オスマン帝国

オスマン帝国は1299年から1922年にかけて存在したイスラム王朝国家で、現トルコ共和国の前身です。もとはアナトリアの片隅の小国に過ぎませんでしたが、やがて東地中海世界全域を制し、ヨーロッパキリスト教世界最大の脅威として東方に立ちはだかるようになりました。一方で繁栄期に整備された中央官僚制度がヨーロッパ諸国のモデルにされるなど、ヨーロッパ世界の発展に貢献した面もあるのです。首都は旧ビザンツ帝国の首都イスタンブール(旧名コンスタンティノープル)。16世紀半ばの首都人口はヨーロッパ最大規模の約50万人にも達していました。

 

 

オスマン帝国の拡大

オスマン帝国は13世紀末、オスマン1世(在位:1299〜1326年)がトルコ系の小王国を統合・独立することで成立しました。そのヨーロッパ側への進出は、オルハン1世(在位:1324〜62年)の治世から開始され、ダーダネルス海峡の利権獲得から始まり、東方世界の盟主たる東ローマ帝国の領土を徐々に征服していきました。14世紀末にはバルカン半島の覇権を確立し、東ローマを孤立無援状態にしています。

 

この新興イスラム勢力の急拡大を危惧し、ヨーロッパ諸国は十字軍を差し向け何とか押し戻そうとするも、ニコポリスの戦い(1396年)で大敗を喫し、さらなる増長を許す結果になりました。そして15世紀半ばにはコンスタンティノープルを攻め落とし、ついに東方ヨーロッパ世界最後の砦といえる東ローマ帝国を滅亡させたのです。

 

ハプスブルク帝国との対峙

16世紀に入る頃にはアナトリア・バルカン全域を版図に組み込み、スレイマン1世(在位:1520〜66年)の治世で全盛期に達しました。以後イスラム圏拡大の防波堤としてハプスブルク帝国(神聖ローマ帝国の存在の重要性が増していきます。

 

拡大の影響1.大航海時代

オスマン帝国の東地中海世界制覇により、それまでヨーロッパ人(とりわけイタリア商人)の商業の要であった東方貿易(レヴァント貿易)が停滞してしまいます。しかしその損失を補う血路として開始した「大西洋航路の開拓」が、「地理上の発見」の連続につながり、ヨーロッパにさらなる富と進歩をもたらす結果になるのです。

 

拡大の影響2.宗教改革

イスラム帝国の台頭は、大航海時代と同時期に起こった宗教改革にも間接的影響を与えています。ヨーロッパではルターの宗教改革以降(1517年〜)カトリックvsプロテスタントの宗教紛争が繰り返され、オスマン帝国はその混乱をついてヨーロッパ世界への侵略を推し進めるようになります。しかしこうなるとさすがに、カトリック国の君主も、キリスト教圏を守るために一定の譲歩を行う必要に迫られ、プロテスタントの存在が徐々に認められていったのです。

 

 

オスマン帝国の衰退

最初にオスマン帝国の勢いを削いだのは、大航海時代の先陣を切ったハプスブルク朝スペイン王国でした。スペインはフェリペ2世(1556〜98年)の治世で、広大な植民地を持つ欧州屈指の強国(通称「太陽の沈まない国」)に成長し、ギリシャ南部レパント沖の海戦(1571年)で当初無敵といわれたオスマン帝国海軍を破っています。まだまだオスマン帝国に勢いはあったものの、後からしたらここで西進に歯止めをかけられたことは、はっきりと衰退の兆候であったといえるでしょう。

 

ロシアとの覇権争い

ビザンツ帝国がオスマン帝国に滅ぼされた少し後、北方のモスクワ大公国が「タタールのくびき」から脱却(1480年)。雷帝イヴァン4世(在位1533〜84年)の治世でロシア一帯を統一しました。そして18世紀にはロシア帝国となり、「南下政策」のもとオスマン帝国への侵略を開始するのです。

 

ヨーロッパ領土の喪失

ロシアとの度重なる戦争は、軍事費の増大とそれを補うための莫大な借金を生みました。さらに経済は西ヨーロッパへの農作物輸出に依存していたので、19世紀末に不作と西ヨーロッパの恐慌が重なると、「ヨーロッパの瀕死の重病人」と呼ばれるほどの経済危機に陥ってしまいます。

 

国力が落ちると、支配下のバルカン半島諸国では独立運動がさかんになり、バルカン利権を欲するロシアもそれを支援。産業革命で近代化を遂げた西欧列強の介入も重なり、20世紀初頭にはヨーロッパにもっていた領土の大半が失われたのです。

 

オスマン帝国の滅亡

オスマン帝国は、露土戦争後のベルリン条約(1878年)でセルビアの独立を承認、ボスニア・ヘルツェゴビナの支配権をオーストリア=ハンガリー二重帝国に移譲しています。しかしボスニアヘルツェゴビナはセルビア人が多く、「大セルビア」の建設を宿願としていたセルビアはこれを不満とし、オーストリアとの対立を深めていきます。

 

そんな中でオーストリア皇太子がセルビア民族主義者に暗殺される事件(サラエボ事件)が起き、ヨーロッパ全土を巻き込む第一次世界大戦(1914〜18年)が引き起こされてしまうのです。

 

この戦争でオスマン帝国はドイツ・オーストリア勢力として参戦しますが、結果は敗北。講和条約であるセーブル条約で「帝国」は事実上形骸化されてしまいました。そしてまもなくオスマン王朝に対する反乱が勃発(トルコ革命)し、1922年スルタン制度が廃止されたことで、ついに帝国は名実ともに崩壊してしまうのです。そして翌年にはアンカラ政府がトルコ共和国の成立を宣言し、現在に至っています。

 

ヨーロッパ化するトルコ

オスマン・トルコは18世紀の衰退期から、西欧の教育・技術・法・制度を積極的に吸収するなど西欧化を進めてきました(チューリップ時代)。第二次大戦後は、アメリカのヨーロッパ経済復興支援「マーシャルプラン」の対象になったり、北大西洋条約機構に加盟したりと、反共・反ソの最前線に立たされたことで、いっそうその傾向は強まっていったのです。色々な障壁がありまだ実現には至っていませんが、欧州連合(EU)加盟を望む声も強く、政治的にはほとんど「ヨーロッパの国」といっても差支えがないくらいになりました。

 

 

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