


オレンジ色の地域が東欧諸国(国連基準)
「東欧」という言葉、よく耳にしますよね。
でも実は、「どこからどこまでが東欧なのか」と聞かれると、答えはひとつではありません。国連の地域区分と日本外務省の区分では、含まれる国が違い、同じ“東欧”という言葉でも、思い浮かぶ地図が少しずつ変わってくるんです。
つまり、東欧という呼び方そのものが、見る立場によって揺れ動く存在。
地理だけで区切ろうとしても足りませんし、歴史や政治の流れを考えると、なおさら単純にはいかない。そんな、ひと筋縄ではいかない地域なんですね。
そこで本記事では、まず定義の違いごとに東欧諸国を整理し、そのうえで話を進めていきます。
地理、歴史、言語、宗教、気候、自然──いくつもの視点を重ねながら見ていくことで、東欧という地域の輪郭が、少しずつ立体的に見えてくるはずです。
東欧は「国の集まり」ではなく、重なり合う背景によって形づくられた地域。
なぜ東欧が「一言では括れない」のか。その理由を、順を追ってわかりやすく解説していきますね。
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東欧とひとことで言っても、その中身はかなり多彩です。
地理的にも歴史的にも、いくつもの要素が折り重なっていて、「こういう地域です」と簡単に言い切れない。その複雑さこそが、東欧を理解するうえでの入口になります。
東欧は、北はバルト海、南は黒海へとつながる広い地域に広がっています。
どこまでも続くなだらかな平野がある一方で、カルパティア山脈やバルカン山脈といった山岳地帯も抱えており、地形の表情はとても豊かです。
平野は人や軍、交易路が通りやすく、山は外からの影響を和らげる壁になる。 「開けた土地」と「守られた土地」が同時に存在する──これが、東欧の地理を語るうえで欠かせないポイントです。
この地理的な立ち位置は、東欧の歴史にそのまま反映されています。
東欧はヨーロッパとアジアの境目にあたり、古くから人・モノ・文化が行き交う交差点でした。ビザンツ帝国やオスマン帝国の影響を受けた地域も多く、キリスト教の中でも正教会が主流となる国が目立ちます。
西欧とは少し異なる宗教文化の空気感が、街並みや生活習慣に今も残っているんですね。
近代以降は、さらに複雑さが増します。
19世紀から20世紀にかけて、オーストリア=ハンガリー帝国やソビエト連邦の支配下に置かれた国が多く、国境や政治体制が何度も書き換えられてきました。だからこそ、東欧は歴史の層が何重にも重なった地域だと言えるのです。
文化の面でも、東欧はとても多様です。
スラヴ系民族が多数を占める一方で、ゲルマン系、ラテン系、トルコ系など、さまざまな民族が共存してきました。それぞれが言語や宗教、生活習慣を持ち込み、長い時間をかけて混ざり合っていったのです。
音楽や料理、祭りを見てみると、その影響は一目瞭然。
どこか懐かしく、でも一筋縄ではいかない。その独特の雰囲気こそが、東欧文化のいちばんの魅力なのかもしれません。
こうして見ると、東欧は「一言でまとめにくい地域」です。地理も歴史も文化も折り重なり、複雑だからこそ奥行きがある。その重なり合いこそが、東欧を理解するうえでのいちばんのポイントだといえるでしょう。
東欧(東ヨーロッパ)とは、ざっくり言えば「ヨーロッパの東側に位置する国々」を指す言葉です。
ただし、この「東欧」という呼び方、実はかなり曲者。どこからどこまでを含めるのかは、組織や立場によって少しずつ違っているんです。
たとえば日本外務省の区分では、国連が西アジア、あるいは中東として扱っている国々の一部も「東欧諸国」に含まれています。
つまり、「ここからここまでが東欧です!」と一本線を引くのは、なかなか難しいというわけですね。
こちらは、国連(UN)が統計や地域分析のために用いている「東ヨーロッパ」の定義です。
ポイントは、文化的イメージや政治的立場ではなく、あくまで国際的に共通で使いやすい整理基準としてまとめられている点にあります。
ウクライナ、ポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニアなどは、地理的にもヨーロッパの東側〜中東部に位置し、歴史的には東西の勢力がぶつかる「境界線」の役割を担ってきました。冷戦期には東側陣営に属していた国が多く、その経験は今も政治や社会のあり方に影響を残しています。
