ベルギーの国旗
ベルギーの国土
ベルギー(正式名称:ベルギー王国)は、西ヨーロッパの北はオランダ、東はドイツ、南はフランスに隣接する北海沿岸 に位置する立憲君主 制国家です。国土は オランダ語の一種であるフラマン語が公用語の北部フランデレン地域と、フランス語が公用語の南部ワロン地域にほぼ二分される形で構成され、気候区は西岸海洋性気候 に属しています。首都はEUの主要機関が多く置かれる「EUの首都」 として知られる ブリュッセル。
この国ではとくに製造業 が発達しており、中でもチョコレートやベルギーワッフルなど加工菓子の生産がさかんです。また世界の原石の約70%がアントウェルペンで取引されていること を背景にしたダイヤモンド加工業もこの国の基幹産業となっています。
そんな ベルギーの歴史は、16世紀にブルゴーニュ領ネーデルラントに建設された現在のオランダ、ルクセンブルク、フランスとドイツの一部を含むネーデルラント17州から始まるといえます。ネーデルラントはその後八十年戦争により北のネーデルラント連邦共和国(オランダ)と南ネーデルラント(ベルギー、ルクセンブルク)の二つに分裂するも、19世紀初頭のナポレオン戦争の結果統合されネーデルラント連合王国が成立。しかしその後ベルギー独立革命でベルギーが連合からの分離独立を宣言。それが1831年ロンドン会議で独立・永世中立が国際的に認められて現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなベルギーの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
古代ヨーロッパにおいて、現在のフランス、ベルギー、スイスなどを含んだ地域はガリアと呼ばれ、その中でも現ベルギーにあたるガリア北東部は「ベルガエ」と呼ばれ、ゲルマン人とケルト人の混血部族ベルガエ人が暮らしていました。しかし前1世紀にユリウス・カエサル率いるローマ軍の侵攻を受け、ベルガエ人はローマに支配されるようになりました。
前1750年頃から骨壺墓地文化、ハルシュタット文化、ラ・テーヌ文化などが栄えた。
前500年頃からケルト人が定住を開始。地中海沿岸地域との貿易を行なうようになる。
前150年頃から硬貨の流通が始まった。
ローマのユリウス・カエサルにより征服され「ガリア・ベルギカ」というローマ属州になる。
1世紀になると、ガリア属州の再構成が行われ、ガリア・ベルギカはゲルマニア・インフェリオル、ゲルマニア・スペリオルという地域に分割される。現ベルギーはゲルマニア・インフェリオルの方に含まれた。
4世紀になるとベルギーにもキリスト教が伝来した。
西ローマ帝国崩壊後は、フランドル伯爵やブラバント公国の一部を形成していましたが、15世紀からはブルゴーニュ家、ハプスブルク家などの支配を受けるようになります。
フランク王国(現フランスの祖)初代王クロヴィス1世が、現ベルギー領トゥルネーに生まれる。
ガリア地域を統一したクロヴィス1世が即位し、メロヴィング朝フランク王国が成立。ガリア・ベルギカの領域もその支配下に入り、王国の中心地となった。
9世紀に入ると、北欧出身のヴァイキングによる略奪を受けるようになる。
ヴェルダン条約によりフランク王国の国土が3分割され、ベルギー西部を含むフランドル地方は中フランク王国の支配下になる。
フランドル地方(ベルギー・フランス北部にまたがる地域)を支配したフランドル伯が成立する。
3分割されたフランク王国の国土を、改めて再編成するメルセン条約により、フランドル地方の大部分が西フランク王国が併合。
11世紀になるとベルギーを流れるムーズ川流域でモザン美術が栄えるようになる。様々な優れた芸術作品が生まれ、フランク王国における芸術の中心地となった。
12世紀になると織物業が発展し、ベルギーは北西ヨーロッパの経済の要となった。
13世紀になると神聖ローマ帝国の力が弱まったことで、フランスやイングランドの干渉を受けるようになる。その流れでフランドル伯(現在のベルギー北部)がフランスに併合された。
14世紀に入るとブルゴーニュ公国により、現ベルギー、オランダ、ルクセンブルクにあたる地域が政治的に統一され、ネーデルラント(低地地方)と呼ばれるようになった。
15世紀に入り、ブリュッセル、アントウェルペンなどで商業化・工業化が加速した。
婚姻によりネーデルラントがハプスブルク家領になる。
