アイルランドの国旗
アイルランドの国土
アイルランド(正式名称アイルランド共和国)は北西ヨーロッパにあり、グレートブリテン諸島の西・北大西洋上に位置する共和制国家です。アイルランド島と周辺の島々で構成された島国です。首都はヨーロッパ有数の金融センターとしても知られるダブリン。
国土の7割が農地に利用されている農業国として有名で、とくにジャガイモや小麦の生産がさかんです。広大な牧場も保有しており、バターやチーズといった食品加工業も重要産業の一つとなっています。
9世紀頃にこの地にノルマン人が渡来し、先住のケルト人と交わることでアイルランド人の基礎がつくられました。イングランド(イギリス)による植民地支配の歴史が強く、完全な独立国となったのは1949年とわりと最近です。アイルランドの歴史というとよくイースター蜂起、アイルランド独立戦争、アイルランド内戦、北アイルランド紛争など近代の出来事に目が行きがちですが、これらは中世以来続くイギリスの植民地支配に対する反抗の頂点に過ぎません。そこに至る過程や原因を知って初めてアイルランドの歴史を理解できたといえるでしょう。ここではアイルランド独立に至るまでの過程を年表形式で具体的に紹介しています。
古代アイルランドについては、アイルランド島にローマの支配が及ばなかったこともあり、わかっていることはそこまで多くありません。しかし発掘調査などで前7500年頃にアイルランド島に人類が初めて上陸し、前3000年頃には新石器が、前2500年頃には青銅器が(主に農耕に)使われだしたことがわかっています。そして前5世紀から前4世紀頃にヨーロッパ大陸よりケルト人が渡来し、彼らが主体となって古代アイルランドの文化形成を担っていくことになりました。その後のアイルランドにはいくつものケルト部族が乱立していましたが、2〜3世紀頃には五大勢力に落ち着き、中でも有力なアード・リーが「上王」としての称号を得てアイルランドの覇権を握りました。
9世紀以降、バイキングの侵入で社会的混乱期に入りますが、11世紀初めのクロンターフの戦いでバイキング勢力を打ち破り、アイルランド人の政治的独立は保たれました。しかし12世紀になるとイングランド王ヘンリー2世に征服され、以後800年にもおよぶイングランドの植民地支配を受けることになります。中世末期にスコットランドの介入もあり一時的に自治を取り戻しますが、すぐにイングランドの支配に戻ることになりました。
5世紀頃になると聖パトリックによりキリスト教がアイルランドにもたらされました。現在聖パトリックはアイルランドの聖人として敬われています。
アイルランドに分立する領主が争いを繰り広げる中、レンスター地方の領主ダーマット・マクモローがノルマン人騎士に救援要請。これをうけノルマン人はアイルランドに侵攻した。
イングランド軍がウォーターフォードとダブリンを占領し、王領都市として宣言する。
アイルランド王の手引きで、スコットランド軍がアイルランドに進軍。イングランド勢力が攻撃され、イングランド人に奪われた多くの土地がアイルランド人の元へ戻った。
都市部でペストが流行し、イングランド勢力が衰退。ペスト収束後、一時的にアイルランド文化が活気づいた。
近世になり、16世紀にはイングランド王ヘンリー8世がアイルランド王を自称するようになります。同化政策が加速する中、アイルランド人による独立運動もたびたび起こりましたが、そのたびに弾圧され、17世紀のクロムウェルによるアイルランド侵攻で頂点に達しました。
クロムウェルの侵攻後、アイルランドは大きな苦難を経験しました。土地の大量没収とカトリック教徒への厳しい宗教的迫害が行われ、多くのアイルランド人が土地を失い、奴隷としてカリブ海へと送られました。この時期における激しい抑圧は、「アイルランドの解体」とも称され、アイルランド社会に深刻な打撃を与えました。これらの出来事は、アイルランド人のアイデンティティとナショナリズムに火をつけ、独立への強い動機となりました。後のアイルランド独立戦争の根底には、この時代の出来事が大きく影響しています。
1455年 バラ戦争の勃発
イングランドで30年にもおよぶ内戦「バラ戦争」が勃発。長年の戦争による疲弊で、アイルランドにおけるイングランドの影響力が低下する。
イングランド教会がローマ教会から分離したことで、イングランド国教会が成立。大量のプロテスタントがイングランドに流入し、カトリックを国教とするアイルランドと対立が深まる。