ロシア、ベラルーシ、モルドバ、ブルガリアなどを含め、共通して言えるのは、多民族・多文化が交差してきた地域だということ。言語も宗教も歴史もバラバラですが、長い時間をかけて互いに影響し合ってきました。
国連基準の東欧とは、似た国を集めた分類ではなく、共通の歴史空間を経験してきた地域のまとまり。
この視点を持っておくと、国際統計やニュースを読むときに「なぜこの国が東欧に入るのか」が、少し見えやすくなります。
(上記諸国+)アゼルバイシャン/アルメニア/ウズベキスタン/カザフスタン/キルギス/キプロス/コソボ/ジョージア/タジキスタン/トルクメニスタン
こちらは、国連の東欧定義に、日本外務省が独自の視点で対象国を加えた区分です。
純粋な地理区分というよりも、歴史的背景や政治・外交上のつながりを重視しているのが特徴です。
たとえば、アゼルバイシャン、アルメニア、ジョージアといった南コーカサスの国々は、ヨーロッパとアジアの境界に位置し、文化や歴史の両方の影響を強く受けてきました。
また、ウズベキスタンやカザフスタンなどの中央アジア諸国も、旧ソ連という共通の過去を背景に、東欧諸国と並べて扱われることがあります。
さらに、キプロスやコソボのように、地理的位置や国際的立場が少し特殊な国も含まれています。これらの国々は、ヨーロッパの政治や安全保障と深く関わっており、外交の文脈では東欧として整理されることが多いんですね。
日本外務省の区分は、地図上の線引きというより、歴史と国際関係を重ね合わせた見方。
だからこそ、東欧という地域の複雑さや広がりが、より立体的に浮かび上がってくるのです。
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東欧革命の連帯を象徴するバルトの道の写真
独立を求める人々が手をつなぎ、道に連なる巨大な人間の鎖。
冷戦末期の民主化と民族運動の熱量を視覚化した。
出典:『Baltijoskelias』-Photo by Rimantas Lazdynas/Wikimedia Commons CC BY-SA 3.0
| 世紀 | 主要な出来事 | 解説 |
|---|---|---|
| 1世紀~5世紀 | 古代ローマ時代の影響、ゲルマン民族の移動 | この時代の初め、東欧はローマ帝国の影響下にありました。5世紀にはゲルマン民族の大移動が起こり、東欧の社会構造に大きな変化をもたらしました。 |
| 6世紀~10世紀 | スラブ人の拡大、ビザンティン帝国の影響 | 6世紀からスラブ人が東欧に広がり、ビザンティン帝国の影響が特にバルカン半島で顕著になりました。スラブ文化が花開き、キリスト教の普及が進みました。 |
| 11世紀~15世紀 | 中世国家の形成、モンゴルの侵入 | ポーランド、ハンガリー、リトアニアなどの中世国家が成立しました。13世紀には、モンゴル帝国の侵入が東欧に大きな影響を与え、一時的な支配を行いました。 |
| 16世紀~18世紀 | オスマン帝国の進出、ポーランド・リトアニア共和国の形成 | オスマン帝国がバルカン半島に進出し、東欧の政治地図を再編成しました。ポーランド・リトアニア共和国が一時期ヨーロッパ最大の国家となりました。 |
| 19世紀 | ナショナリズムの台頭、オーストリア=ハンガリー帝国の影響 | 19世紀には、ナショナリズムの台頭と産業革命が東欧の国々に大きな変化をもたらしました。オーストリア=ハンガリー帝国が東欧の多くの地域に影響を及ぼしました。 |
| 20世紀 | 第一次世界大戦と第二次世界大戦、冷戦時代、ソビエト連邦の影響下、1990年代以降の変革 | 両大戦は東欧の歴史において極めて重要で、多くの国境変更と政治的変化をもたらしました。冷戦の終結とソビエト連邦の崩壊は、東欧諸国に民主化と市場経済への移行をもたらしました。 |
東欧の歴史は、一直線に積み上がってきたものではありません。
さまざまな勢力が行き交い、支配と自立を繰り返しながら、層のように重なって形成されてきました。時代ごとに整理していくことで、東欧という地域の輪郭が少しずつ浮かび上がってきます。
古代の東欧は、ギリシア・ローマ世界と北方・内陸世界をつなぐ中間地帯でした。
