王国の間で、南ネーデルラントの継承権をめぐる武力衝突ネーデルラント継承戦争が発生。この戦争は、フランス王ルイ14世がスペイン領ネーデルラントの継承権を主張したことで始まった。戦争は激しい戦闘を伴い、ネーデルラント地域全体に大きな影響を与えた。最終的に1668年のアーヘンの和約で終結し、フランスはいくつかの領土を獲得したが、完全な支配権を確立することはできなかった。

 

近代オランダ

17世紀から18世紀にかけてのオランダは、東インド会社を通してアジア香辛料利権を独占し、一時は「オランダ海上帝国」を築き上げるなど、世界有数の商工業国家として繁栄を謳歌しました。しかしそんな黄金時代は長くは続かず、英蘭戦争などに代表する外国との国際紛争が続いたことで衰退していきました。

 

18世紀末、フランス革命戦争の中でネーデルラント一帯がフランス軍に占領され、代わりにバタヴィア共和国、ホラント王国といったフランスの衛星国に支配されたが、ナポレオン戦争におけるフランスの敗北とともに解放された。19世紀になるとベルギー、ルクセンブルクがオランダから分離独立したことで現在のオランダの国境がほぼ確定しました。

 

18世紀

18世紀のオランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、前世紀の「黄金時代」と比べると、徐々に衰退していく時期でした。特に、オランダの経済的・政治的な地位は、強力なライバルであるイギリスフランスの台頭により弱まっていきました。英蘭戦争(17世紀末まで続いた戦争)や18世紀の対フランス戦争により、オランダの海上貿易は大きく打撃を受け、商業帝国としての勢力は低下していったのです。

 

また、国内ではオランダ総督をめぐる対立がありました。オランダはもともと地方ごとの自治が強い連邦国家でしたが、オランダ総督の権力を巡ってオラニエ家(総督派)と共和派の間で争いが続き、政治的な安定が失われていきました。この内部分裂は、フランスやイギリスの影響力が増す中で、オランダが国際的に苦しい立場に追い込まれる一因となりました。

 

さらに、18世紀後半にはフランス革命の波がオランダにも及び、1795年にバタヴィア共和国が成立し、オランダはフランスの影響下に入ることとなります。

 

このように、18世紀のオランダは、国際的な競争に敗れ、内部分裂と経済の衰退が進む一方、フランス革命によって大きな政治的変化を迎える時代だったといえます。

 

1775年 アメリカ独立戦争の勃発

イギリス植民地のアメリカにおいて、本国の重商主義政策への反発から、イギリス支配からの独立を目指すアメリカ独立戦争が始まる。オランダはアメリカ合衆国の国旗に敬意を評した最初の国となった。

 

1780年 第4次英蘭戦争の勃発

アメリカ独立戦争の最中、オランダがイギリスの敵対国アメリカへの支援を続けたことで、イギリスの反感を買い、第四次英蘭戦争に発展した。

 

1789年 フランス革命

フランスで市民革命が勃発し、ブルボン王朝が崩壊。

 

1792年 フランス革命戦争の勃発

フランス革命における革命勢力の増長を危惧したヨーロッパ諸外国が、フランスに干渉。フランス革命政府がオーストリアに宣戦布告したことでフランス革命戦争に発展した。

 

1795年 ネーデルラント連邦共和国の崩壊

ネーデルラント連邦共和国にフランス革命軍が侵攻。ネーデルラント連邦共和国が崩壊した。跡地にはフランスの衛星国バタヴィア共和国が成立した。

 

19世紀

19世紀のオランダは、政治的にも経済的にも大きな変革を迎えた時代です。18世紀末にフランスの影響下でバタヴィア共和国が成立し、その後ナポレオンの支配によりホラント王国(1806年〜1810年)が設立されましたが、これは短命に終わり、オランダはフランス帝国に併合されます。しかし、ナポレオンの敗北後、1815年のウィーン会議によりオランダは独立を回復し、ネーデルラント連合王国が成立しました。この新しい王国は現在のオランダとベルギー、ルクセンブルクを含む広大な領域を統治していました。

