ベルギーの歴史年表

ベルギーの国旗

 

ベルギーの国土

 

ベルギー(正式名称:ベルギー王国)は、西ヨーロッパの北はオランダ、東はドイツ、南はフランスに隣接する北海沿岸 に位置する立憲君主 制国家です。国土は オランダ語の一種であるフラマン語が公用語の北部フランデレン地域と、フランス語が公用語の南部ワロン地域にほぼ二分される形で構成され、気候区は西岸海洋性気候 に属しています。首都はEUの主要機関が多く置かれる「EUの首都」 として知られる ブリュッセル

 

この国ではとくに製造業 が発達しており、中でもチョコレートやベルギーワッフルなど加工菓子の生産がさかんです。また世界の原石の約70%がアントウェルペンで取引されていること を背景にしたダイヤモンド加工業もこの国の基幹産業となっています。

 

そんな ベルギーの歴史は、16世紀にブルゴーニュ領ネーデルラントに建設された現在のオランダ、ルクセンブルク、フランスとドイツの一部を含むネーデルラント17州から始まるといえます。ネーデルラントはその後八十年戦争により北のネーデルラント連邦共和国(オランダ)と南ネーデルラント(ベルギー、ルクセンブルク)の二つに分裂するも、19世紀初頭のナポレオン戦争の結果統合されネーデルラント連合王国が成立。しかしその後ベルギー独立革命でベルギーが連合からの分離独立を宣言。それが1831年ロンドン会議で独立・永世中立が国際的に認められて現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなベルギーの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

ベルギーの歴史年表

 

古代ベルギー

古代ヨーロッパにおいて、現在のフランス、ベルギー、スイスなどを含んだ地域はガリアと呼ばれ、その中でも現ベルギーにあたるガリア北東部は「ベルガエ」と呼ばれ、ゲルマン人とケルト人の混血部族ベルガエ人が暮らしていました。しかし前1世紀にユリウス・カエサル率いるローマ軍の侵攻を受け、ベルガエ人はローマに支配されるようになりました。

 

カエサルの「ガリア戦記」によれば、ベルガエは特に勇敢であり、ローマ軍との数多くの戦いで抵抗を示しましたが、結局はローマの支配下に入り、ローマ文化が導入され、都市が建設されるなど、地域全体のローマ化が進みました。これにより、農業、商業、そして行政が発展し、ガリア・ベルギカと呼ばれる新たな行政区画が形成され、その後の数世紀にわたってローマ帝国の重要な一部となりました。

 

前18世紀

前1750年頃から骨壺墓地文化、ハルシュタット文化、ラ・テーヌ文化などが栄えた。これらの文化は、ベルギー地域における初期の社会構造や技術の発展に大きく寄与し、後のケルト人やローマ人の到来に備えた基盤を築いた。

 

前5世紀

前500年頃からケルト人が定住を開始。地中海沿岸地域との貿易を行なうようになる。ケルト人の到来は、ベルギーの地に新しい技術や文化をもたらし、地域の発展を促進した。彼らは農業や金属加工を発展させ、社会組織を形成していった。

 

前2世紀

前150年頃から硬貨の流通が始まった。硬貨の使用は、地域の経済活動を活性化させ、商業の発展を促進した。これにより、ベルギーの地は交易の中心地としての地位を確立し、他のヨーロッパ地域との交流が増えた。

 

前1世紀

前57年 ローマ属州になる

ローマのユリウス・カエサルにより征服され「ガリア・ベルギカ」というローマ属州になる。この征服により、ベルギー地域はローマ帝国の一部となり、ローマの法制度やインフラが導入された。ローマの統治下で道路や都市が建設され、経済や文化が発展した。ガリア・ベルギカはローマ帝国の重要な辺境地域として繁栄し、ローマ文化と地元文化が融合する独特の文化を形成した。

 

1世紀

1世紀になると、ガリア属州の再構成が行われ、ガリア・ベルギカはゲルマニア・インフェリオル、ゲルマニア・スペリオルという地域に分割される。現ベルギーはゲルマニア・インフェリオルの方に含まれた。

 