ローマ帝国の影響が及んだ地域もあれば、スラヴ系をはじめとする民族が独自の社会を築いていた地域もあり、早くから多様性を内包していたのが特徴です。
この時代、東欧は決して「中心」ではありませんでしたが、人の移動や交易、文化の伝播が必ず通過する場所でした。
周縁でありながら、歴史の流れに静かに組み込まれていった地域だったのです。
中世に入ると、東欧は宗教と帝国の影響を強く受けるようになります。
西からはローマ・カトリック、東からはビザンツ帝国を通じた正教会文化が広がり、地域ごとに異なる信仰と価値観が根づいていきました。
さらに、オスマン帝国の進出によって、イスラム文化の影響を受ける地域も登場します。 中世の東欧は、宗教と帝国が重なり合い、地域ごとに異なる歴史の軌道が分岐していった時代だったと言えるでしょう。
近世の東欧は、オスマン帝国、ハプスブルク帝国、ロシア帝国といった大国に囲まれ続けた時代です。
多くの地域で独立国家を持てず、支配者や国境が入れ替わる状況が続きました。
それでも、言語や宗教、生活習慣といった地域固有の文化は失われず、静かに守られていきます。
この積み重ねが、後の民族意識の土台となっていきました。
19世紀から20世紀初頭にかけて、東欧では民族意識が急速に高まります。
「自分たちは何者なのか」「どんな国を持つのか」という問いが、政治の前面に出てくるようになりました。
第一次世界大戦をきっかけに帝国が崩壊し、ポーランドやチェコスロバキアなどの新しい国家が誕生します。
ただし、独立は安定を意味するものではなく、東欧は再び不安定な時代へと入っていきます。
第二次世界大戦後、東欧の多くの国は社会主義体制のもとに置かれ、冷戦構造の一角を担いました。
政治や経済、言論の自由は大きく制限され、その経験は社会の深い部分に刻まれています。
20世紀末、冷戦の終結とともに体制は大きく転換しました。
EU加盟を進める国、独自路線を模索する国など、進む方向はさまざまですが、いずれも歴史の積み重ねの上に立った選択であることに変わりはありません。
こうして振り返ると、東欧の歴史は単なる受動の歴史ではなく、
変化を受け止めながら、自分たちなりの形を探し続けてきた過程そのものだと見えてきます。

黄金のドームが映えるアレクサンドル・ネフスキー大聖堂
ブルガリアの首都ソフィアを象徴する正教会大聖堂。
ネオ・ビザンティン様式の丸屋根が特徴で、東欧の宗教観を象徴。
出典:『Alexander Nevsky Cathedral - Sofia』-Photo by teodorpk/Wikimedia Commons CC BY 2.0
東欧の社会を見ていくと、まず感じるのは「一言では説明できない」ということです。 言語も宗教も、歴史の分岐点を何度も通ってきた結果、層のように重なり合っています。似ている国が集まっているようで、よく見ると一つひとつ個性がはっきり違う。その前提を頭に置いておくと、東欧の姿がぐっと理解しやすくなります。
| 言語 | 語派 | 主に話されている国 |
|---|---|---|
| ロシア語 | スラブ語派 | ロシア、ベラルーシ |
| ウクライナ語 | スラブ語派 | ウクライナ |
| ポーランド語 | スラブ語派 | ポーランド |
| チェコ語 | スラブ語派 | チェコ共和国 |
| スロバキア語 | スラブ語派 | スロバキア |
| ブルガリア語 | スラブ語派 | ブルガリア |
| セルビア語 | スラブ語派 | セルビア |
| クロアチア語 | スラブ語派 | クロアチア |
| ボスニア語 | スラブ語派 | ボスニア・ヘルツェゴビナ |
| モンテネグロ語 | スラブ語派 | モンテネグロ |
| リトアニア語 | バルト語派 | リトアニア |
| ラトビア語 | バルト語派 | ラトビア |
| ハンガリー語 | フィノ・ウゴル語派 | ハンガリー |
| ルーマニア語 | ロマンス語派 | ルーマニア、モルドバ |
| アルバニア語 | インド・ヨーロッパ語族 | アルバニア、コソボ |
| ギリシャ語 | インド・ヨーロッパ語族 | ギリシャ |
ヨーロッパで使われている言語を大きく見渡すと、全体の主流はインド・ヨーロッパ語族です。 遠い昔に共通のルーツを持つ、いわば「言語の親戚関係」。ただし、同じ語族でも中身はかなり違います。
