古代ヨーロッパで栄華を誇ったローマ帝国を継承する形で395年に成立した東ローマ帝国は、メフメト2世率いるオスマン帝国軍によって滅ぼされます。そしてその敗北の一因として「城壁の鍵の閉め忘れ」があるといわれています。
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東ローマ帝国最後の皇帝はパレオロゴス朝第11代皇帝コンスタンティヌス11世です。コンスタンティヌス11世は1405年に皇帝マヌエル2世の4男として生まれます。幼少期から兄達よりも優秀であったこともあり、1423年にはオスマン帝国への対策のため首都コンスタンティノープルを離れていた時にはコンスタンティヌス11世が摂政※として政治を行っていました。コンスタンティヌス11世は兄達をよく助けていたと言われています。
※摂政(Regent)は、国王や君主が未成年、病気、不在、またはその他の理由で国事を行うことができない時に、代わりに国政を執行する者を指します。ヨーロッパ史において、摂政はしばしば重要な役割を担ってきました。
1448年に兄の後を継ぐ形で皇帝となったコンスタンティヌス11世はオスマン帝国との平和条約締結に尽力する一方、1452年には西欧諸国からの援軍も受けるため長く対立していたローマ教会と正教会を統合させることを宣言しました。
しかし、コンスタンティヌス11世の政策はうまくいかず、西欧諸国の援軍を得られないまま1453年にオスマン帝国が攻めてきました。コンスタンティヌス11世は降伏することはせず戦うことを決め、開戦から2ヶ月ほど耐えましたが、最後は城壁を突破してきたオスマン帝国軍に突撃し、行方知れずとなりました。
コンスタンティノープルのイメージイラスト
コンスタンティノープルは、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって建設され、東ローマ帝国の首都として発展しました。アジア・ヨーロッパ交易路の中継点に位置することから世界中の様々な物や情報が溢れる、有数の世界都市になりました。また、正教会の首長がいるコンスタンティノープル総主教庁もあり宗教の中心でもありました。
東ローマ帝国滅亡後もオスマン帝国の首都として発展します。現在でもイスタンブールにある世界遺産アヤ・ソフィアは、東ローマ帝国時代に建てられ正教会とオスマン帝国時代のイスラム教モスクが融合した建造物です。
東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノープルには1000年の歴史の中で数多くの城壁が築かれました。中でも有名なのが「テオドシウスの城壁」という壁です。この城壁はテオドシウス2世の治世(在位:408年〜450年)に築かれたものです。
外壁と内壁の2層構造となっており、外壁の外には堀(現在は埋められている)まであったと言われています。外壁は厚さが2メートル、高さが9メートル、内壁は厚さが6メートル、高さが12メートルもあります。これらの壁は現在でも見ることができ、とくにトプカプ門とエディルネ門が綺麗に残されています。
この2つの壁のうち、東ローマ帝国が滅んだ原因と言われている「鍵の閉め忘れ」城壁がエディルネ門です。鉄壁を誇っていたコンスタンティノープルでしたが、この門の鍵を閉め忘れたことでオスマン帝国の兵士が侵入し帝国は滅んでしまったと言われています。
この「城壁の鍵の閉め忘れ」による東ローマ帝国の滅亡という逸話は、歴史的なドラマ性が強調された話の一つとして語り継がれています。しかし、その信憑性については多くの歴史学者の間で疑問視されています。
まず、当時の東ローマ帝国の防衛体制は非常に厳重であり、城壁の鍵の管理も徹底されていたと考えられます。コンスタンティノープルの陥落は、単に鍵の閉め忘れだけで説明できるほど単純なものではなく、むしろ様々な要因が複雑に絡み合った結果とされています。
一方、オスマン帝国側の記録や歴史的文献からも、この「鍵の閉め忘れ」に関する具体的な証拠は見つかっていません。オスマン帝国は、膨大な資源と軍事力を投入してコンスタンティノープルを包囲し、火薬を使った巨大な大砲など最新の兵器を駆使して城壁を破壊しました。城壁の防御力を上回る攻撃が行われたことが、都市陥落の真の理由と考えられます。
さらに、城内に潜む裏切り者や内通者がオスマン帝国に協力した可能性も指摘されています。内部からの支援があったことで、オスマン軍が効率的に攻撃を展開できたという説もあり、このような複雑な背景が帝国の最期を迎える要因となったと考えられます。
このように、「城壁の鍵の閉め忘れ」という逸話は、後世において物語的に強調されたものであり、歴史的事実とは異なる可能性が高いとされています。それでも、この逸話は東ローマ帝国の悲劇的な最期を象徴する一つの寓話として、今なお多くの人々に語り継がれているのです。
このような歴史的な逸話や伝説は、当時の社会や文化に影響を与え、後世に大きな印象を残すことがあります。歴史の真実を見極めることが難しい場合でも、こうした物語は人々の記憶に残り続けるものなのです。
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