4世紀

4世紀になるとベルギーにもキリスト教が伝来した。ローマ帝国の影響下でキリスト教は徐々に広まり、ベルギー地域の宗教的、文化的な変革をもたらした。キリスト教の布教に伴い、多くの教会や修道院が建設され、地域社会の中心となった。これにより、ベルギーの社会構造や価値観にも大きな影響を与え、後の中世ヨーロッパにおける重要なキリスト教地域の一つとなった。

 

中世ベルギー

中世ベルギーは、西ローマ帝国の崩壊後、様々なフランク王国の一部として発展しました。フランドル伯爵やブラバント公国といった封建領主の支配下で、特にフランドル地域は織物産業で栄え、ヨーロッパ全域への貿易が活発に行われました。この経済的繁栄は、中世ヨーロッパの都市の中でも特に豊かな文化と商業の中心地を形成しました。

 

また、ブルゴーニュ公の時代には、政治的な影響力も増大し、芸術や文化が花開いた時期でもあります。しかし、15世紀にはハプスブルク家の支配を受け、後にスペインハプスブルク家による統治が始まると、宗教対立が激化しました。この地域は、独自の封建制度と発展した商業活動が交錯する複雑な社会構造を持つ地域として、ヨーロッパ中世史の中で重要な役割を果たしました。

 

5世紀

466年頃 ベルギーにてクローヴィス1世が生まれる

フランク王国(現フランスの祖)初代王クロヴィス1世が、現ベルギー領トゥルネーに生まれる。クローヴィス1世は後にフランク王国を統一し、メロヴィング朝を創始した。彼の治世中にキリスト教への改宗が進み、フランク王国のキリスト教化を促進した。クローヴィス1世の業績は、西ヨーロッパの歴史において重要な転換点となり、後のヨーロッパの国家形成に大きな影響を与えた。

 

481年 メロヴィング朝フランク王国の成立

ガリア地域を統一したクロヴィス1世が即位し、メロヴィング朝フランク王国が成立。ガリア・ベルギカの領域もその支配下に入り、王国の中心地となった。クロヴィス1世はキリスト教に改宗し、カトリック教会との結びつきを強化することで、国内の安定と統一を図った。これにより、メロヴィング朝は西ヨーロッパの主要な勢力となり、ベルギー地域も文化的、経済的に発展する重要な拠点となった。

 

9世紀

9世紀に入ると、北欧出身のヴァイキングによる略奪を受けるようになる。ヴァイキングはベルギー地域の沿岸部や河川沿いの都市を襲撃し、略奪や破壊を行った。この侵略は地域の経済と社会に大きな混乱をもたらしたが、一方で防衛体制の強化や都市の要塞化を促進するきっかけともなった。ベルギーの人々はヴァイキングに対抗するために団結し、地域の防衛力を強化する取り組みを進めた。

 

843年 ヴェルダン条約

ヴェルダン条約によりフランク王国の国土が3分割され、ベルギー西部を含むフランドル地方は中フランク王国の支配下になる。この分割は、カール大帝の死後、その帝国を3人の孫たちに分配するものであり、ベルギー地域もその影響を受けた。

 

864年 フランドル伯領の成立

フランドル地方(ベルギー・フランス北部にまたがる地域)を領土とするフランドル伯領が成立する。フランドル伯は、この地域の防衛と統治を担い、経済的繁栄と文化的発展を促進した。フランドル伯領は後に重要な貿易拠点となり、中世ヨーロッパにおいて大きな影響力を持つようになる。

 

870年 メルセン条約

3分割されたフランク王国の国土を、改めて再編成するメルセン条約により、フランドル地方の大部分が西フランク王国に併合。この条約は、再度フランク帝国の領土を再編成し、西フランク王国(後のフランス王国)の領土が拡大した。ベルギー地域はこの時期に政治的な変動を経験しつつも、地域の経済と文化の発展を続けた。

 

11世紀

11世紀になるとベルギーを流れるムーズ川流域でモザン美術が栄えるようになる。様々な優れた芸術作品が生まれ、フランク王国における芸術の中心地となった。この時期、教会や修道院の建設が盛んに行われ、宗教芸術や彫刻、金工品などの分野で高い評価を受ける作品が数多く制作された。

