ヨーロッパにはまるで童話の世界から飛び出してきたような、美しく壮麗な歴史ある城がたくさんあります。ヨーロッパでは歴史的に数多くの侵攻や領土争いがあり、そのために防御の要となる城が数多く建造されたという背景があるからです。
また、地方領主が独立性を保つために城を築いたこともその数を増加させました。地政学的に見ても、山地や河川沿いなど戦略的に重要な位置に城を築くことで、自らの領域を守ると同時に他の勢力の進出を防ぎました。さらに、農業が中心の経済では、領主は農民を保護する代わりに税を徴収し、その税収をもって城を構築・維持していたのです。
以下でそんな城の役割、構造についてもっと詳しく解説していきますので、ヨーロッパの建築文化に興味のある人は是非参考にしてみてくださいね!
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誰もがイメージする上に高くそびえ立つ城、というのは民間人が住むところではなく、「為政者や軍の指揮官の住居」であり、政治や情報の拠点でした。山地や河川沿いなど交通・軍事・通商上の重要な拠点に建設され、支配域を守る為の防衛線として機能しました。
敵の侵攻や攻撃を防ぐ為に土や石で固め頑強に作られており、食料、武器、資金の備蓄場所でもありました。古来より他民族との侵略戦争を繰り返してきたヨーロッパ人には、このような場所は常に欠かせない存在だったのです。多くの城があるのは、ある意味必然といえます。
ヨーロッパの城は
などで構成されており、それぞれ以下のような役割を果たしています。
城を構築する平地や丘陵地域の周辺の土を掘りだし、城を取り囲む堀(壕)を造り、掘り出した土で造られた人口の山を「モット」と呼びます。モットの上に後述するキープ(天守)を建設しました。キープの周りは柵で囲まれた為、このような様式をシェル・キープ(貝型天守)と呼びます。
モットを造る為に掘り出し形成された壕や柵、城壁で囲まれている城の区域のことです。食料や武器、資金を備蓄する為の施設、教会や住宅までも建てられることがありました。1つの城に対し、二重にベイリーが造られることも多く、その場合内側(内庭)と外側(外庭)で異なる機能・役割が与えられていました。
城の構造は築城形式により異なりますが、代表的な築城様式で、「モット」と「ベイリー」から成る築城形式をモット・アンド・ベイリー様式と呼びます。いくつかある築城形式のうち、最も簡易なものといえ、中世以降ノルマン王朝によりイギリスに伝播しました。
中世ヨーロッパの城の中心的役割を担う建造物のことです。モット・アンド・ベイリー様式の場合は、モットの上に建てられますが、人口の山は地盤が弱いので、あまり重くて大きなキープは建てられません。日本の城の天守との類似性から「天守」と訳されます。平時には城主の住まいとして機能していました。形状は初期はシンプルな四角形でしたが、時代が下るにつれ、円筒形型、四つ葉型、多角形型など多彩になっていきます。
城の周囲をぐるっと囲む防壁ことで「幕壁(カーテンウォール)」とも呼ばれています。12世紀後半になると、城壁に一定間隔で外側に突き出た塔(側防塔)が設けられるようになり、そこから壁に取り付く敵に攻撃したり、高い位置から監視を行なうなど様々なことが出来るようになり、城壁は軍事機能の中心となっていきました。
城壁には内部に入るための城門があり、跳ね橋や落とし格子を使って開閉を行っていました。側防塔の中に門が組み込まれているか、門の脇を2基の塔が固めているか、どちらかの造りになっていました。キープの軍事的役割は城壁構築技術の発展に伴い薄れていきましたが、13世紀には城門とキープが一体となった「楼門(ゲートハウス)」と呼ばれる様式も登場しました。ゲートハウスは城壁の防衛機能に、キープの居住機能を併せ持つものでした。
胸壁とは、壁の上部に設けられた胸までの高さの壁で、城壁の上にいる兵士が敵からの攻撃を受けにくくするために作られていました。この壁の背後から兵士たちは弓矢や火器などを使って攻撃を行うことができ、防御の際の身を隠す役割も果たしていました。
狭間は、城壁や胸壁に開けられた細い穴で、ここから城内の兵士が外敵に対して弓矢や鉄砲を使って攻撃することができました。狭間は外に向かって広がっており、内側から広範囲を射撃することができるように設計されていましたが、外からは狙いにくい設計になっており、守備側の有利な位置にありました。
