
トルコの国旗
トルコの国土
トルコ(正式名称:トルコ共和国)は、ヨーロッパとアジアにまたがる領域に位置する 共和制国家です。国土は 「アナトリア」と呼ばれる小アジア半島と「トラキア」と呼ばれるバルカン半島南東部で構成され、気候区は 大部分が温帯に属しています。首都は トルコ革命の拠点となり、トルコ共和国独立が宣言された地として知られる アンカラ。
この国ではとくに 農業が発達しており、内陸部では小麦・ブドウ・テンサイなど、地中海沿岸ではオリーブ・オレンジ・レモンなどの生産がさかんです。また豊富な地下資源を背景にした鉱業、大理石産業などもこの国の基幹産業となっています。
そんな トルコの歴史は、11世紀この地に成立したトルコ民族の王朝セルジューク朝から始まるといえます。14世紀セルジューク朝がモンゴル帝国の到来で滅びると、代わって同じくトルコ系のオスマン帝国が台頭。同国は戦争により領土を拡大し、16世紀には小アジアだけでなくバルカン半島にも覇権を広げる大帝国に成長しました。しかし18世紀以降は衰退に向かい、20世紀の第一次世界大戦の敗戦で致命傷を負い崩壊。その後トルコ革命を経て、ムスタファ=ケマルのもと今日の領土にトルコ共和国の樹立が宣言され現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなトルコの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
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現在のトルコの国土であるアナトリア地域にヒッタイトが定住し、ヒッタイト王国を建国した。ヒッタイトはヨーロッパに鉄器をもたらしたが、前1200年に海の民によって滅ぼされた。
現在のトルコ北西部、ダーダネル海峡以南の都市トロイアに、アカイア人(古代ギリシア人の一派)の軍団が襲来し、トロイア戦争が勃発する。
古代ギリシア人の一派のイオニア人、ドーリス人がアナトリア沿岸に殖民を開始する。
アナトリア中西部にフリュギア人による王国が建国される。
アナトリア西部リュディア地方にリュディア王国が建国される。世界で初めて硬貨を導入した国となった。
アケメネスによりペルシア王国が建国され、やがてアナトリアを含めたオリエント世界全域を支配するようになる。ヨーロッパ進出も企てたが、古代ギリシアポリスの連合により阻止された(ペルシア戦争)。
アレクサンドロス大王率いる軍隊が、東方遠征の足掛かりとして、アケメネス朝ペルシア支配下のアナトリアに襲来。ペルシア軍の敗北と終わり、アナトリアはマケドニアの支配を受けることになった。
アレクサンドロス大王が死去し、その後継をめぐりディアドコイ戦争が勃発した。マケドニアの国土は分裂し、アナトリアは新たに成立したセレウコス朝シリアの支配下に入った。
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アナトリアの西部にヘレニズム国家の一つアッタロス朝ペルガモン王国が成立する。エウメネス2世の時に全盛期を迎え、神殿や劇場、図書館など多彩な施設を備えたヘレニズム世界屈指の文化都市となった。
セレウコス朝がローマの名将ポンペイウスに滅ぼされ、アナトリアの大部分はローマの属州となった
古代ギリシア人による植民市ビザンティウム(現トルコのイスタンブール)が、ローマ帝国の首都となり、コンスタンティノポリスと改名される。
皇帝テオドシウス帝の死にともない、ローマ帝国が東西に分裂し、アナトリアは東ローマ帝国の支配下に入った。
中央アジア初のトルコ系王朝カラハン朝が成立する。
現在のイラン・イラク・トルクメニスタンを中心とした地域に、トルコ系のイスラム王朝セルジューク朝が成立。
アナトリア東部のマンジケルトにて、セルジューク朝が東ローマ帝国を破り、アナトリアに進出したトルコ人によりルーム・セルジューク朝が誕生した。
ルーム・セルジューク朝はモンゴル帝国軍の侵攻を受け、キョセ・ダグの戦いで敗れる。以来アナトリアは政治的統一を失い、国家(ベイリク)が乱立する混乱期に入った。
オスマン1世によりオスマン朝が成立。同王朝は着実に勢力を拡大し、乱立していたアナトリアの諸勢力を統一し、オスマン帝国となった。
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ヨーロッパに進出を開始したオスマン帝国と、それを阻止したいセルビア公国との間で、コソボ平原を舞台に戦闘が行われる。このコソボの戦いに勝利したオスマン帝国は、セルビア、ブルガリア、ルーマニアを支配下に置いた。
ドナウ川河畔のニコポリスにて、オスマン帝国とヨーロッパ連合(ハンガリー、神聖ローマ帝国など)による戦闘が行われる。この戦いに勝利したオスマン帝国は、バルカン半島の支配を固め、ヨーロッパ諸国共通の脅威として東方に立ちはだかるようになる。