 

しかし、1830年にベルギー独立革命が勃発し、ベルギーがオランダから分離して独立します。これにより、オランダはその領土を失うものの、安定した国として再び歩み始めました。

 

また、19世紀はオランダで産業革命が進行した時期でもあります。新たな技術の導入により、工業や農業が発展し、特に港湾都市であるロッテルダムアムステルダムが再び商業的に重要な位置を占めるようになりました。

 

このように、19世紀のオランダは、ナポレオン戦争後の独立回復とベルギーの分離を経て、産業革命を通じて新たな経済発展を遂げた時代だったといえます。

 

1803年 ナポレオン戦争の勃発

クーデターにより政権を握ったフランスのナポレオン・ボナパルトがヨーロッパ征服戦争を開始する。

 

1806年 ホラント王国の成立

皇帝ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトが、バタヴィア共和国の国王に即位。ホラント王国が成立。国名はネーデルラント連邦共和国において中心都市であったホラント州に由来。1810年にフランスに併合された。

 

1808年 フェートン号事件の発生

オランダ商船を追ってきたイギリス軍艦フェートン号が、日本の長崎港に侵入する「フェートン号事件」が発生。

 

オランダはナポレオン戦争の最中、フランス軍に征服され、事実上ナポレオンの傀儡となりました。イギリスがオランダ商船を追っていたのは、オランダがイギリスの敵対国となったことによるものです。遠いヨーロッパで起こったナポレオン戦争の余波が、極東の日本にも現れたのですね。

 

1815年 ネーデルラント連合王国の成立

ナポレオン戦争後にウィーン会議が開催され、ヨーロッパの領土の再分割が行なわれた。その結果現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを領土にもつネーデルラント連合王国が成立した。

 

1830年 ベルギー独立革命の勃発

ネーデルラント連合王国の構成国ベルギーがブリュッセルで反乱を起こし、独立を宣言。独立を認めない立場だったオランダだが、1839年のロンドン条約で承認した。

 

20世紀前半

20世紀前半のオランダは、激動の国際情勢の中で、中立と戦争の間を行き来した時代でした。特に、第一次世界大戦(1914年〜1918年)では、オランダは中立を維持しました。ヨーロッパ全土が戦火に包まれる中、オランダは戦争への直接的な介入を避けることに成功し、国内は比較的平穏を保ちました。しかし、近隣諸国からの難民が押し寄せ、経済や社会に大きな負担がかかりました。

 

一方、1930年代には世界的な経済恐慌の影響を受け、オランダも深刻な不況に見舞われます。失業率が急増し、社会的な不安が高まる中、極右や極左の政治運動も活発化しました。オランダ政府は経済危機への対応に追われ、国の安定が揺らぎました。

 

そして、第二次世界大戦が勃発すると、再び中立政策を取りますが、1940年にナチス・ドイツによる侵攻を受け、オランダは占領されました。オランダ国王や政府は亡命し、国内では抵抗運動が起こる一方で、厳しい占領統治が行われ、特にユダヤ人が大量に迫害されました。

 

このように、20世紀前半のオランダは、戦争と経済危機の中で中立を模索しつつも、ナチス・ドイツの占領という試練に直面し、その影響が国全体に深く残った時代だったといえます。

 

1939年 第二次世界大戦の勃発

ドイツ軍がポーランドを侵攻し、第二次世界大戦が勃発。オランダは中立の立場を表明したが、1940年ドイツ軍の侵攻を受けた。

 

1941年 太平洋戦争が勃発

日本の真珠湾奇襲を皮切りに太平洋戦争が勃発。オランダは日本に対し宣戦布告した。

 

1945年 第二次世界大戦終結

ナチスドイツ、日本が降伏し、連合軍の勝利で第二次世界大戦が終結する。オランダは戦勝国となった。

 