タレットは、壁から外側に突き出した小さな塔で、この突き出した部分から側面や斜め方向に攻撃することができるように設計されていました。タレットは城壁の盲点をカバーする役割も果たし、敵の接近を早期に察知する監視の役割も担っていました。
櫓は、塔や城壁の上に設けられた、屋根付きの構造物です。これは防御のための位置としてだけでなく、雨風をしのぐための避難所としても利用されていました。兵士たちが長時間の監視や防御任務を行う際には、櫓が一時的な避難や休憩の場所として非常に重要な役割を果たしていました。
小堡(バービカン)は、本来の城門の外側に設けられた追加の防御構造です。敵が城門まで到達する前に迎撃するために用いられ、城門と本丸を守る最初の防衛ラインとなることが多かったです。バービカンを構えることで、敵に対して二重、場合によっては三重の防御壁を提供することができ、城への攻撃をより困難にしました。
ヨーロッパの城の歴史は、古代から現代に至るまでの変遷を通じて、政治、軍事、建築技術の変化を反映しています。各時代の特徴を見ていきましょう。
古代のヨーロッパには、城と同様の役割を果たす要塞や砦が存在しました。例えば、古代ローマの「カストラ」や「ルディアメンティア」という軍事キャンプや要塞が挙げられます。
主に防衛のための構造で、石や木材で造られた壁や門、見張り塔がありました。ローマの防御施設には、高い壁、堀、パリサード(杭柵)などが特徴です。
要塞は、特にローマ帝国の領土防衛や領地の支配を維持するために建設されました。
中世はヨーロッパの城の建築が最も盛んになった時代です。城は領主の権力を象徴する建物として、また防御のための要塞として発展しました。
初期中世(5?10世紀)には、主に木造の「モット・アンド・ベーリー城」が建設されました。モット(Motte)は人工の丘、ベーリー(Bailey)はその周りの囲い地を意味し、簡易な防御構造でした。
12世紀頃からは、石造の居住塔(キープ、Keep)や厚い城壁を持つ堅固な石造りの城が主流になりました。例えば、イングランドのドーバー城やフランスのカルカソンヌ城などがあります。城の内部には礼拝堂、武器庫、食堂、住居などがあり、封建制度の中心地としての役割を果たしました。
十字軍の時代には、ヨーロッパ各地や中東に多くの城が建設され、その構造や防御技術も進化しました。
近世に入ると、火器(特に火薬の発明と大砲の使用)の発展により、中世の高い城壁や塔の形態は防御力を失っていきました。新たな要塞形式が発展し、「星形要塞」(スターフォート、Star Fort)や「バスティオン要塞」(Bastion Fort)など、低い城壁と広い土塁を持つ形式が一般的になりました。
この時代には、城は軍事拠点としての役割を縮小し、豪華な宮殿や貴族の住居としての役割が増加しました。例えば、フランスのヴェルサイユ宮殿やオーストリアのシェーンブルン宮殿などが代表的です。ルネサンスやバロック様式が影響を与え、城や宮殿のデザインはより装飾的で豪華なものとなっていきました。
近代に入ると、城は主にシンボルとしての役割を果たすようになり、純粋な軍事目的から離れました。19世紀のロマン主義の影響により、ゴシック・リバイバルやネオゴシック様式で再建された城が増えました。例として、ドイツのノイシュヴァンシュタイン城があります。
多くの城が貴族や王族の象徴的な住居として使用され続け、観光名所としての役割も果たすようになりました。一方で、産業革命に伴い、城の軍事的価値はさらに減少しました。
現代において、城は主に文化遺産、観光地、博物館としての役割を担っています。多くの城が修復され、文化財として保護されています。これには、例えばフランスのロワール渓谷の城群やイギリスのウィンザー城などがあります。
映画や文学、ゲームなどのメディアによって城のイメージが広まり、ファンタジー文学や映画においても象徴的な存在となっています。また、イベントや結婚式などの場としても使用されており、現代的な利用がされています。
ヨーロッパの城は、その時代ごとの技術、文化、社会状況を反映した建築物として、各時代に独自の発展を遂げました。時代ごとに異なる特徴を持ちながらも、いずれの時代においても権力と防衛の象徴として重要な役割を果たし続けました。
各機能は、ヨーロッパの城が長い時間をかけて進化する過程で発達したもので、城が単なる貴族の住居ではなく、軍事的な要塞であることを示しています。これらの設計は、城を攻める側にとって多くの障害をもたらし、防衛側に有利な条件を提供していたのです。
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