コジモ=デ=メディチとは何をした人?~学芸振興でルネサンスに貢献~

コジモ=デ=メディチとは

コジモ=デ=メディチは15世紀フィレンツェの銀行家であり政治指導者であった。学芸振興に尽力しルネサンス文化の発展に貢献したことで知られる。本ページでは、このあたりのバックグラウンドと後世への影響について詳しく掘り下げていく。

コジモ=デ=メディチとは何をした人?~学芸振興でルネサンスに貢献~


コジモ=デ=メディチの基本情報

 

異名:イル・ベッキオ(祖国の父)
誕生:1389年フィレンツェにて
死没:1464年フィレンツェにて
地位:メディチ家当主/フィレンツェのゴンファロニエーレ(最高執政官)
政策:学芸の保護・振興によりルネサンス文化の発展に貢献


コジモ=デ=メディチ(1389年 - 1464年)は、イタリア・フィレンツェ出身の政治家で、メディチ家党首としてその後の一家繁栄の基礎を築いた人物として知られます。異名(称号)は文化・芸術振興で多大な貢献をしたことから「イル・ベッキオ(祖国の父)」。
金融業により莫大な富を築き、民衆からの人気を背景に1435年ゴンファロニエーレ(最高執政官)に選出。都市国家フィレンツェの支配者として君臨するようになりました。その治世において、対外的にはミラノヴェネツィアなど融和政策につとめ、内政面では芸術保護、古典文学収集、哲学研究(「プラトン=アカデミー」の建設)など文化・芸術・学術に莫大な投資をすることで、イタリア・ルネサンスの中心地としてフィレンツェの国際的地位を高めることに貢献しています。



コジモ=デ=メディチの生涯

1389年 誕生

フィレンツェにて銀行業で財を成したジョヴァンニ=デ=メディチの子として生まれる。


1429年 メディチ家当主に

父ジョヴァンニが亡くなりメディチ家の当主となる。


1433年 フィレンツェ追放

政変によりフィレンツェを追放され、ヴェネツィアに逃れる。


1434年 フィレンツェ帰還

アルビッツィ家が失脚し、フィレンツェ共和国に帰還を果たす。


1439年 フィレンツェ公会議の開催

銀行業の得意先・教皇庁に申し入れをし、カトリック・東方教会合同の公会議がフェラーラからフィレンツェに移転された。


1464年 死去

フィレンツェ郊外の別荘にて死去。没年74歳。当主は子のピエロが受け継いだ。