アイルランド貴族のトーマス・フィッツジェラルドがイングランド王に対し反乱を起こす。しかしすぐに鎮圧され、返ってアイルランドへの圧力が強化される結果となった。
カトリック勢力のキルケニー同盟が蜂起を起こす。アイルランド同盟戦争に発展し、これに勝利したカトリック教徒は一時的にアイルランドの支配権を取り戻す
清教徒革命の指導者として知られるオリバー・クロムウェルがアイルランドに侵攻。カトリック勢力は徹底的に弾圧され、アイルランドは完全にイングランドの植民地にされた。
名誉革命で追放されたイングランド王ジェームズ2世が、フランス軍を率いてアイルランドに上陸。プロテスタントのウィリアム3世支持派と、カトリックのジェームズ2世支持派が衝突しウィリアマイト戦争の勃発した。最終的にジェームズ2世が敗れ、アイルランドのプロテスタント支配が確立された
近代アイルランドは、激動の時期を経験しました。1798年には、フランス革命の影響を受けてアイルランドでも反乱が発生しましたが、この反乱はイギリスによって鎮圧されました。1801年、アイルランドはグレートブリテンと合同し、イギリスとアイルランド連合王国が成立しました。しかし、カトリック教徒の権利回復や自治を求める運動が続きました。
19世紀後半には、「アイルランド問題」がイギリス政治の主要な議題となり、多くの自治法案が提出されましたが、成立には至りませんでした。1916年のイースター蜂起は、アイルランド独立運動の象徴的な出来事となり、その後の1919年から1921年にかけてのアイルランド独立戦争へと繋がりました。
1921年には、イギリスとの間でアイルランド自由国の設立が合意され、1922年に実現しましたが、この合意はアイルランド内戦を引き起こしました。1937年には新憲法が採択され、エイモン・デ・ヴァレラ首相のもとでアイルランドは「アイルランド」としてのアイデンティティを確立しました。1949年には共和国としての完全な独立を宣言し、イギリス連邦からの離脱を果たしました。この期間、アイルランドは政治的にも文化的にも大きく変貌を遂げ、独自の国家アイデンティティを確立しました。
2年にわたる寒波がアイルランドを襲い、大飢饉が発生。食糧難で40万人もの農民が死亡した。
イギリスがアメリカ独立戦争の対処に追われたことで、アイルランドへの影響力が弱まる。アイルランド議会の地位向上に繋がった。
フランスにてのちに「フランス革命」と呼ばれ近代西洋史への転換となる市民革命が勃発する。アイルランドでもこの革命への共感が高まり、アイルランド議会におけるプロテスタント勢力衰退という結果を招いた。
アイルランドの革命家ウルフ・トーンによって、イギリス支配からの独立を掲げるユナイテッド・アイリッシュメンが設立される。1798年に反乱がピークを迎えるたが、最終的には同年、タラの丘での戦闘でイギリス軍に鎮圧された。
アイルランド議会が廃止され、1800年可決の連合法に従い、アイルランドはイギリスに完全に併合。グレートブリテンおよびアイルランド連合王国の成立した。
ヨーロッパで卵菌の疫病が流行し、主要作物のジャガイモが枯渇するジャガイモ飢饉が発生。アイルランドはとくに深刻な飢餓に陥り、餓死や国外脱出で、最盛期800万人いた人口が、1911年には440万人までに減少した。
チャールズ・スチュワート・パーネル主導で、アイルランドに自治権を付与しようとする政治的動きが始まる。アイルランド民族主義者とユニオニスト※の対立が激化。
※ユニオニストとは、イギリスに帰属を求める者のこと。アイルランド島全体ではナショナリストが優勢だったが、北東部のアルスター地方では多数派を占めていた。
20世紀に入り、独立運動が活発になりイースター蜂起、アイルランド独立戦争を経て、アルスター地方など北部6州を除く南部26州からなる、アイルランド自由国が成立。イギリス連邦内の自治領に昇格しました。その後ウエストミンスター憲章が成立し、イギリスと対等の主権国家に昇格。国名をエールと改称、アイルランド憲法を施行し、内政自治権を獲得することで共和制移行を実現します。第二次世界大戦後にはイギリス連邦を離脱したことで、アイルランドはついに長年の植民地支配から脱却し、完全なる自治独立を達成しました。
アーサー・グリフィス主導でアイルランド独立を掲げる民族主義政党シン・フェイン党が結成される。アイルランド語で「われら自身」という意味。はじめは弱小政党だったが18年の選挙で圧倒的支持を得て国民議会を創設。イギリスに対し独立戦争を挑むことになる。
