
東ローマ帝国の滅亡と聞くと、どこか遠い世界の壮大な物語のようですが、そんな歴史の大事件に対して「鍵の閉め忘れが原因だった」なんて説があるのをご存じでしょうか?
舞台は1453年、最後の皇帝コンスタンティノス11世が立てこもったコンスタンティノープル。そこに襲いかかったのは、若きスルタン・メフメト2世率いるオスマン帝国。
この記事では、「鍵の閉め忘れ」という一見バカバカしいけれど根強く語り継がれる説の正体、そして真に帝国を滅ぼしたのは何だったのかを、最新研究とともに追っていきます。
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まずは、東ローマ帝国がどのような経緯で終焉を迎えたのか、その全体像を見ていきましょう。
1453年、オスマン帝国のメフメト2世は約8万人の軍勢を率いて、東ローマ帝国の首都・コンスタンティノープルを包囲しました。これに対し、守備側の戦力はおよそ7千人とも言われ、絶望的な数的不利がありました。
コンスタンティノープル陥落(1453年)
ジャン・ル・タヴェルニエによる1453年の包囲戦を描いたフランス写本写しのミニアチュール。
出典:ジャン・ル・タヴェルニエ (-1462) / Public domainより
決定的だったのは、オスマン軍が持ち込んだ巨大な攻城砲──とくに「ウルバン砲」と呼ばれる超重量級大砲です。中世の城壁は弓や石に耐えるよう設計されていましたが、この新兵器の前には歯が立たなかったのです。
ウルバン砲を牽くメフメト2世の軍勢
ウルバン砲(別名「バシリカ砲」)を牽引しながらコンスタンティノープルへ進軍するオスマン帝国軍を描いた歴史画
出典:Fausto Zonaro / Public Domainより
帝都を守るはずだった伝説の城壁。その堅牢さと崩壊の背景を探ってみましょう。
5世紀、皇帝テオドシウス2世の命で築かれた城壁は、三重構造で幅12メートル、高さは最大で18メートルにもおよぶ要塞でした。これが長きにわたり、フン族、アラブ軍、十字軍の猛攻を何度も防いできたのです。
再建されたテオドシウスの城壁(コンスタンティノープル旧市街)
東ローマ帝国の都コンスタンティノープルを千年近く外敵から守り抜いた三重構造の要塞
出典:Bigdaddy1204 / CC BY-SA 3.0 Unportedより
メフメト2世はただの力押しではなく、ガラタ港から黄金角湾へ艦隊を陸送するという奇策や、兵士を夜間に壁際まで送り込む掘削戦術など、総合的な軍事戦略で包囲戦を進めていきました。つまり「砲で穴を開けて突撃」だけではなく、あらゆる手段が使われた総力戦だったのです。
では本題です。「東ローマ帝国は“鍵のかけ忘れ”で滅んだ」──あまりにインパクトが強く、耳に残るこの説。でも実際には、現代の歴史学界ではかなり否定的な見解が主流となっています。ではこの「鍵忘れ説」、そもそもどうやって生まれたのか? どこまで本当なのか? 詳しく掘り下げていきましょう。
この説の出どころは、当時の目撃者ではなく、後に編纂された年代記作家ルーカス・ノタラス(二世)による記述です。彼の報告によれば、城壁の一角にあったケルコポルテ(Kerkoporta)という小さな門が、1453年5月29日早朝にたまたま開いたままになっていたことで、50人ほどのオスマン兵がそこから侵入。これが決定的な突破口となり、都市全体にパニックが広がったとされています。
ですが──この話は、彼以外のどの同時代史料にも登場しないのです。
当時の市内外にいた13人以上のビザンツ人・ラテン人の証言では、この「ケルコポルテ事件」に一切言及されていません。しかも、門の存在自体が疑わしいという考えもあります。というのも、今日に至るまで、ケルコポルテに該当する遺構は発見されておらず、考古学的にも門の位置や構造が特定できていないのです。
こうした点から、2025年5月に発表されたファハメディン・バーサル教授(トルコ)の論考では、「この説は完全に神話化された後世の脚色であり、歴史的な信頼性はない」とバッサリ(※ソース)。ほかの欧米研究者からも、「この逸話はセンセーショナルな伝承にすぎず、事実として扱うのは誤り」との見解が多数を占めています。
それでもこの説が根強く語られる理由──それは「わかりやすくてドラマチックだから」。 複雑で多層的な軍事的要因より、「たったひとつの凡ミス」が帝国を滅ぼしたというストーリーの方が、人の心に残りやすいんですね。いわば、トロイの木馬やバベルの塔と同じ“象徴神話”として、歴史を語る中で一人歩きしてきたわけです。
そしてこの種の逸話は、「帝国の終焉には人間の過ちが付きものだ」という教訓めいた語りとしても親しまれてきました。ある意味、史実の再現というよりは、文明の盛衰を象徴する寓話のように扱われてきたとも言えるでしょう。
現代の英語圏史料や『ブリタニカ百科事典』などでは、コンスタンティノープルの陥落は次のような複合的要因によるものだとされています:
これらを総合すれば、城のどこか一か所が開いていたかどうかなどは、決定的な要因ではなくなります。たとえすべての門が閉じていたとしても、もはや勝敗の行方は変わらなかったというのが、今の学術界の共通認識なのです。
コンスタンティノープルのイメージイラスト
一次資料の数 | ルーカス一人の記述のみ |
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考古学的裏付け | 門の痕跡すら未発見 |
現代学者の評価 | バーサル教授らによって完全否定 |
メディアでの扱い | ロマン重視の伝説として紹介されがち |
本当の滅亡要因 | 火砲・兵力差・包囲戦術の複合 |
こうしてみると、「鍵の閉め忘れ」だけで千年帝国が崩壊したという説は、いかにもドラマチックで印象に残りやすいですが、実証性は限りなく低いのです。実際には、戦術・技術・政治のすべてが絡み合って、歴史のうねりの中で帝国は静かに──しかし確実に崩れていった。それこそが本当の“滅びの理由”だったのでしょう。
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