現代オランダ

戦後は北大西洋条約機構(NATO)に加盟、ベルギー・ルクセンブルクベネルクス経済同盟(欧州共同体の起源)を結成するなど、ヨーロッパをリードする先進国の一つとして強い存在感を放つようになりました。

 

20世紀後半

20世紀後半のオランダは、戦後の復興と経済成長、そして国際的な協力を強化していった時代です。第二次世界大戦後、オランダは荒廃した経済を立て直すためにマーシャル・プランの支援を受け、急速な復興を遂げました。1949年にはNATO(北大西洋条約機構)に加盟し、冷戦下で西側諸国との協力体制を強化しました。また、1957年には欧州経済共同体(EEC)の創設メンバーとなり、ヨーロッパ統合に積極的に関与するようになります。

 

一方で、国内では大きな変化もありました。1949年に植民地であったインドネシアが独立を果たし、これによってオランダは長い植民地支配に終止符を打ちました。また、1960年代には福祉国家の構築が進み、医療や教育、住宅政策などが強化され、オランダ国民の生活水準は大幅に向上しました。

 

1970年代には、世界的な石油危機の影響で経済が停滞し、失業率が上昇するなどの課題にも直面しましたが、これを乗り越えて安定を取り戻します。さらに、オランダは社会的にも進歩的な姿勢を見せ、1980年代から90年代にかけては同性愛安楽死麻薬政策などの面でリベラルな政策を導入し、世界的にも注目されました。

 

このように、20世紀後半のオランダは、戦後復興と経済成長を遂げ、国際的な協力を強化する一方、社会的にも進歩的な改革を進めた時代だったといえます。

 

1948年 ユリアナ女王即位

ユリアナが母ウィルヘルミナから王位を継承。彼女の即位は戦後の復興と新しい時代の始まりを象徴し、人道主義者としても知られた。

 

1949年 NATO加盟/インドネシア独立承認

オランダは北大西洋条約機構(NATO)の創設メンバーとして加盟し、集団防衛体制の一部となる。またインドネシアの独立を承認し、長年の植民地支配に終止符を打つ。

 

1954年 オランダ王国憲章の公布

1954年、オランダ王国憲章が公布され、オランダ本国、オランダ領アンティル、アルバの間に新たな関係が定められた。これにより、これらの地域はオランダ王国内で平等な構成部分となり、それぞれが内部自治権を持つことが認められた。この憲章は、王国の統治構造を改編し、植民地支配から自治領への移行を象徴するものであった。旧植民地との関係が平和的に再構築され、各地域の自主性が尊重されるようになった。オランダ王国憲章の公布は、オランダとその海外領土の関係を根本的に変える重要な節目となった。

 

1962年 ニューギニア問題解決

西ニューギニアをインドネシアに譲渡し、紛争を解決。これにより、オランダは長年の植民地支配を終え、インドネシアとの関係を正常化させることができた。

 

1966年 ベアトリクス王女結婚

ベアトリクス王女(後の女王)がクラウス・フォン・アムスベルクと結婚。この結婚は国内外で注目を集め、オランダ王室の現代化と国際的な連携を象徴する出来事となった。

 

1980年 ベアトリクス女王即位

ユリアナ女王が退位し、ベアトリクスが即位。ベアトリクス女王の即位は、オランダの近代化と国民統合の象徴であり、彼女の治世は国内の安定と繁栄をもたらした。

 

1980年代 経済改革

経済改革が実施され、労働市場の自由化と福祉制度の見直しが行われる。オランダは、経済の再構築と成長を目指した政策を推進。

 

1992年 マーストリヒト条約調印

欧州連合(EU)の設立条約であるマーストリヒト条約に調印。これにより、オランダは欧州統合に積極的に参加し、政治的および経済的な結束を深める重要な一歩を踏み出した。

 

1999年 ユーロ導入

オランダがユーロを正式な通貨として導入。これにより、欧州連合内での経済統合が強化され、加盟国間の貿易と投資が促進された。ユーロの導入は、オランダ経済に安定と成長をもたらした。