 

12世紀

12世紀になると織物業が発展し、ベルギーは北西ヨーロッパの経済の要となった。特にフランドル地方の都市ブルージュやヘントは、織物の生産と貿易の中心地として繁栄し、地域の富と影響力を高めた。ベルギーの織物製品は高品質で知られ、ヨーロッパ各地に輸出されるようになった。この経済的繁栄は、都市の発展と市民社会の形成を促進し、ベルギーの中世史における重要な転機となった。

 

13世紀

13世紀になると神聖ローマ帝国の力が弱まったことで、フランスやイングランドの干渉を受けるようになる。その流れでフランドル伯(現在のベルギー北部)がフランスに併合された。

 

14世紀

14世紀に入るとブルゴーニュ公国により、現ベルギー、オランダルクセンブルクにあたる地域が政治的に統一され、ネーデルラント(低地地方)と呼ばれるようになった。

 

15世紀

15世紀に入り、ブリュッセル、アントウェルペンなどで商業化・工業化が加速した。特にアントウェルペンは国際的な貿易都市として発展し、ヨーロッパの商業の中心地となった。この時期、ベルギーは経済的な繁栄を迎え、金融、織物、造船など多岐にわたる産業が成長した。商業の発展に伴い、都市の文化や教育も充実し、ルネサンスの影響を受けた芸術や学問が花開いた。この経済的および文化的な成長は、ベルギーがヨーロッパの重要な地域としての地位を確立する要因となった。

 

1477年 ハプスブルク家の支配下に

婚姻によりネーデルラントがハプスブルク家領になる。ブルゴーニュ公国のマリーと神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の結婚によって、ベルギー地域を含むネーデルラントはハプスブルク家の支配下に入ることとなった。この婚姻は、ヨーロッパの政治地図を大きく変え、ハプスブルク家の影響力をヨーロッパ全体に拡大させる重要な契機となった。

 

ハプスブルク家の支配下で、ベルギーの商業と経済はさらに発展し、地域はヨーロッパの重要な政治・経済の中心地としての地位を強固にしました。

 

近世ベルギー

近世ベルギーは、16世紀から18世紀にかけて、ハプスブルク家の支配を受ける時代でした。この時期、ベルギー地域はスペインハプスブルク家と後にオーストリアハプスブルク家の間で支配が移り変わりました。

 

特にスペインの支配下では、宗教改革の影響でカトリックとプロテスタント間の対立が激化し、ネーデルラント独立戦争(八十年戦争)が発生しました。北部地域(現在のオランダ)は独立を果たすものの、南部地域(現在のベルギー)はカトリック勢力の拠点として残りました。

 

オーストリア支配時代には比較的安定し、経済的にも復興しましたが、フランス革命戦争の際にはフランスの支配を受けることになります。この時代のベルギーは政治的に不安定でありながらも、経済的な発展と文化の隆盛が見られた地域です。

 

16世紀

1549年 ネーデルラント17州が成立

ネーデルラントの諸侯が連合を組み、ネーデルラント17州(正式名称「ベルギカ・レギア」)が成立。ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、フランス北部、ドイツの一部などを含んだ。この連合は、各州の自治権を尊重しながらも、共同での政治的、経済的な活動を行うための枠組みを提供した。ネーデルラント17州はヨーロッパの重要な商業地域として繁栄し、経済的にも文化的にも大きな影響力を持つ地域となった。

 

特にアントウェルペンやブリュッセルなどの都市は、貿易や金融の中心地として栄え、地域全体の発展を牽引しました。

 

1517年 宗教改革の開始

宗教改革が起こり、ネーデルラント17州でもカトリックとプロテスタントの宗教的分裂が発生。マルティン・ルターの95箇条の提題が発端となり、宗教改革の波はネーデルラントにも及んだ。この時期、地域社会はカトリック教会と新興のプロテスタントの間で深刻な対立を経験し、宗教的な緊張が高まった。宗教改革は、ネーデルラントの社会構造や政治体制に大きな変革をもたらし、後の独立戦争や地域の自治運動に影響を与えた。宗教的対立は、経済や文化にも波及し、多くの芸術家や知識人がプロテスタント運動に影響を受け、新たな思想や文化が育まれた。

