
モンテネグロの国旗
モンテネグロの国土
モンテネグロは、南東ヨーロッパの バルカン半島・アドリア海東岸に位置する 共和制国家です。国土は 24の基礎自治体で構成され、気候は 東部が大陸性気候、アドリア海岸が地中海性気候に属しています。首都は その歴史的経緯から様々な建築様式が混在する都市として知られる ポドゴリツァ。
主な産業は観光業、農業、製造業など。農業ではオリーブ・ブドウ・タバコ・穀物、工業では自動車や機械を生産しています。そんな モンテネグロの歴史は、14世紀にセルビアの支配から脱したモンテネグロ地方がゼタ侯国として独立したところから始まるといえます。15世紀からはオスマン帝国に支配に入るも、ツルノエビッチ王朝のもとで独自性を維持。19世紀にはモンテネグロ公国として自治が与えられたのち、ベルリン条約でオスマン帝国から完全な独立を果たします。20世紀になるとセルビアなどバルカン諸国とともにユーゴスラビアを結成するも、20世紀末に民族対立により崩壊。その後セルビアとともに新ユーゴスラビア連邦(のちにセルビア=モンテネグロに改名)を結成しますが、それも長続きせず2006年にセルビアから分離・独立して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなモンテネグロの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
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モンテネグロの地には古くからイリュリア人が支配的だったが、6世紀後半頃からモンテネグロを含めたバルカン半島全域にスラブ人が居住を始める。
モンテネグロ南部とアルバニア北部の領域にゼタ公国が成立する。15世紀にオスマン帝国に滅ぼされるまで、バルシッチ家、ラザレヴィチ家、ツルノイェヴィチ家などがゼタ公位を継承した。
現モンテネグロの首都ポドリゴリツァがオスマン帝国に征服される。以来同地には大規模な城塞が建設され、オスマン帝国の重要防御地点となった。
ツェティニェ主教公の統治する、オスマン帝国から独立した神権国家モンテネグロ主教領(ツルナ・ゴーラ府主教領)が成立した。依然オスマン帝国の強い影響力はあったが、自治権を持ち独自の文化を発展させるようになる。
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ナポレオン戦争(1802~15年)以後、バルカン諸国ではナショナリズムの高揚と共にオスマン帝国からの独立運動が活発になる。そんな中、ダニーロ1世がモンテネグロ公(クニャージ)を自称し、独立国モンテネグロ公国の成立を宣言。しかし事実上の宗主であったオスマン帝国はこの動きに反発し、翌年のクリミア戦争のきっかけの1つになった。
バルカン諸国のオスマン帝国からの独立にロシアが介入したことでクリミア戦争に発展した。ロシアの伸長を阻止したい英仏の支援を受けたオスマン帝国が勝利した。モンテネグロも挙兵したが、フランスの支援を受けたオスマン帝国軍に大敗した。
二コラ1世の治世でオスマン帝国からの独立を果たし、主権国家として国際的に認められた。
モンテネグロ史上初めて憲法が制定され、君主の称号も公から王に昇格したことで、モンテネグロ王国が成立した。
サラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発し、戦場となったモンテネグロは大きな被害を受けた。モンテネグロは連合国(協商国)勢力として参戦し、同盟国と敵対。その結果モンテネグロは、オーストリア軍の侵攻を受け、1916年には同盟軍勢力に占領された。戦後はモンテネグロを解放したセルビアに併合された。
セルビア、スロベニア、クロアチアによる連合国家ユーゴスラビア王国が成立し、モンテネグロもその一部となった。
ナチス・ドイツのポーランド侵攻が発端となり、第二次世界大戦が勃発した。
第二次世界大戦中、ユーゴスラビアは枢軸国からの侵攻を受け、モンテネグロはムッソリーニ率いるファシスト国家イタリア王国に占領された。
パルチザンにより枢軸国勢力は一掃され、ユーゴスラビアの6つの構成国の1つとして社会主義国家モンテネグロ人民共和国が成立した。
ユーゴスラビア連邦構成国が次々と独立を宣言し、ユーゴスラビア紛争に発展した。
連邦に残ったセルビアとモンテネグロにより連邦改編を行い、ユーゴスラビア連邦共和国が成立した。
アルバニア人が多数を占めるコソボがセルビアからの独立を宣言。それを認めないセルビア政府が軍事介入を行いコソボ紛争に発展した。モンテネグロには数万人のアルバニア避難民が押し寄せた。
ユーゴスラビア連邦共和国をセルビア・モンテネグロに改名。
住民投票によりセルビアからの分離独立が決定し、モンテネグロ共和国が成立する。これをもって1918年以来のユーゴスラビア連邦は完全に解消された。
新憲法を制定し、国名をモンテネグロ共和国からモンテネグロに変更。
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