イギリスにてアイルランドに一定の自治権を認める法律が成立する。独立運動を抑え懐柔する目的があったが、第一次世界大戦で実施は延期された。これが独立派の不満を高め、アイルランド独立戦争に繋がっていく。
アイルランド義勇軍が、ドイツの支援を受けイギリスへの反乱「イースター蜂起」を起こす。反乱はただちに鎮圧されたが、蜂起の指導者達が処刑されたことで、国内におけるナショナリストへの支持が高まった。
イギリス支配から解放を求め、アイルランドの民族主義者らが武装蜂起。アイルランド独立戦争が勃発した。しかし第一次世界大戦による疲弊で戦争を続ける余裕のなかったイギリスから休戦を提案。英愛条約の締結をもって終結した。
アイルランドとイギリスの間で、アイルランド独立戦争の休戦条約「英愛条約」が結ばれる。条約に基づき、イギリスから分離した26地方からなるアイルランド自由国が樹立した。英愛条約の内容は、あくまでイギリス帝国内の自治領に留まり、イギリス国王への忠誠を求められるというものなので、不満を抱いた独立派は多く、アイルランド内戦に発展した。
アルスター地方のうち6州(現・北アイルランド)はイギリスの統治下にとどまったことで、アイルランドの分断も決定的なものとなった。
アイルランド自由国の成立を定めた英愛条約の内容※をめぐり条約賛成派と反対派が対立。アイルランド内戦に発展する。アイルランド独立戦争以上の犠牲者が発生した。
アイルランド自由国憲法に代わる憲法としてアイルランド憲法が公布される。新憲法ではイギリス王室や総督への忠誠の誓いに関する規定が廃されている。また国号をアイルランド自由国からアイルランド(アイルランド語で「エール」)に変更した。
ナチスドイツのポーランド侵攻に端を発し、第二次世界大戦が勃発。アイルランドは国としては中立の立場を表明したが、数万人が義勇軍として英軍に加わった。
アイルランド共和国の成立を宣言し、イギリス連邦から離脱を表明した。800年以上のイギリス支配に終止符が打たれ、完全な自治独立を果たした。
現代アイルランド(20世紀後半以降)は、経済的変革と社会的進歩が顕著な時期です。1970年代には経済危機に見舞われましたが、1990年代に入ると情報技術産業の急成長により「ケルトの虎」と呼ばれるほどの経済ブームを経験しました。この時期、外国直接投資が増加し、アイルランドは欧州の経済的中心地の一つへと変貌しました。
社会面では、カトリック教会の影響力が徐々に減少し、同性婚の合法化(2015年)や妊娠中絶の合法化(2018年)など、進歩的な社会改革が進みました。また、EU内でのアイルランドの役割は拡大し、国際政治においても一定の影響力を持つようになりました。
経済的には、2008年の世界金融危機による不況を経験しましたが、その後の回復は迅速で、高い経済成長率を再び記録しています。現代アイルランドは、多様性と包摂性を重視する国として、また強固な経済成長を続ける国として、その地位を確立しています。
北アイルランドの領有をめぐってはイギリスとの対立が長らく続きましたが(北アイルランド紛争)、1998年のベルファスト合意と、その後の国民投票で領有権放棄を決めたことで、一応の終結となりました。
同年2月8日に行われたアイルランド総選挙において、北アイルランドを含めた統一アイルランド建設を目指すシン・フェイン党が、史上最多の37議席を獲得し躍進した。
アイルランドの歴史は、古代から現代にかけて様々な変遷を経ています。古代にはケルト文化が栄え、キリスト教の導入により文化的な変革が進みました。中世にはノルマン人の侵攻を受け、その後長期にわたって英国の支配下に入ります。16世紀のヘンリー8世の時代から、アイルランドは英国の同化政策の影響を受け、多くの抵抗と反乱が続きました。19世紀には大飢饉が発生し、多くのアイルランド人が移民としてアメリカへ渡りました。
20世紀に入ると、アイルランド独立戦争を経て1922年に独立を達成し、アイルランド自由国が成立しました。その後、1949年に共和国が宣言され、英国連邦から完全に独立しました。経済的には、1990年代の「ケルトの虎」と呼ばれる高度経済成長を経験。しかし、2008年の金融危機で大きく揺らぎましたが、その後は回復を遂げています。現代のアイルランドは、経済成長と共に社会的進歩も遂げており、同性婚の合法化や妊娠中絶の合法化など、進歩的な社会改革が進んでいます。
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