 

1568年 八十年戦争の勃発

ネーデルラントにおける宗教的対立にスペインが介入し、八十年戦争(1568年〜1648年)に発展。結果、現ベルギーのほとんどで、カトリック優勢の南ネーデルラントが、スペインにより征服された。この戦争は、ネーデルラントの独立運動とスペインの支配維持をめぐる激しい闘争であり、地域の経済と社会に深刻な影響を及ぼした。

 

1581年 ネーデルラント連邦共和国の成立

ネーデルラントの北部諸州が独立宣言を発し、ネーデルラント連邦共和国が成立。この新しい共和国は、スペインの支配からの独立を目指し、自治と宗教的自由を強調した。北部諸州の独立は、ヨーロッパにおける独立運動の先駆けとなり、その後の政治的変革に大きな影響を与えた。

 

1585年 スペインに併合される

南ネーデルラント総督に任命されたスペイン軍人のファルネーゼが、ベルギーの陥落作戦を敢行。ベルギー全域をスペインの支配下におくことに成功した。スペインの統治下で、南ネーデルラントは再びカトリックの影響を強く受け、地域の宗教的および政治的状況は大きく変化した。スペインの支配は、ベルギーの文化や経済にも影響を与え、特に都市部ではカトリックの再興とともにバロック文化が栄えた。

 

17世紀のベルギー

17世紀のベルギーはスペインの支配下にあり、南ネーデルラントとして知られていた。この時期、ベルギーはカトリック教会の影響が強まり、バロック文化が花開いた。芸術、建築、音楽の分野で多くの傑作が生み出され、ブリュッセルやアントウェルペンなどの都市はヨーロッパの文化の中心地となった。しかし、八十年戦争の影響で経済は疲弊し、都市の復興には時間を要した。また、スペイン継承戦争(1701年-1714年)の勃発は、ベルギーの政治と経済にさらなる混乱をもたらした。

 

18世紀のベルギー

18世紀に入ると、スペイン継承戦争の結果、ベルギーはオーストリア・ハプスブルク家の支配下に置かれ、オーストリア領ネーデルラントとなった。オーストリアの統治下で、ベルギーは経済的な復興と発展を遂げた。啓蒙主義の影響を受け、行政改革や教育の整備が進み、産業革命の波が徐々に広がっていった。しかし、フランス革命の影響が強まると、1794年にフランス軍がベルギーを占領し、1795年にはベルギー全域がフランスに併合された。この変革の時期、ベルギーの社会と政治は大きな転換を迎え、独立への意識が高まっていった。

 

1702年 スペイン継承戦争の勃発

スペイン継承戦争が勃発し、ベルギーを含む南ネーデルラントは主要な戦場の一つとなった。ヨーロッパの主要列強がスペインの後継者問題を巡って争い、この戦争はベルギーの政治的および経済的状況に大きな混乱をもたらした。

 

1713年 オーストリアに併合

スペイン継承戦争の講和条約・ユトレヒト条約で南ネーデルラントはオーストリア・ハプスブルク家の支配下に置かれることになった。これにより、ベルギーはオーストリア領ネーデルラントとして再編され、オーストリアの統治のもとで経済的および行政的な改革が行われた。

 

1789年 フランス革命の勃発

フランス革命が勃発し、その影響がベルギーにも及ぶ。革命の理念と動乱はベルギーにおける政治的意識を高め、独立と自由を求める動きが活発化した。フランス革命の波及により、1794年にはフランス軍がベルギーを占領し、1795年にはベルギー全域がフランスに併合されることとなった。この併合は、ベルギーの社会構造と政治体制に大きな変革をもたらした。

 

1790年 ベルギー合衆国として独立宣言

オーストリアの中央集権的政策に対して、フランス革命に刺激された民衆が蜂起を起こす(ブラバント革命)。南ネーデルラントがベルギー合衆国として独立を宣言するも、まもなくしてオーストリア軍に鎮圧されてしまった。