たとえば、イギリスやフランス、ドイツ、スペインといった北西ヨーロッパでは、ゲルマン語派やイタリック語派の言語が中心です。英語、ドイツ語、フランス語など、日本でも比較的なじみのある言葉ですね。
一方、ロシア、ウクライナ、スロベキア、ベラルーシ、ブルガリア、ポーランドなど、東欧諸国ではスラブ語派が主役になります。
文字の形や音の響きも、西ヨーロッパとはかなり印象が違い、「同じヨーロッパでも、こんなに違うんだ」と感じる部分です。
さらに言えば、東欧の言語がすべてインド・ヨーロッパ語族というわけではありません。
たとえばハンガリーでは、まったく系統の異なるウラル語族の言語が使われています。
東欧の言語分布は、国境線ではなく歴史の積み重ねがそのまま表れたモザイク。
そう捉えると、言葉の違いがそのまま地域の歩みを物語っていることが見えてきます。
宗教の面でも、ヨーロッパは非常に奥行きのある地域です。全体としてはキリスト教が文化や価値観の土台になっており、カトリック、プロテスタント、正教会という三つの大きな流れに分かれています。
このうち、東ヨーロッパで特に存在感が大きいのが正教会です。起源は東ローマ帝国、いわゆるビザンティン帝国の時代。そこから信仰とともに文化が伝わり、現在ではギリシャ、ロシア、セルビア、ブルガリア、ルーマニアなどで主要な宗派となっています。
これらの国々では、正教会は単なる信仰の場にとどまらず、生活や伝統と深く結びついています。祝祭日や年中行事が教会暦を基準に動いていることも多く、「宗教=文化そのもの」という感覚が自然に根づいているんですね。
一方で、日本の外務省が東欧として分類している国の中には、イスラム教が多数派を占める国も含まれています。代表的なのがボスニア・ヘルツェゴビナとアルバニアです。
ボスニア・ヘルツェゴビナでは、多民族国家という背景の中で、イスラム教徒であるボシュニャクが大きな割合を占めています。アルバニアでも、イスラム教は国の主要な宗教のひとつとして、社会や文化にしっかり影響を与えています。
こうして見ていくと、東ヨーロッパは「言語」も「宗教」も一色ではありません。 歴史の分かれ道を何度も通ってきたからこそ、多層的で奥深い地域になっている。そんな空気感が、じわっと伝わってきますね。

寒暖差が際立つロシア平原
見渡す限りの東ヨーロッパ平原が広がる内陸の景観。
季節の振れ幅が大きい大陸性気候の特徴を想起させる。
出典:『Russian plain near Rostov-on-Don』-Photo by Vyacheslav Argenberg/Wikimedia Commons CC BY 2.0
東欧の気候は、「これです」と一言でまとめられるほど単純ではありません。
同じ東欧でも、場所が少し違うだけで体感はガラッと変わります。暑さと寒さの振れ幅が大きい地域もあれば、意外と穏やかに感じる土地もある。まずは、大きな流れから順に見ていきましょう。
東欧の広い範囲を占めているのが、この大陸性気候です。
特徴はとてもわかりやすく、夏はしっかり暑く、冬は遠慮なく寒い。とくに内陸部ではその傾向が強く、年間の気温差がかなり大きくなります。
真夏は日差しが厳しく、真冬は雪と氷が当たり前。
季節ごとの表情がはっきりしていて、「今は冬」「今は夏」と体で理解できる、メリハリの効いた気候です。
バルト海や黒海に近い地域では、気候の印象が少し変わります。
海の影響を受けるため、冬の冷え込みがやわらぎ、夏も極端な暑さになりにくいのが特徴です。
内陸に比べると寒暖差は控えめで、年間を通して比較的安定。
「東欧=厳しい寒さ」というイメージをいい意味で裏切ってくれるエリアでもあります。
カルパティア山脈やバルカン半島の山岳地帯では、はっきりと山岳気候が現れます。
気温は低めで、降水量は多め。標高が上がるにつれて、冬は雪の量も一気に増えていきます。
同じ国の中でも、平地と山地ではまったく別の季節感になることも珍しくありません。
山があることで、東欧の気候はさらに立体的になっているんですね。
ウクライナ東部や南ロシアの一部には、ステップ気候が広がっています。
夏は乾燥し、冬は厳しく冷え込む。森林よりも草原が主役の地域で、視界を遮るものがほとんどありません。
見渡す限り続く地平線、強く吹く風、広い空。 東欧の気候は、地形と結びつくことで、驚くほど多彩な顔を見せる──そんなことを実感させてくれるエリアです。