東方からティムール朝による攻撃を受け、アンカラの戦いにおける敗北で帝国は打撃を受けた。しかしメフメト2世の頃までに国力を回復した。
メフメト2世率いるオスマン帝国の軍隊により、東ローマ帝国の最後の砦コンスタンティノープルが落とされる。東ローマ帝国は滅亡し、東地中海の支配権をオスマン帝国が得たことで、ヨーロッパの商人による東方貿易が停滞する(=代わる対アジア交易ルートの開拓が開始され、大航海時代開幕のきっかけに)。
シリア北部のマルジュ・ダービクの戦いで、セリム1世率いるオスマン帝国軍がマルムーク朝を破る。翌年オスマン帝国は現エジプトの首都カイロを手中に収めた。
のちにオスマン帝国全盛期を体現することとなるスレイマン1世が即位。セリム1世の子で、先進的法典を作り、帝国の制度を整備したことから「立法帝」と呼ばれる。
プレヴェザの海戦でキリスト教連合(スペイン・ヴェネツィアなど)を破り、全地中海の制海権を握ることとなった。
モハーチの戦いでハンガリー王国を滅ぼし、オスマン帝国の勢力圏に組み込む。
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スレイマン1世率いるオスマン帝国軍による、ウィーン包囲戦が行われる。ウィーンは神聖ローマ帝国ハプスブルク家の牙城であり、オーストリア軍の必死の抵抗の結果、陥落は阻止された。
オスマン帝国海軍が、レパントの海戦でスペイン艦隊に敗れる。キリスト教勢力に対する初めての黒星であった。しかし半年ほどで艦隊を再建し、引き続き東地中海の制海権を握り続けた。
オスマン帝国軍は再度、神聖ローマ帝国の牙城・ウィーンに対して包囲戦を仕掛けるも失敗。この敗北をきっかけにオスマン帝国は衰退に向かっていき、大規模なヨーロッパ進撃作戦は行われなくなった。
長年敵対していた西欧諸国との関係が改善され、チューリップ時代と呼ばれる平和な時代が始まる。呼称はこの時期に西欧からチューリップが再輸入され(元々はトルコ原産)、栽培が流行したことに由来。
オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が和歌山県沖の海上で遭難し、500名以上の犠牲者が出る事故が発生。事故後は大日本帝国海軍の「比叡」と「金剛」が、生存者をイスタンブールまで送り届けた。
バルカン諸国の独立運動やロシアの南下政策の結果、オスマン帝国の国土は全盛期より大幅に縮小し、経済も「瀕死の病人」と呼ばれるほどに落ち込んでいた。このような状況に危機感を募らせた青年将校たちにより青年トルコ革命が引き起こされた。この革命により、スルタンの専制政治に終止符が打たれた。
オスマン帝国とバルカン同盟(セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ブルガリア)との間で戦争が勃発する。この戦争に敗れたオスマン帝国は、ヨーロッパにもっていた領土の大半を失った。
サラエボ事件に端を発し、第一次世界大戦が勃発する。オスマン帝国はドイツの同盟国として参戦し、敗北。帝国崩壊への大きな一歩となった。
大ギリシャ主義を標榜するギリシャ軍の侵攻を受けるも、撃退に成功。トルコ軍を率いたムスタファ・ケマルは後のトルコ共和国初代大統領。
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第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国の領土は、連合国によって分割占領されることとなった。これに対し、アナトリアでムスタファ・ケマルを指導者とした祖国回復運動が展開され、その過程で大国民議会を柱とする革命政権が樹立。帝政の廃止が決定し、オスマン帝国は滅亡、翌年にはトルコ共和国の成立が宣言された。この一連の過程をトルコ革命と呼ぶ。
大国民議会によりトルコ共和国の成立が宣言された。
ナチスドイツのポーランド侵攻に端を発し、第二次世界大戦が勃発する。トルコは中立を維持したが、大戦末期に連合国の勝利が決定的になると、連合国からの圧力によりドイツと日本に宣戦布告している。
戦後のトルコは反共およびソ連封じ込めの最前線として重視されるようになり、アメリカなどから経済・軍事援助を受けるようになる。北大西洋条約機構(NATO)に加盟するなど、反ソ・親欧米路線を明確にした。
軍事クーデターにより軍事政権が樹立。憲法改正により二院制が一院制に変更され、立法の迅速化が図られた。
トルコ北西部にて大地震が発生。1万7000人が死亡し、家屋崩壊で60万人が家を失うなど、未曾有の被害に見舞われた。
EU加盟条件に沿うために死刑制度を廃止した。
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