 

1795年 フランスに占領

オーストリアがフランスとの戦争に敗れ、ベルギーは今度はフランスに占領される。フランスの支配下でベルギーは行政区分が再編され、フランスの法律や制度が導入された。この時期、ベルギーはフランス革命の理念を強く受け入れ、旧来の封建制度が廃止されるなど、大規模な社会変革が進行した。フランスの統治は、ベルギーの経済や文化に新しい影響を与え、後の独立運動の基盤となる政治的意識を醸成する契機となった。

 

近代ベルギー

19世紀には、ナポレオン戦争の戦後処理の為に開かれた、ウイーン会議において、フランスの再拡張を抑えるための緩衝地帯としてオランダに併合されます。しかしその後オランダからの分離独立を決定し、現在に続くベルギー王国が成立したのです。20世紀になると第一次大戦、第二次大戦と二度の大戦でドイツから侵攻を喰らう憂き目にあいますが、最終的にはどちらも連合国が勝利したため解放されています。

 

これにより、ベルギーは国際的にも独立性を確立し、特に両大戦後は国の再建と経済発展に注力しました。また、国際連合やヨーロッパ連合の創設メンバーとして、国際政治においても積極的な役割を果たしてきました。ベルギーは多言語国家としての特性を生かし、多文化共生のモデルともされています。

 

19世紀

1815年 ウィーン会議の開催/オランダに併合

ナポレオン戦争終結後のウィーン会議で、南ネーデルラント(=ベルギー)はオランダ(ネーデルラント連合王国)の支配下に置かれることが決定。

 

1820年代 産業革命の開始

ワロン地域(ベルギーの南半分)を中心に産業革命が始まる。鉄鋼業や石炭採掘業が急速に発展し、ベルギーはヨーロッパの主要な工業地帯の一つとなった。この産業革命は、ベルギーの経済成長を大きく押し上げ、都市化と技術革新を促進した。新しい工場や鉄道が建設され、労働者階級の人口が増加するとともに、社会構造にも大きな変化をもたらした。この時期の経済的繁栄は、後の独立運動と国民意識の高まりにも繋がっていった。

 

1830年 ベルギー独立革命の勃発/ベルギー王国の成立

オランダからの独立を求め、ブリュッセルを中心にベルギー独立革命が始まった。ヨーロッパ列強の支持もあり、立憲君主制の主権国家ベルギー王国として独立が果たされた。ベルギー独立革命は、ベルギー人の民族意識と自由を求める強い意志を示し、新たな国家の誕生をもたらした。

 

1831年 ブリュッセルがベルギー王国の首都に

ベルギー王国の首都としてブリュッセルが正式に選ばれる。新しい政府機関や王宮が設置され、ブリュッセルは政治、経済、文化の中心地として発展を続けることとなった。

 

1835年 大陸ヨーロッパ初の鉄道が開通

ブリュッセルとメヘレンを結ぶ大陸ヨーロッパ初の鉄道が開通。鉄道の開通により、ベルギー国内の交通と物流が大幅に改善され、産業革命の進展を加速させた。この鉄道は、ベルギーの経済発展に大きく寄与し、ヨーロッパ全体の鉄道網の発展にも影響を与えた。

 

1839年 ロンドン条約/完全な自治独立を達成

イギリスフランス、プロイセン、オーストリア、ロシア立ち合いのもと、オランダがベルギーの独立を承認。完全なる独立が果たされた。

 

1885年 コンゴ自由国の成立

ベルギー国王レオポルト2世により、アフリカ・ザイール川流域地帯に「コンゴ自由国」が建設された。しかし国家とは名ばかりのレオポルト2世個人の私有地に過ぎず、国王は現地に圧政をしき、従わない現地住民には手足を切り落とすなど残酷な刑罰を加えた。とことん搾取と暴力による支配に徹したため国際的な非難を浴びた。

 