東欧の気候は、地理・海・山・高度といった条件が複雑に重なり合って生まれた、多層的な世界です。地域ごとの差が大きいからこそ、「東欧はこういう気候」と一括りにはできません。そこがまた、東欧という地域の奥深さでもあるんですね。

東欧の地形を縁取るカルパティア山脈の写真
深い森林と山並みが続き、東欧の地形を象徴する。
山地が気候や往来の“境界”として機能してきた。
出典:『Carpathian Mountains, Romania』-Photo by Gary Todd/Wikimedia Commons CC0 1.0
東欧の自然環境は、とにかくスケールが大きめです。
山が境界をつくり、川が文明を運び、土地のかたちそのものが歴史を動かしてきました。地図で見ると静かでも、実際は人の営みと深く結びついてきた地形ばかり。その「重み」を、順番に見ていきましょう。
東欧を語るうえで欠かせないのが、カルパティア山脈やバルカン山脈といった山地の存在です。
これらの山々は、単なる自然の風景ではなく、民族や国家を分ける自然の境界線として機能してきました。
山があることで、人や軍の移動は制限され、文化や言語の違いが生まれやすくなります。
一方で、山岳地帯は外部からの影響を受けにくく、独自の伝統が残りやすい場所でもありました。東欧の多様性は、こうした山地によって守られてきた面もあるんですね。
山とは対照的に、東欧には広大な平野も広がっています。
とくに有名なのが、東ヨーロッパ平原。起伏が少なく、見渡す限り続く大地は、人やモノの移動をとてもスムーズにしてきました。
その結果、この地域は交易路としても、侵入路としても使われやすくなります。 東欧の平野は、繁栄と緊張の両方を引き寄せてきた舞台。
農業に適した豊かな土地である一方、外からの勢力が何度も通過していった理由も、ここにあります。
東欧には、ドナウ川やドニエプル川、ヴィスワ川といった大河が流れています。
これらの河川は、交通路であり、交易路であり、都市が生まれるきっかけでもありました。
川沿いには人が集まり、都市が育ち、文化が流れていく。
また、バルト海沿岸や内陸の湖沼地帯も含め、水辺は東欧社会の基盤を長く支えてきました。水の存在が、東欧を「つながった地域」にしてきたんですね。
東欧は内陸のイメージが強いかもしれませんが、実は海とも深く関わっています。
バルト海沿岸では北ヨーロッパとの交易が行われ、黒海沿岸では地中海世界や中東と結びついてきました。
港を通じて、人・モノ・思想が流れ込むことで、内陸とは違った文化が育つ。
海岸部は、東欧が外の世界と出会うための「窓口」だったと言えるでしょう。
山でも平野でもない、高原や台地も東欧の地形を語るうえで欠かせません。
これらの地域は、農牧業に適した土地が多く、安定した生活基盤を築きやすい環境でした。
極端な条件が少ない分、長期的な定住が進み、地域ごとの文化や社会がじっくり育っていきます。
派手ではないけれど、東欧の暮らしを足元から支えてきた地形。そんな存在です。
こうして見ていくと、東欧の地形はただの背景ではありません。
山・平野・川・海、それぞれが役割を持ち、歴史と社会に影響を与えてきました。
東欧を理解するには、まずこの「土地のかたち」を知ることが、いちばんの近道なのかもしれませんね。
以上、東欧の特徴について、地理・歴史・宗教・自然・気候・言語といった、いくつもの視点から見てきました。
どこか一面だけを切り取っても、東欧の全体像は見えてきません。むしろ、視点を重ねるほどに「簡単には言い切れない地域なんだな」という実感が強まってくるはずです。
山と平野がつくる地形、東西の勢力が交差してきた歴史、言葉や信仰の重なり合い。
それぞれは別々の要素に見えて、実は深く結びつきながら、東欧という地域の輪郭を形づくってきました。
多様な要素が折り重なることで、東欧は一言では括れない独自の文化とアイデンティティを育んできた。
それこそが、東欧の理解をむずかしくし、同時に惹きつけてやまない理由でもあります。
派手さはなくても、じっくり向き合うほどに見えてくる奥行き。
静かだけれど、確かな存在感──それが、東欧という地域の持つ魅力なのです。
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