 

21世紀

21世紀のオランダは、国際的な協力、社会的進歩、そして多様性を推進する国として発展を続けています。経済面では、EU(欧州連合)の一員として安定した成長を維持し、特にロッテルダム港アムステルダム・スキポール空港が国際貿易と物流のハブとして重要な役割を果たしています。また、技術革新や環境対策にも積極的に取り組んでおり、再生可能エネルギーの導入や水管理技術が世界的に評価されています。

 

さらに、オランダは社会的にリベラルな政策を引き続き推進しています。2001年には、世界で初めて同性婚を合法化し、LGBTQ+の権利拡大においてリーダーシップを発揮しました。加えて、麻薬政策や安楽死に関する法制度でも進歩的な立場を取り、国際的に注目されています。

 

一方で、21世紀には移民問題や、気候変動による海面上昇への対応など、新たな課題にも直面しています。移民の増加に伴う社会的分断や、ポピュリズムの台頭が政治的議論を引き起こしていますが、オランダは多様性を尊重しながら解決を模索しているのです。

 

このように、21世紀のオランダは、経済成長と技術革新を続ける一方、リベラルな社会政策を推進し、新たな課題にも対応しながら発展を続けている時代といえます。

 

2002年 ウィレム=アレクサンダー王太子結婚

ウィレム=アレクサンダー王太子(後の国王)がマキシマ・ソレギエタと結婚。この結婚は国内外で大きな話題となり、オランダ王室の新時代の幕開けを象徴する出来事となった。

 

2004年 テオ・ファン・ゴッホ暗殺

映画監督テオ・ファン・ゴッホがイスラム過激派により暗殺され、国内外で大きな衝撃を与える。この事件はオランダ社会における宗教的緊張と移民問題に対する議論を激化させた。

 

2013年 ウィレム=アレクサンダー国王即位

ベアトリクス女王が退位し、息子のウィレム=アレクサンダーが即位。彼はオランダ初の国王となり、新たな時代の象徴としての役割を担った。

 

2015年 オランダの同性婚合法化10周年

オランダは同性婚を合法化した最初の国であり、この年に10周年を迎える。この節目は、LGBTQ+の権利擁護と平等に向けたオランダの先進的な姿勢を再確認する機会となった。

 

2020年 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)パンデミック

オランダも他国同様にパンデミックの影響を受け、ロックダウンや公共衛生対策を実施。経済的な影響や医療体制の逼迫など、深刻な課題に直面した。

 

2021年 総選挙

総選挙で、マルク・ルッテ首相率いる自由民主党(VVD)が勝利し、政権を維持。この選挙結果は、ルッテ政権の継続と政治的安定を示すものとなった。

 

オランダの歴史は多様な発展と変革を経てきた。古代には、ケルト系やゲルマン系の部族が現在のオランダ地域に定住し、ローマ帝国の影響を受けた。西ローマ帝国の崩壊後、フランク王国の一部となり、キリスト教が広まる。中世には、自治都市が発展し、商業と貿易が繁栄。特にアムステルダムやロッテルダムが重要な商業都市となった。ブルゴーニュ公国やスペインの支配を経て、16世紀後半には八十年戦争を通じてスペインから独立し、オランダ共和国が成立する。

 

17世紀には「黄金時代」を迎え、科学、芸術、経済が大いに栄えた。18世紀後半から19世紀にかけてはフランス革命戦争やナポレオン戦争の影響を受け、フランスの支配下に入るが、1815年のウィーン会議で独立を回復。19世紀末から20世紀初頭にかけて、工業化が進み、国際貿易が再び活発化する。

 

第二次世界大戦ではナチス・ドイツに占領されるが、1945年に解放され、戦後の復興を遂げる。1949年にはNATOに加盟し、欧州統合に積極的に参加。1999年にはユーロを導入し、経済的な結びつきを強化。現代のオランダは、エネルギー政策や環境問題への対応、社会的進歩(例えば同性婚の合法化)などで先進的な国として知られている。