20世紀前半

20世紀になると言語法を制定して南北に言語地域を二分します。その後さらに言語境界線が設けられ、それぞれに自治が付与。20世紀終わりには各地域政府とオランダ語、フランス語、ドイツ語の各言語共同体政府から成る連邦国家へ移行する憲法を制定し、ベルギー王国は世界でも珍しい連邦立憲君主制国家としての歩みを進めることとなったのです。

 

1908年 ベルギー領コンゴの成立

国王の暴政とそれによる国際社会からの非難を受けて、ベルギー政府がベルギー国王からコンゴを買取る。ここにベルギーの海外植民地としてベルギー領コンゴが成立し、現地の状況は多少改善された。

 

1913年 ヘントで万国博覧会開催

ヘントで万国博覧会が開催され、多くの国々から訪問者を迎えた。この博覧会は、ベルギーの産業、文化、技術の発展を世界に示す重要な機会となり、国際的な注目を集めた。

 

1914年 第一次世界大戦の勃発/ドイツ軍のベルギー占領

第一次世界大戦が勃発し、ドイツが中立国ベルギーに侵攻。これを受けたイギリスが、ロンドン条約の規定に従いドイツに宣戦布告。

 

1918年 第一次世界大戦の終結/ベルギー解放

ドイツが降伏し、ベルギーが解放される。第一次世界大戦中、ベルギーはドイツ軍に占領され、大きな被害を受けたが、連合国の勝利により解放された。戦後、ベルギーは復興と再建に努め、再び独立国家としての地位を取り戻した。ベルギーの戦争経験は、国民の連帯感を強化し、国際社会におけるベルギーの重要性を再確認させるものとなった。

 

1920年 アントウェルペンオリンピックの開催

ベルギー最大の都市であるアントウェルペンにて夏季オリンピックが開催された。競技場は第一次世界大戦で焦土となったところに急遽建造された。

 

1939年 第2次世界大戦の勃発/ドイツ軍のベルギー占領

ベルギーは中立政策をとろうとするも、ナチス・ドイツの侵攻を受ける。ドイツ軍を押し返せず降伏。ベルギー政府はイギリスに亡命。

 

1944年 ベルギー解放

第二次世界大戦中、ベルギーはナチス・ドイツに占領されていたが、1944年のノルマンディー上陸作戦を皮切りに連合軍が反攻を開始し、9月にベルギー全域が解放された。ベルギーの解放は、ヨーロッパ全土のナチスからの解放と戦争終結への大きな一歩となった。解放後、ベルギーは戦後復興と経済再建に取り組み、民主主義と平和の再構築を目指した。

 

現代ベルギー

戦後のベルギーは、急速な復興と経済成長を遂げました。1945年以降、国際連合や欧州連合(EU)の創設メンバーとして、国際政治に積極的に関与。また、冷戦時代にはNATOの本部が置かれるなど、西側諸国との結びつきを強化しました。経済面では、重工業からサービス業へと産業構造が変化し、特にブリュッセルは国際都市としての地位を確立。

 

内政では、言語問題を背景にフランドルとワロン地域の対立が続き、1970年代から始まった州制度の導入により、連邦国家へと移行しました。1993年には国王権限を縮小する憲法改正を実施。21世紀に入ってからも、ベルギーは多文化共生を模索しつつ、欧州の中心としてその役割を果たし続けています。

 

20世紀後半

1948年 ベネルクス関税同盟の発効/ブリュッセル条約の締結

ベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)による経済同盟「ベネルクス関税同盟」が発効された。また同じ年に北大西洋条約機構の先駆とされるブリュッセル条約が締結された。

 

1949年 北大西洋条約機構に加盟

ベルギーは、北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、本部をブリュッセルに置くこととなった。これにより、ベルギーは西側諸国の防衛同盟に加わり、冷戦時代における安全保障と防衛政策の重要な役割を担うこととなった。

 

1958年 ブリュッセルで万国博覧会開催

ブリュッセルで万国博覧会が開催され、世界中から多くの訪問者を迎えた。この博覧会は、ベルギーの経済、文化、技術の発展を世界にアピールする場となり、アトミウムなどの象徴的な建築物が建設された。博覧会はベルギーの国際的な地位を高め、観光と経済発展に寄与した。