ネーデルラントの諸侯が連合を組み、ネーデルラント17州(正式名称「ベルギカ・レギア」)が成立。ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、フランス北部、ドイツの一部などを含んだ。
宗教改革が起こり、ネーデルラント17州でもカトリックとプロテスタントの宗教的分裂が発生。
ネーデルラントにおける宗教的対立にスペインが介入し、八十年戦争(1568年〜1648年)に発展。結果、現ベルギーのほとんどで、カトリック優勢の南ネーデルラントが、スペインにより征服された。
ネーデルラントの北部諸州が独立宣言を発し、ネーデルラント連邦共和国が成立。
南ネーデルラント総督に任命されたスペイン軍人のファルネーゼが、ベルギーの陥落作戦を敢行。ベルギー全域をスペインの支配下におくことに成功した。
スペイン継承戦争の講和条約・ユトレヒト条約で南ネーデルラントはオーストリア・ハプスブルク家の支配下に置かれることになった。
オーストリアの中央集権的政策に対して、フランス革命に刺激された民衆が蜂起を起こす(ブラバント革命)。南ネーデルラントがベルギー合衆国として独立を宣言するも、まもなくしてオーストリア軍に鎮圧されてしまった。
オーストリアがフランスとの戦争に敗れ、今度はフランスに占領される。
19世紀には、ナポレオン戦争の戦後処理の為に開かれた、ウイーン会議において、フランスの再拡張を抑えるための緩衝地帯としてオランダに併合されます。しかしその後オランダからの分離独立を決定し、現在に続くベルギー王国が成立したのです。20世紀になると第一次大戦、第二次大戦と二度の大戦でドイツから侵攻を喰らう憂き目にあいますが、最終的にはどちらも連合国が勝利したため解放されています。
ナポレオン戦争終結後のウィーン会議で、南ネーデルラント(=ベルギー)はオランダ(ネーデルラント連合王国)の支配下に置かれることが決定。
ワロン地域(ベルギーの南半分)を中心に産業革命が始まる。
オランダからの独立を求め、ブリュッセルを中心にベルギー独立革命が始まった。ヨーロッパ列強の支持もあり、立憲君主制の主権国家ベルギー王国として独立が果たされた。
イギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、ロシア立ち合いのもと、オランダがベルギーの独立を承認。完全なる独立が果たされた。
ベルギー国王レオポルト2世により、アフリカ・ザイール川流域地帯に「コンゴ自由国」が建設された。しかし国家とは名ばかりのレオポルト2世個人の私有地に過ぎず、国王は現地に圧政をしき、従わない現地住民には手足を切り落とすなど残酷な刑罰を加えた。とことん搾取と暴力による支配に徹したため国際的な非難を浴びた。
20世紀になると言語法を制定して南北に言語地域を二分します。その後さらに言語境界線が設けられ、それぞれに自治が付与。20世紀終わりには各地域政府とオランダ語、フランス語、ドイツ語の各言語共同体政府から成る連邦国家へ移行する憲法を制定し、ベルギー王国は世界でも珍しい連邦立憲君主制国家としての歩みを進めることとなったのです。
国王の暴政とそれによる国際社会からの非難を受けて、ベルギー政府がベルギー国王からコンゴを買取る。ここにベルギーの海外植民地としてベルギー領コンゴが成立し、現地の状況は多少改善された。
第一次世界大戦が勃発し、ドイツが中立国ベルギーに侵攻。これを受けたイギリスが、ロンドン条約の規定に従いドイツに宣戦布告。
ドイツが降伏し、ベルギーが解放される。
ベルギー最大の都市であるアントウェルペンにて夏季オリンピックが開催された。競技場は第一次世界大戦で焦土となったところに急遽建造された。
ベルギーは中立政策をとろうとするも、ナチス・ドイツの侵攻を受ける。ドイツ軍を押し返せず降伏。ベルギー政府はイギリスに亡命。
連合軍によりベルギーが解放される。
ベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)による経済同盟「ベネルクス関税同盟」が発効された。また同じ年に北大西洋条約機構の先駆とされるブリュッセル条約が締結された。
本部をブリュッセルに置く北大西洋条約機構に加盟。
ベルギー領コンゴがコンゴ共和国としてベルギーからの独立を宣言。同時に独立に反対するベルギー人に対する暴動が発生し、これにベルギー軍が介入したことから、コンゴ動乱が開始された。
ベルギーの首都ブリュッセルにて、ISILによる連続爆破テロ事件が発生。犯人3名含め、35名が死亡する。
|
|
|
|