 

1960年 コンゴ動乱(〜65年)

ベルギー領コンゴがコンゴ共和国としてベルギーからの独立を宣言。同時に独立に反対するベルギー人に対する暴動が発生し、これにベルギー軍が介入したことから、コンゴ動乱が開始された。

 

1993年 連邦制に移行

ベルギーは連邦制に移行し、フランデレン地域、ワロン地域、ブリュッセル首都圏地域の3つの地域と、フラマン語共同体、フランス語共同体、ドイツ語共同体の3つの共同体に権限を分散させた。この連邦制の導入により、各地域および共同体はそれぞれの文化や言語を尊重しながら自治を行うことが可能となり、国内の多様性を反映した統治体制が整備された。

 

1996年 マルク・デュトルー事件

ベルギーで発生した連続誘拐・虐待事件で、マルク・デュトルーが複数の少女を誘拐し虐待したことが発覚。この事件は、警察や司法当局の対応の不備や腐敗を露呈し、ベルギー社会に大きな衝撃を与えた。事件後、司法制度の改革や警察の再編成が行われ、市民の信頼回復を目指した取り組みが進められた。

 

21世紀

2001年 ベルギーの同性愛結婚合法化

ベルギーは世界で2番目に同性婚を合法化し、LGBTQ+の権利保障において重要な進展を遂げた。これは国内外で多くの支持を受け、ベルギーの人権政策の一環として評価された。

 

2002年 安楽死合法化

ベルギーは安楽死を合法化し、特定の条件下で医師による安楽死が認められるようになった。この法律は、患者の苦痛を和らげる権利を重視したものであり、世界的にも注目された。

 

2003年 エルディスキレングが首相に就任

ギー・フェルホフスタットが首相を務めた後、エルディスキレングが首相に就任。彼の政権は、経済改革や社会政策に焦点を当て、ベルギーの安定と発展に寄与した。

 

2010年 政治危機

言語共同体間の対立が激化し、政治的な行き詰まりが生じた。政府形成に541日を要し、ベルギーは長期間の政治空白を経験したが、最終的には合意に達し、新しい政府が発足した。

 

2014年 ミシェル内閣の発足

シャルル・ミシェルが首相に就任し、経済改革や移民政策を推進した。彼の内閣は、国内外で様々な課題に取り組むこととなった。

 

2016年 ブリュッセル連続テロ事件

ベルギーの首都ブリュッセルにて、ISILによる連続爆破テロ事件が発生。犯人3名含め、35名が死亡する。空港と地下鉄が標的となり、多くの負傷者を出したこの事件は、ベルギーとヨーロッパ全体の安全保障政策に大きな影響を与えた。

 

2019年 初の女性首相が就任

ソフィー・ウィルメスがベルギー初の女性首相に就任。彼女のリーダーシップは、特にCOVID-19パンデミックへの対応において重要な役割を果たした。

 

2020年 COVID-19パンデミック

新型コロナウイルスのパンデミックがベルギーを襲い、厳しいロックダウンや公共衛生対策が実施された。政府は経済的影響を緩和するための支援策を打ち出し、医療体制の強化に努めた。

 

2021年 ベルギーの気候対策強化

ベルギー政府は気候変動対策を強化し、温室効果ガス排出削減目標を引き上げる計画を発表。再生可能エネルギーの導入やエネルギー効率の向上に向けた取り組みが進められている。

 

古代ベルギーは、ゲルマン人とケルト人の混血部族ベルガエ人が住んでいた地域で、ローマ帝国の侵攻によりローマ化が進行しました。中世にはフランク王国の一部となり、後にブルゴーニュ公国やハプスブルク家の支配を受けました。近世では、ナポレオン戦争後にオランダに併合されましたが、1830年に独立を達成しベルギー王国が成立。第一次・第二次世界大戦でのドイツの侵攻に苦しんだものの、戦後はEUとNATOの中核メンバーとして復興し、国際的な政治・経済の舞台で重要な役割を果たしてきました。連邦国家への移行や多文化共生の推進が現代ベルギーの特徴です。